Daisy Cutter Syndrome.
四月朔日 祭
第1話「陽の章」~抄前~
ふと、己が人生を振り返る。
大した人生ではなかったが、書き残しておきたいこともある。
いや、そんなものは無いのかも知れない。
私は出来得ることならば全ての人の記憶から消えた後に「死」を甘受したいのだから…
「人は2度死ぬ」と言う。
命の灯が消えた時と、「忘れられた時」だそうだ。そんな精神論は生温過ぎて、この人生にそぐわないが、いつか死ぬ時に荷を積み残すのも後味が悪いものだ。
だから「本当の私」のことは誰も知らなくていいし、記憶に残す必要も無い。
「私小説」と言うフィクションとして、ある男が活きていたストーリーを紡ごう。
前置きが長いと思われるかも知れないが、最初に1つだけ「真実」を伝えてから物語を始めたい。
全て(恐らくは)の人の人生は「閉じている」と言うのが私の信念である。
非常に観念的な話になるが、人は既に自分の人生の全てを記憶しているのではないだろうか?
檸檬を思い浮かべて欲しい。
人生の最初は檸檬の先端で、終わりは逆側にある端である。始まった人生は中央の膨らみを創り上げるように広がっていき、また端に向けて収斂していく。
だから人生の後半に差し掛かると「過去に経験したこと」をまた経験することが増える。
今日初めて読もうとした小説のあらすじを知っていたり、見知らぬ街で懐かしい顔を見たりする。
もちろん、その懐かしい顔はとうの昔に彼岸に渡った者の顔。
デジャヴではなく、連続した時間としての「記憶」と呼べるものが蘇る。
「予言者」とは、この「記憶」を思いだせる者のことではないだろうか。
誰もが長い人生を送るはずであるから、予言者も、その長い人生の記憶から掬い上げることが出来るのは「大きな事件」であろう。
そしてきっと何も出来ないと諦めている。
あの3.11を前日に「思いだした」として、何が出来ただろうか?
せいぜい、現地に車を走らせて、直前に攫えるだけの子供を攫って高台に放り出すことが出来るぐらいだ。
小さなことを思いだして「何かをする」人もいるのだろうけれど。
幸いにも、私は「未来を思いだせる者」ではない。
しかし、記憶の不思議さを知っている。私の最も古い記憶は生後半年ほどの事柄であるし、弟が産まれた日のことも憶えている。
母の知人の家にちょっと預かられ、ソレは例えば数時間のことであろうが、その家のお姉さんが私に向けて10円玉を転がして、ソレを目で追う私を見てあげる嬌声。
10か月違いの弟が産まれた日、つまり私はまだ誕生日を迎えていないのに、大きなガラス窓の向こうにいるはずの弟を眺めていた。
私を抱く女性が「ほら、アレが弟だよ」と笑う。
そして、以後の記憶の中には誰も居ない…
幼い頃に遊んだ友達も、一緒に公園で遊んだ弟も記憶に無い。弟とは記憶を共有しているので、一緒に遊んでいたことは事実であろう。
しかし、やはり私の記憶には「誰もいない」のだ。
ある男が活きていたと言う物語をどこから始めようかとしばし悩んだ。
幼少期の小さなエピソードを幾つか。
少年時代のエピソードを幾つか。
青春時代のエピソードを多少多めに綴ってから、その男の「本当の人生」を書こうと思う。
そう、無垢であったであろう幼少期よりも、彼が親を捨てた少年時代。
そしてどうしようもなく切なくなる話が多い青春時代。
彼の人生は年経るごとに力強く活きることを要求したのだろうから。
「世界は美しさで満ちている」
希望さえ喪わなければ、この世界は輝き続けるはずだ。
彼が産まれたのはコスモスが咲き乱れる秋のこと。
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