第2話『水の章』
私が生まれたのは海も山もある、大きな都市の郊外の街。まだ昭和の時代だ。市内を流れる川を屋上から望める大きな産婦人科で産まれたらしい。市民の多くはこの病院を選び、溢れた妊婦は市内あちこちの産婦人科を仕方なしに選ぶ。
今は随分と出産を巡る環境が整ってきたようで、最初から他の産院や産婦人科を選ぶ妊婦も多いと聞くが。
この世に生を受けて最初の記憶。
私の人生の幼少期から小学生にかけて、多大な恩を受けた一家がいた。母の知人だったようだが詳しいことは知らない。
集団就職で東北地方からこの大きな街に出て来て数年は割とまじめに働いていたそうだから、きっとその頃に出会った一家では無いだろうか?
集団就職を知る人も今は少ないと思うが、簡単に説明すると。
まだ少子高齢化なんて言葉が無かった時代。地方の農家では多産が当たり前で、現に母は9人兄弟の上から4番目であった。当然のように「全員を進学させる」なんて無駄なことはしない。大抵は長男次男のみを進学させることになったし、たとえ余裕があっても女を進学させるような時代では無かった。
母の実家は「豪農」であったが、中学校卒業と同時に、就職組として電車に乗せられ、遠くの大きな会社に就職することになった。
大きな会社である理由は、集団就職してきた女子を受け入れる体制を築き上げているから。
社員寮然り、福利厚生から結婚相手の斡旋然り。
どんな業種だったかを聞いたことは無かったし、いつ結婚したのかもよく分からないが、私は2番目の子である。不幸にも私の姉になるはずだった赤子は流産してしまい、改めて妊娠したのが私であるらしい。
母が21歳の時に私が産まれたので、流産した子からの経緯を考えると、15歳でこの街に来て就職。そして18歳で結婚したのだろう。
(19歳で初の妊娠から流産、気を取り直してまた子作りに励んで20歳で妊娠、21歳で出産と言うタイムテーブルは強ち間違えてはいないと思う)
父の情報は驚くぐらい少ない。記憶に無いのではなく「情報を与えられていない」のだ。職業は電気技師であり、昭和40年代前半に結婚して「自家用車」を持っていたところから、決して貧しい家庭ではなかったように思う。
毎晩、ビールの大瓶を2本、晩酌として飲んでいたのだから、暮らしぶりも良かったのではないだろうか?
その父がどこの生まれで、父方の親戚がどこにいて・・・と言う話を一切知らない。
記憶の中の父は優しい男だった。
晩酌と言えば、父は無類の缶詰好きであったのか、当時は皆がそうだったのか。
今も売っているブランドの鮭の水煮缶の封を切り、直接コンロの火で温めて肴にしていた。それなりに味にはうるさい男であったようで、「湯豆腐」は絶品であった。
母は元々は料理が出来る女ではなかったようなので、夫の薫陶よろしく腕前を上げて行ったのだろう。
大きな土鍋の中心に薬味を入れた醤油入りの「湯呑」を置く。
グラグラと沸騰させないように注意しながら昆布と豆腐を入れて温める。
他には長ネギ程度だったと思うが、幼少期の思い出なので、見逃している具材もあるかも知れない。
そうだ、たまに「銀鱈」の切り身が入っていた。
今はお高い魚になったが、昔は鮭と変わらないほど安い魚であったし、味わいの似た「ムツ」と言う魚の切り身も流通量が多かった。
鯨は稀に食卓に上る程度であったが、まだまだ当時の「食肉」に占める割合は高かったように思う。
私の実家では「鶏肉を好んでいた」と言うだけだろう。
近所に住む母の知人女性。私はこの方を「ばあちゃん」と呼んでいた。姓を近藤と言う。近所に住むと言っても4~500メートルは離れている。
そんな「ばあちゃん」の家まで、2歳の私が一人で歩いて行き
「ばあちゃん、メシくれ」と言ったの言わないのは笑い話になった。正直、「良い母では無かった」のではないかと邪推してみた。
2歳児が「飯が欲しくて4~500メートルも離れた家まで一人で行くか?」と言う話なので。
母が寝たまま起きないので、仕方なしに「ばあちゃん」を頼ったのだろう。
または、未熟児で産まれた弟の世話にかかり切りだったのか。
幼少期の私には友達が多かったようで、「メンコ」勝負ではかなり強かった記憶がある。
「良い遊び」では無いのだが。
メンコ勝負で負けると、そのメンコを相手に奪われる。
早い話が「賭博の原型」であるから、かなりの数のメンコが貯まった時に、父にまとめて捨てられた記憶がある。米袋に1杯あったから、「悪い遊び」にハマる前に辞めさせたかったのだろう。
父は優しく、常識人であったのだ。
ただ、誰とメンコ勝負をしていたのか記憶に無い。
同じ年代の子供相手だろうとは想像出来る。あの時代は公園に行けば子供だらけだったはずだから。
そんな外遊びをするようになると、昼飯の時間も惜しんで遊ぼうとするようだ。
昼飯時になると、私は家の玄関前で「母ちゃん、飯は?」と尋ね、そんな時母が手にしてくるのは「味噌を塗ったおむすび」であった。
あの頃の味噌はきっと美味かったのだろうな。
昭和50年ころまでは、味噌は酒屋で量り売りしていたので、多種多様な「味噌」が美しい立錐に盛られ、近所の主婦はその味噌をその場でブレンドしてもらっていた。
そう言えば「味噌の専門店」を見たことが無い。
それぐらい、味噌は生活の中で「当たり前にある調味料」であった。
私はよく転ぶ子であったらしい。
コレは今でも名残があるが、「左右の区別」があやふやであった。
流石に今は間違えないが、写真に並んだ物品の左右を間違えて書いてしまうことが結構ある。
左にあるコップを「右のコップには~」等と書いてしまったりと言う可愛いレベルだが。
青っぽい下地に童話か仮面ライダーか、何かのキャラが描かれたズック(今の人に通じる言葉だろうか?)の左右をよく間違えて履いていたようで、靴を履く時に「ほら、また右左を間違えてる。だからあんたはよく転ぶのよ」と叱られた記憶がある。
私の「幼少期」は5歳を境に分断されている。
十分な収入があったはずだが、住んでいたのは父が勤める電設会社の倉庫を改築したモノであった。記憶を手繰ってみると、親子4人で2kの狭い家に住んでいたように思う。
元が「倉庫」なので不便であったのではないだろうか?
家は貧しいが、カラーテレビは町でも早く購入した方で、近所の人がテレビを観に来ていた。お茶や茶菓子を持参して、近所付き合いの一環として。
数年前だが、この時期の「実家」があった跡を訪ねたことがあった。偶然、近所を歩いていたことがその理由であるが、その敷地は驚くほど狭かった。
奥行きは普通乗用車よりもちょっと長いくらい。横幅は7~8mだろうか?
隣にある自動車工場の「自動車置き場」になっていた。
そして今はある程度の土地拡張をして、一戸建てがある。
倉庫を改築したと言う出鱈目さは間取りにも現れていて、何故か風呂場が広い。幼い子供をトイレに行かせるよりも、風呂場でションベンさせた方が苦労が無い。
コレがウジ虫の大量発生を招いたのだが、まあ当時はそんなものは当たり前にあった事柄だ。
何せ、「ごみの収集」すら無かった時代だ。
若い者には俄かには信じがたいことだと思う。
昭和40年代は町の生活道路のあちこちに「共用のゴミ箱」が設置されていて、家庭ごみはいつでもこのゴミ箱に放り込めばよかった。
収集車はこのゴミ箱からごみを収集して、当番の住民がゴミ箱を掃除する。
その後、この「共用ゴミ箱システム」は廃止されたが、各家庭で出たごみはビニール袋に詰めて「集積場」に運ぶ方式が長く続いた。
私の育った時代背景や、私がどんな暮らしをしていたかと言う説明はここまでである。幼少の私たち2人兄弟を襲った不遇の話は次回のエピソードで語ろうと思う。
人生の中で「夜の時代」を感ずる時期は必ずあるものだ。
全ての「歯車」が狂い始めたのは、憶測ではあるが母が「マイホーム」を欲した時からでは無いだろうか?世の女性の多くが「住まい」を求めるように思えるのだ。のちの話になるが、私の弟も妻の強い要望で一戸建てを買うことになり・・・のちの話に譲ろう。
母の知人で、私の乳母でもあった「近藤さん」が笑いながら語ったことがある。
「洋二、おまえは賢い子だよ。夫婦喧嘩が始まるとお前は必ず包丁を隠したもんだ(笑)」
こんなエピソードを聞いたのが5歳頃だったと思うが、既に記憶に無かったことから、多分3歳ぐらいの頃のことであろう。
そのくらい両親の喧嘩は激しいものだったのだろうし、記憶に残っている夫婦喧嘩では、母は怯えて黙り込んでいたので、きっと父が刃物を持って振り回していたのだろう。
何故、そこまで激しい喧嘩になるのかと言えば、父の稼ぎだけでは足りないと判断して、母が「水商売のアルバイト」を始めたから。子供にとっては災厄でしかない。夜の仕事では朝が辛いので、私は保育園に通わされるようになった。弟は多分、親戚の家に預けられていたのだろう。私は4歳頃から保育園通いするまでは割と「しっかりした子」だったようで、つまりは手のかからない子であったようだ。
それでも保育園に通うのは嫌だった。保母さんが鬼に思える日もあったわけであるからして、それでは通うのも嫌になる道理である。
朝、母はどうにか起き出して朝食の用意を済ませ、父を送り出すとまた布団に戻る。
「8:21」という数字を今でも覚えている。つけっ放しのテレビの時間表示が「8:21になったら起こして」と母が言い残すからである。私は保育園に通うのが嫌であったが、とぼけて起こさないでいると、こっぴどく叱られるので、自分から独房に還る囚人の気持ちで母を揺りおこすわけだ。「分単位」で寝ていたいほどの生活だったのだろうか?
保育園も悪くは無いが、「○○しないとお家に帰さないぞ~」と言う脅し文句が怖かったものだ。
一番最悪だったのは「お昼寝の時間」である。保母さんにとっては休憩時間みたいなものであっただろうから、「寝ない子は困る」
だから脅かすわけだ、「寝ない子は家に帰れないよ」と。
涙ぐみながら眠ることも出来ず、1時間以上を硬い布団の上で過ごす。子供にとっては二重の意味で拷問となる。
子供にそんな思いをさせてまで水商売のアルバイトを続けていた母であるが、アルバイト先が少々タチの悪い店で。
今、「キャバ」と言えば「キャバクラ」を連想する人が大多数であろうが、昭和の昔は古式ゆかしい「キャバレー」の全盛期。ホステスと呼ばれるきらびやかなキャストが客の横に侍り、店のステージでは場末のバンドマンの演奏や、ちょっとした演芸が披露されている。
そんな店をチェーン展開している法人も、同じホステスも「客」も一癖も二癖もある者ばかりである。日付が変わる前に帰宅するはずの妻の帰宅が深夜に及ぶと、父は激高したものだ。
「どうせ客とオマンコしてたんだろうっ!」
コレである。嫉妬に狂った男の醜悪さを凝縮したような無様さを見せてくれた。またある日はアルバイトに行かせまいと、大事な衣装であった和服を居間に引きずり出して灯油をかけて燃やして見せたりと、私のこの「動じない精神」を育んでくれたことには感謝せざるを得ない。
ある春の日のことである。私はまだ5歳だった。この記憶が正確である根拠があって、ソレは5歳になった日に、車のバックミラーに映る自分を見て「5歳になったんだ」と思った記憶があり、その頃はまだ母は家にいた。
6歳からは小学校に通うようになるので、この後の激動の日々はたった1年に満たない間のことであろう。
引っ越した記憶は無い。多分乳母である近藤さん、私は「ばあちゃん」と呼んでいたが、そのばあちゃんの家に預けられていたのあろう。
ふと、思いだすのは「何もない新築の平屋」の洋間のカーテン越しに見た晴れた日の明るさ。もちろん、両親は離婚していた。あれだけの夫婦喧嘩や今で言うDVを繰り返せば離婚になっても不思議ではない。そして、親権を父が取ったと言うのも業の深い話である。当時も今も「親権は母親」と言う風潮があり、加えて母は水商売とは言え収入があり、乳母である近藤家と言うバックアップもあった。
それでも親権を取らなかった母である。
恨み言を言うつもりは無い。あの時は「親権を取らない」と言う判断をしたと言うだけだろう。
父は電気技師なので朝早くに家を出る。冷蔵庫におにぎり3個と卵焼きを3切れ入れて・・・
1食ごとにおにぎりをひとつと卵焼きを一切れ。
弟は親戚の家に預けられていた。流石に父一人で、仕事をしながら二人の子育ては荷が勝ちすぎたのだろう。
全ては推測でしか無いから「であろう」とセンテンスを締めている。両親はとうに鬼籍であり、当時を知る知己も彼岸に渡っている。
近藤さんについて書いておこう。母の知人であり、きっと面倒見の良かった人。私が赤子の頃からことあるごとに預かっていたようだ。今で言えば「虐待」と思われそうだが、赤子とは言え室内を動き回るので危ないこともある。私はテレビの脚に紐で繋がれていたそうだ。当時のテレビはまだ高級家電で、立派な箱に脚を付けて居間に鎮座していたものである。
その時に、ばあちゃんがうっかり畳に落とした縫い針を私が踏んでしまい、ちょっとした騒ぎになったとか、笑い話になったとか。
近藤さんの家には姉妹がいた。今思えば綺麗な人であった。私が4~5歳の頃にはもう小学校高学年だったはずだ。長女は、地元では有名な「工科大学」に入学し、次女さんは早々に結婚したように記憶している。
私を「預かる」と言っても、そこはやはり他人の子だ。夕食の団欒には入れなかった。そもそも、近藤さん夫婦に子供が二人に、どちらの筋かは不明だったが、夫婦の弟さんが同居していた。そうだ、思いだした。「恒男さん」と言う、肉体労働者系で、立派な体格で優しい男であった。
団欒の食卓に5人も座ればもう隙間は無いわけで、私は隣の部屋に置かれた小さなちゃぶ台に乗せられた食事を食んでいたものだ。
「居候、3杯目はそっと出し」なんて言葉があるが、飯のおかわりは出来たがおかずがない。大抵は多めに作った煮魚が一切れとか、目玉焼きが1個だった。なので私は2杯目の飯に、おかずの汁をかけて食ったものだ。目玉焼きにかけた醤油だって油混じりになればそれなりに「食える」ものだし、煮魚の汁ともなればご馳走だ。
後年、私はその近藤さん一家が住んでいた住宅の横を車で通る仕事をすることになる。関東と関西とではイメージが違うが、関東では「文化住宅」と呼ばれていた市営の住宅で、その狭さに唖然となったものだ。
6畳二間に狭いキッチン、今で言えば2kの間取り。
いや、最初は気付かなかった。数か月もその家の前を通り、やっと思いだした次第だ。
昭和40年代は皆が貧しく、皆が逞しかったのだなと感慨に耽る時代になり、年齢になった。近藤さん一家には感謝しかないのは言うまでもない。
「よその子」を預かると言うのは、慣れた者でもストレスフルであったであろうから・・・
話を戻そう。
父との二人暮らしは楽しいものではなかった。父が親権を取った理由は「復縁を迫るため」であったからである。つまるところ、離婚となった理由はお互い様であろうが、父は母にぞっこん惚れていたわけで、私と弟は復縁を迫るための道具に過ぎなかった。
弟は少々発育が悪く、親戚の家に預けられていた期間が長かったはずだ。
家具らしい家具も無い新居での、父と二人暮らしは楽しいものではなかった。
引っ越してしまったのでトモダチもいない。毎日、冷蔵庫にあるおにぎりと卵焼きを1つずつ食べる生活が続いていたわけだが、夜もまた楽しい生活とは程遠かった。
父が帰宅すれば、多少は可愛がってもらえるなどと言う考えは甘かった。
父は別れた妻に未練・・・いやアレはもう「執着」としか言いようのないものだったから。ほぼ毎晩、父は私(と言う名の復縁の道具)を連れて母を捜し歩く生活を始めたから。
記憶は多くは無い。
ただ乗用車の後席に乗せられて何時間も走る。「どこそこの店で働いている」と言う噂を聞きつけては、その店に私を伴って突撃するわけだ。
時間は深夜にも及ぶこともあった。流石に日付をまたぐことは無かったろうが・・・
ある日は、市内からかなり離れた森の中にあるドライブインのようなスナックに。
ココで出された「ホットカルピス」は飲めた代物では無かった。今でも「温かいカルピス」は苦手だ。
繁華街の路上に車を停め、ドアから飛び出していく父を見送った日も多いが、一番記憶に残っているのは、とあるスナックの階段の下での出来事。
階段を上がった2階のスナックに母がいると言う、かなり信憑性の高い情報を入手した父は、最終兵器である私を連れてその階段の下で作戦を練ったようだ。
結論はこうだ。
「お母さんがこの上にあるお店にいるから呼んで来い」
5歳児にとって、それは恐ろしいほどの「冒険」に感じられた。いや、どんな5歳児だって、どことも知れない場所に一人で突撃して来いなんて言われれば怖気を振るうだろう。数分のことだったと思う。
私は嫌がり泣いた。
父は「お母さんに会いたくないのかっ!」と突然激高し、私の顔面を殴った。数発は殴られたと思う。そして鼻血を出してうずくまる私を見て我に返ったのだろう。
着ていた「濃い灰色の作業着」の袖を破り、私の鼻血を拭いて、ポケットから出した紙で鼻をふさいでくれた。
根は悪い男ではなかったのだろう。
ティシューでは無かった、硬い紙を揉んで柔らかくしたものは、どうやっても鼻に入れるのは痛い。
この後の記憶は無い。
ただ、「育児放棄」が始ったようである。結局は子供の面倒を見る気が無い男である。近所の人の通報で、市役所の人がやって来て保護したらしい。そして母に連絡して、引き取るように勧告したと言う経緯だったのだろう。
同時に弟も親戚の家から母のもとに返された。
親権は父のままであるが、養育は母がすることになった次第である。
子供にとって必要なのは父親よりも母親。
こんな常識が今でもまかり通ってることに憤りを覚えずにいられない。離婚してシングルマザーになり、まだ若い母は恋人を作り、内縁関係になり・・・
そして虐待が始まる。
シングルマザーに近づく男の多くは「婚姻関係」を嫌がるようだ。女の連れ後を虐待、虐待死させる男はほとんどが「内縁関係」だと思えるのは私の錯覚だろうか?
男は「前夫の子」を嫌うのだろう。
全ての「内縁関係の男」がそうだとは言わないが、内縁関係の男が子を殺したなんて話は毎年10件は起きているのではないだろうか?
母との暮らしも楽しいものではなかったように思う。キャバレーのホステスはアルバイトから「専業」になり、子の贔屓目ではなく、美人であった母はそのキャバレーで指名No1になった。
夕方になると念入りに化粧をして出勤する。
当然、深夜まで帰らない母を、弟と一緒に過ごすことになる。コレがものすごく淋しかった。何度も「お腹が痛い」とか、「具合が悪い」アピールで出勤する母を足止めしようとしただろうか?
最初は狭いアパートで一緒に暮らしたが、「子供連れになるなら出て行け」と言うことになった。このアパートでは、住んでいた男子大学生が多少は遊んでくれたので、寂しさも多少は紛れたが。
次に住んだのはキャバレーが用意していた「寮」であった。この寮は住民のほぼ全員がホステスであったし、同年代、同じような事情の子供も数人いた。
このアパートで私たち子供が「ボヤ騒ぎ」を起こした。空き室に忍び込んで火遊びをしたのだ。誰が言い出したのか分からない。もしかしたら私が率先して、和室の真ん中で焚火を始めたのかも知れない。一通りの興奮が収まって、火を消そうと思ったが、生憎、空き室の水道は停まっていた。私は仕方が無いので「外から砂を運び込んで消火」したのだが、これでは熱がこもるばかりで「消火」とまでは行かない。
いや、火を着けたまま放置していたらアパートは全焼していただろうから、何もしないよりはマシだったのだろう。
そして、煙に気付いた住人が消火した。その時に尋ねられたのが「誰が砂をかけるなんて方法を考えたの?」と言うことだ。
幼い子の集団である。嘘を吐く知恵も無く、私が砂をかけたことはその場でバレた。
「どこで知恵をつけたのかねぇ?」と言う言葉を今でも覚えている。
このボヤ騒ぎで私たち親子はこの寮を追い出された。当たり前の話だが。
この寮には良い思い出が多い。
ほぼ全員がホステスである。なのでみな「優しいお姉さん」ばかりだった。少なくとも母よりは優しかったのだ。お風呂に入れてくれたり、シャンプーの時に泡が目に入って痛いと言えば「シャンプーハット」を買って来てくれたり。母が出勤したあとも、休んでるホステスが一緒にいてくれることもあった。そう度々ではなかったが…
次に住んだのは狭い1kのアパート。第二次オイルショックの頃ではなかっただろうか?母は巷間にのぼる噂を信じてトイレットペーパーを買い溜めしていたから。そしてそのトイレットペーパーは私たち兄弟の格好のおもちゃになった。たった1回だけだが。トイレットペーパーで全身をぐるぐる巻きにして「ミイラこっご」をした。ふと思うのだ。
何故、5歳の私が「ミイラ」なんてものを知っていたのだろうか?
ミイラが出てくるような絵本を見た記憶は無い。
トイレットペーパーを無駄にしたと言うことでひどく叱られはしたが、子供のいたずらと言うことで大事にはならずに済んだ。
深夜に帰宅する母は、店が終わった後に客に連れられて食事をすることが多かったように思う。昼間は寝ているので、私たちの食事の支度をするのも面倒だったのだろう。客におねだりして、巻き寿司の折り詰めや、ちょっとした弁当のようなものを持ち帰って来て、ソレが私たち兄弟の食事になった。巻き寿司の折り詰めの包み紙と、折り詰めを縛っている短い紐で「凧」を作って遊んでいた記憶がある。
供の創意工夫は素晴らしいものだ。
また、母の財布から小銭をくすねてお菓子を買うことを覚えたのもこの頃だ。
小銭程度でもバレて、何度も叱られはしたが。
そして季節はクリスマスシーズンとなった。キャバレーでは客に「クリスマスケーキを売る」キャンペーンを始まる。ホステスに強請られて客はケーキを買うが、「キャバレーで買ったよ」と家に持ち帰るわけにもいかない客は、ケーキをホステスにプレゼントする。このケーキはまた売られていくわけだ。そして母はそのケーキを1つだけ持ち帰ってくる。私たちの食事の代わりにするために。
当時の「質の悪いクリスマスケーキ」は油の塊のようなバタークリーム(バターかどうかも怪しいが)でゴテゴテと飾られ、イチゴの形をしたゼリーや、緑色のゼリーでデコレーションされたものであった。「バタークリーム」も、真っ当に作れば美味しいものだが、そんな配慮は無いわけで、パサパサのスポンジと相まって、美味しいものではなかった。
子供だったから「甘いものならそれなりに食べてしまう」わけでもあるが、クリスマスシーズンは結構長い。バタークリームで覆われたケーキは存外に日持ちするものだ。3日間ぐらいはこの「ケーキが朝ご飯」なんて言う生活が続く。ナンボ子供とは言え、3日目には飽き飽きしてくる。しかも、12月25日を過ぎたケーキは捨てられる運命にあるので、やはり母は持ち帰ってくる。
当時、母はまだ26歳ぐらいである。華やかなキャバレーの世界で指名No1であった母は、当然だがちやほやされる。そんな華やかな世界から「リアル」に戻れば、小うるさい餓鬼が2人もいるわけで、帰るのが憂鬱になることもあっただろう。何度も「母が2日も3日も帰ってこない」ことがあった。今で言えば立派な育児放棄であるが、2日や3日ぐらいでは死ぬわけもなく。
だから、私はこの時期の母の育児放棄を責めることは出来ない。
26歳と言えば、まだまだ遊びたい盛りであっただろうから。
私はたまたま訪れた新聞勧誘員のお兄ちゃんにせがんでご飯を炊いてもらったり、隣に住む主婦におかずを貰うことで飢えを凌ぐ程度にはリア充だったから、余計に心配はない。
ただ、母がいないことの寂しさには抗いようが無かった。
私は母の化粧用の三面鏡にある「母の名刺」(当然、キャバレーで配るモノだ)を手にしては、深夜の大通りで道行く車を停めたものだ。
車を停めてくれた男性に「この人を知りませんか?」と尋ねる。
多くの男性は「知らないよ」と答えて、車を発進させる。
稀に、「ねぇ、ボク?お母さんはすぐに帰ってくるからお家に帰りなさい」と優しく言ってくれる紳士もいた。子供が深夜に「キャバレーのホステスの名刺を持って人を探す」と言うことを憐れに思い、優しく諭す紳士もまた、あの貧しき時代のヒーローであったと思うのだ。
同じアパートに住む大学生のお兄ちゃんも。
新聞勧誘員も。
世間の冷たい視線を浴びていたキャバレーのホステスも。
みんながヒーローだったから。
私は今でも嫌いになれないのだ。
母との親子暮らしの最後は、今でも場所を特定出来る「繁華街のど真ん中」の狭いアパート。カーテンも無い部屋には、外のネオンの光が射し込んでいた。
その日、仕事が休みだった母が、ご飯を作る際に「冷たいご飯じゃ嫌だよね?」と、炊飯器のスイッチを入れて、冷たいご飯を温めてくれたことを憶えている。決して美味いおかずがあったわけでは無いだろうが、母が私たち兄弟のために「ご飯の支度をしてくれた」と言うことがひどく嬉しくて記憶に残ったのだろう。
そのアパートではよく買い物に行かされた。みかんを買って来てとか、80円を渡されて「ハイライト」(タバコ)を買いに行かされたとか。
当時の「ハイライト」は80円だったなんて、よくも憶えているものだ。
この母との流離うような生活はこのアパートで終わりを告げた。
私たち親子の間に「男」が割り込むようになったからだ。
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