六十億のしずく

クロノヒョウ

第1話



 休日の朝早くに電話が鳴った。


 相手は俺の上司の岡崎さんだった。


 何事かと思い、眠い目をこすりながら電話に出た。


「はい……」


『前にさ、お前に連帯保証人になってもらったじゃん。あの十万円の』


 焦っているのか岡崎さんは挨拶もなしにそう言った。


「……っと、おはようございます。ああ、あの十万円ですね。はい」


『そうそう、あれな。あれってさ、十万円だと思ってたら六十億だったんだよ』


「……はい?」


『ハハ、うけるよな。六十億なんて返せるわけねえよな。ハハハ……』


「いや、ちょっと、ハハハじゃないですよ。どうするんですか、そんな大金」


『すまん! 鈴木』


「へっ? 岡崎さん?」


『あとは頼んだ』


「いやいやいや、ちょっと岡崎さん……」


 俺は切られてしまったスマホを見つめた。


 六十億?


 俺はその妙な数字が気になっていた。


 ――ドンドンドンッ


 その時、アパートのドアを叩く大きな音が響き渡った。


 ――ドンドンドンッ


 朝早くから近所迷惑になると思い、俺は急いでドアを開けた。


「はいはい、出ますって……わあっ」


 ドアを開けた瞬間に俺は頭から黒い布を被せられた。


 チラッと見えた黒い服。


 甘い香りがしたと思うと俺は担ぎ上げられたようで、抵抗する間もなく、音から察するにどうやらバンにでも乗せられたようだった。


 そして意識を失った。



「ん……」


 目が覚めると俺は固いベッドの上で手足を縛り付けられていた。


「なんだよ、これ」


 身動きがとれなかった。


「目が覚めたわね」


「わっ」


 声に驚いて横を見た。


 そこにいたのはおぞましい顔をした女だった。


 シワだらけの皮膚につり上がった目。


 長くて先の尖ったわし鼻に大きく裂けた口。


「お前は……」


「私は魔女よ。本来なら美しい魔女。なのにさ、あの岡崎って男? アイツにやられたの」


「やられた、って?」


「私キャバクラで働いてたのよ。綺麗な姿になってね。あの男は客だったの」


「はあ」


「で、私のネックレスよ。大事なネックレス。あの男が盗んだのよ。それで質に入れたんですって。最低でしょ?」


「……まあ」


「しかもたったの十万円ですって。ふざけんなって話よね。あれは大叔母様から貰った大事なモノなの。魔女界でもあれを持っているのは三人だけなのよ。売れば六十億はくだらないわ」


「それで六十億……」


「だってもう質屋にはなかったんですもの。こうなったらあの男にお金でも取り立てないと私の気がおさまらないわ。そしたら保証人がいるって言うじゃない。で、あなたをさらってきたってわけ」


「俺をさらっても金なんてないけど」


「わかってるわよそんなこと。だから、あなたの内臓を全部取り出して、世界中の病気で苦しんでいる人たちに売るんじゃない。バカな人間でも役に立てるのよ。私に感謝しなさいよ」


 魔女はそう言うと大きな包丁を取り出した。


「ちょ、ちょっと待てよ。本気で言ってんのか?」


「もちろん本気よ。恨むならあの男を恨むのね」


 魔女は包丁で俺の服をスッと切った。


「待てって。お前はあのネックレスさえ戻ればそれでいいんだろ?」


「そうよ。あれがないと私、変身出来ないのよ。まだ人間界にいたいの。でもこの姿じゃ無理だもの」


「わかったよ。ネックレス、やるよ」


「は?」


「見てみろよ、俺の首」


 俺がそう言うと、魔女はさっき切った俺の服を広げて首もとを見た。


「なによこれ……」


「説明するからまずこの縄を解いてくれ」


 魔女は少し考えてから俺の手足の縄をほどいた。


「ふうっ」


 俺は起き上がり、手足をさすった。


「ちょっと、どういうことよ」


「ん?」


 俺は自分の首にかけていたネックレスを外した。


 細い金のチェーンの先に真っ赤なしずくの形をした宝石がついているネックレス。


「まさか……」


 それを外すと俺の姿はみるみるうちに目の前で驚いた顔をしている魔女と同じ姿に変わっていった。


「……私も魔女なのよ」


「そんな……」


「あはは、私は人間界で男として暮らしてみたかったのよ。イケメンだったでしょ? 楽しかったわ」


「そんな……そのネックレスは?」


「私もお婆様から貰ったのよ。六十億って聞いて何だかおかしいと思ったわ。このネックレスの別名が何と言うか知ってる?」


「何?」


「六十億のしずく、よ」


「六十億のしずく……」


「魔女たちがこぞって欲しがる、すさまじい魔力を持つネックレス。いいわ、これはあなたにあげる」


「でも」


「さっきまでの威勢はどこにいったのよ。私はもう充分楽しんだわ。魔女界に帰るから、これで借金はチャラよね」


「……ええ。本当にいいの?」


「ほら」


 私は魔女の首にネックレスをかけた。


「じゃあ私はこれで。せいぜい人間界を楽しんでね。さようなら」


「あっ……」


 魔女は何か言いたそうにしていたが、私は指を鳴らしてその場から消えた。


「フフフ……あっはっは……」


 私は自分のアパートに戻ると机の引き出しから本物の六十億のしずくを取り出した。


 岡崎さんにネックレスの話を聞いた時にもしやと思った。


 たった十万円のためにネックレスを盗んで質に入れたと聞き、私はすぐに質屋に確かめに行った。


 間違いなくそれは本物の六十億のしずくだった。


 ずっと探し続けていたネックレス。


 人間界にひとつあると聞き、やっと見つけて手に入れた。


 すぐに帰ろうと思っていたが、これを持っていた魔女がどんな女なのか気になった。


 あんな小娘が持っていたなんて。


 自分の力で変身も出来ない小娘。


 私は一時的に変身出来るお薬を調合し、ダミーを作った。


 まんまと信じてくれたわ。


「本当に、バカな魔女でも役に立つのね」


 私は六十億のしずくを眺めながらうっとりしていた。


「もう人間界に用はないわ」


 ネックレスを首にかけ、部屋の痕跡を消してから私は魔女界へと帰ることにした。



          完



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