土曜日
人はいつか必ず死ぬ。
死んだら、一体どうなるのだろう。
死ねば、脳が活動を停止する。だから、生前の記憶も無くなるし、喜怒哀楽も無くなるし、何かを感じる自我さえなくなる。それは事実としては分かっていても、感覚としてはしっくり来ない。先人達が死後の世界なんて妄想を作り上げたのも納得できる。
じゃあ、死んでしまったら生きていた頃の意味なんて全て無くなってしまうのではないか。そして、死を回避できないというのなら、生きることに意味なんてないのではないか。ただ、死にたくないという生物としての本能に従っているだけで、それ以上の意味も価値もないのだろう。
ある人は生命の誕生を奇跡と呼ぶ。
私には史上最悪の呪いとしか思えなかった。
手首の痣は濃くなるばかりだ。
◇
まだ太陽の低い朝。二人で家を抜け出した。今日は一段と空気が美味しい。冬夜はこの村から出たことがないらしく、興奮しながら下手なスキップを披露する。心身ともに傷の痛みが薄れているようで何よりだ。
かく言う私もかなりテンションが上がっているのだが、一切の心残りがないとは言えない。そんな心情を察したのか、冬夜は腕に抱きつきながら問いかける。
「本当にお母さんに言わなくていいの?」
彼女の真意は何だろう。昨日、母親が亡くなったことに関して、彼女が一体何を思っているのか分からない。その喪失感から、私には親を大事にして欲しいのだろうか。
だが、その感覚が私には分からない。今この瞬間親が死んだとて、私は何も思わないだろう。だが、彼女だって昨日までは同じように考えていた筈だ。私も或いは、この先後悔するのだろうか。
まあいい。確証を持てない未来を予感して行動を辞められるほど、私に時間は残されていない。
「大丈夫。あの人は多分、それほど私を愛してないから」
結局はそれが結論だ。自分を愛していない者を愛するなんて、ひどく虚しく無益だろう。
「……後悔のないようにね」
「うん」
そんなもの、ある筈ない。
ポケットの中に手を突っ込む。滑らかな財布の手触りを確認し、安心する。母親から盗んできた。今日はこの金で一日、彼女と遊ぶつもりだ。家の鍵も盗んできたので、寝床の心配もない。
長年我慢してきた分、最後に反抗してやろう。
「……手、つなご」
「うん!」
村の外れの小さな駅まで、指を交わして歩んでいく。
◇
私にとって電車とは、変わらぬ風景を眺めるだけの退屈なイメージがあった。だが、今回は少し違う。
別に何か遊ぶものがある訳じゃない。朝早かったせいか、冬夜は眠りこけている。ついさっきまで初めての電車に驚き飛び跳ねていたと言うのに。そんな寝顔を見るだけで、何故か退屈を忘れられた。
大切な人と共にいると言うのは、不思議な効果があるものだ。今までと変わらない筈のこの世界が、全く違った物に見える。
「…………かわいいなぁ」
◇
「起きて……」
柔なほっぺをつついて起こす。緩慢に瞼を開けたと思えば、辺りを見回して困惑している。二人だけだった車両がいつの間にか人で溢れかえっているのだから無理もない。
「………………!」
冬夜は口をポカンと開けて、目をキラキラと輝かせている。星のエフェクトでも見えそうな位だ。もうそれだけで冬夜を連れてきて良かったとしみじみ思う。
「早く降りないと、次の駅行っちゃうよ」
「うん! うん!」
今の冬夜のことだ。何の拍子に迷子になるか分からない。手を引っ張ってリードする。その間、冬夜は鼻息を荒くして周りを見回している。ヤンチャなチワワと散歩している気分だ。
私にとっては見慣れた街並み。けれど、どこか遠くへ旅行しにきたかのような高揚感で駅を降りる。
◇
人混みの海を泳いで、林立するビルの森を眺める。休日だからか小さな子供を連れた家族も多いようだ。私の隣には、その誰よりもはしゃいでいる存在がいるのだが。
「すっごーい! ビル多い! 都会みたい!」
「都会だよ」
「ほんとだ!」
ピョンピョンと跳ね回り、歓びを全身で表している。
このまま何もせず歩くだけでも彼女は満足しそうだが、せっかくだから何処かで遊びたいものだ。しかし、計画等は一切立てていない。
そんな風に迷っていると、冬夜が一つの施設を指さした。
「何あれ!?」
様々なBGMが混ざり合い、騒々しい狂想曲を奏でている。
「あれはゲームセンター。おっきいゲーム機がいっぱいあって、それで遊べる」
「何それ!?」
いつかの勝負を思い出す。今まで入ったことはなかったし、さして興味もなかったのだが、今見てみると心に熱意が沸き上がる。
「バトってく?」
「うん!」
◇
かつて秘密基地で遊んだタイトルの続編が今、何十倍もの大きさとなって聳えている。ドットから3Dへと変わっており、このキャラはこんな顔だったのか、と少し驚かされる。指に神経を集中させて、いつものキャラを選択する。
台が向かい合わせになっており、それらに座って戦うようだ。繰り広げられる熱戦。大きな画面を注視する。光の点滅、激しい効果音、胸躍る音楽、その全てが脳にドーパミンを放出させる。
見事、二本勝ち取って私の勝利。初めの頃からの成長を身に染みて実感するが、勝利の要因はそれだけではないようだ。さっきの戦いは妙に違和感を覚えた。明らかに冬夜の動きが鈍いのだ。
彼女の方を覗いてみる。
「大丈夫? ……じゃなさそうだね」
彼女は汗ばんだ表情で、絆創膏の貼られた指を押さえていた。手指の傷はまだ癒えていない。激しく使えば痛むのだろう。
「大丈夫だよ! ちょっと痛むだけだから!」
「ホントに?」
「うん……!」
半分ホントで、半分ウソと言ったところか。実際、傷は痛んでいるが、我慢できるレベルなので、それ以上に遊んでいたいのだろう。これからの人生で彼女が次にここへ来られるのはいつになるのか。それを考えたら無理もない。増してや、私と一緒にはもう……。
「…………」
彼女の心と身体、どちらを優先するべきだろうか。
いや、ここはその間を取るべきだ。
「分かった。じゃあ、私もハンデをつける」
「ハンデ……?」
「親指と小指は使わない。代わりに、冬夜もあんまり指を動かさない」
「いいの……?」
「もちろん。むしろ、こうした方が心置きなく戦えて、強くなるからね。覚悟しといた方がいいよ?」
この後、私は十連敗した。
◇
いい汗を流したところでお腹が空いてきた。朝食を食べていないが、もう昼間のようだ。どこかでご飯を食べに行こう。
暑さでボーッとしてきたので、急いで涼しいビルに入る。キンキンに効いたエアコンが服の間を通り過ぎる。こういうところは都会の利点だと思う。もっとも、このエアコンの室外機のせいで、屋外の暑さはひどくなっているというのだから皮肉なものだが。
どうやら、ここら辺のビルはとある会社が運営する複合商業施設のようだ。服屋やら化粧品店やらレストランやら、とにかく大抵のものは何でもある。
料理関連の店は地下一階から三階までに集中しているらしい。人の密集というのが嫌いで、いつも階段を使うのだが、今日だけはエレベーターを使っておこう。冬夜がアトラクションを見るような目で眺めているからだ。
◇
「何食べる?」
「すごい! これ何でも選べるの!?」
壁に貼られたマップを眺める。和、洋、中華、ありとあらゆる料理がある。ただ……。
「肉はちょっと…………」
「…………私もそうかも」
昨日の今日で、流石にキツい。お互い様だったのは、不幸中の幸いか。
どれが美味しそうかと議論を重ねた結果、パフェの食べられるカフェに決まる。元々昼食を選びにきたということは、とっくに頭から抜けていた。
「何にする?」
「悩ましいけど……私、チョコバナナ!」
「じゃあ私はイチゴで。一口ずつ交換しない?」
「いいね!」
店員を呼ぶベルを冬夜に押させる。何だか、満足しているようだ。周りの全てに反応してくれるので、見ていて面白い。
すると、一つの幼い声が聞こえてくる。
「ママーっ! パフェ食べたーい!」
「だめ! 高いし、どうせ食べきれないでしょう?」
嘘だ。ここのパフェはそんなに高くも多くもない。本音は『なんとなく嫌』というだけだろう。親というのは何故こうも、利己的なのか。
そんな親と子供の言い争い。こんな場所ではよくある光景だ。よくある、と言っても私には経験がなかったが。それどころか、親に何かを要望した記憶自体少ない気がする。
一つはどうせ無理だと諦めていたからだろう。あの人が何かを私に許可してくれる様子がイマイチ想像つかなかった。もっとも、蝉病に罹ってからは逆に大抵のことは許してくれているのだが。大切に保管していたアクセサリーも、もうすぐ壊れると分かればどうでもよくなったのだろう。
もう一つは、それが『いい子』だと思っていたからだ。私は周りの大人から、いい子であること以外に褒められることはなかった。ここに居てもよいという承認を得るには、それしかなかったのだ。だけど、何が良い行動かなんて判断は、幼稚な頭じゃままならなかった。怒られない子をいい子と思い、ただひたすらに他者からの怒りや非難を避けようとした。自己を保つために自己を殺し続けたのだ。そんな矛盾に気が付かないまま、人生の半分以上を過ごしてきた。
もっと早く気付いていれば、もう少しマシな人生だったかもしれない。タラレバが無意味なことは分かっている。それでも考えずには居られないのだ。
まあいい。実際、それで損を減らしたこともあっただろう。きっと、この子供の抵抗だって何も成せぬまま無意味に終わるに違いない。そう思いながら見ていたのだが。
「もう! じゃあ、今度テストで百点とったら食べてもいいよ」
「やったー!」
二人は何故か、より親密になったかのように通り過ぎている。私の知っている親子の関係とは乖離していた。
「………………」
何だ、この胸に残った泥のような思いは。結局、彼らは一つのハッピーエンドを迎えたのだ。それを純粋に祝福すれば良いではないか。
手元にあった水を飲む。少しだけ、苦い味がした。
◇
「おいしかったー!」
「一瞬で食べられたね」
やはり、糖分というものは狂気的な美味しさがある。冬夜と一緒に食べられるなら尚更だ。
今は昼の一時。今日という日はまだまだ終わらない。
「色々、回ってく?」
「うんうん! いいね!」
こんな風に明るい彼女を見ていると、初めて会った時を思い出す。その笑顔を少しでも長く見ていたかった。
服屋を巡り、かわいいファッションを研究した。
雑貨店を巡り、意匠を凝らしたグッズの数々に感心した。
本屋を巡り、知らない世界を沢山知った。
その全てが新鮮で、楽しくて、何物にも代えがたい至福の時間となった。こんな時間が、ずっとずっと続けばいいのに。
「足が疲れた!」
「人生で一番歩いたかもしれない……」
適当に座るところを見つけて足を休める。傍に大量のパンフレットの群れが佇んでいたので、それを手に取って開く。
「ここ屋上に水族館あるらしいよ?」
「すごい! 魚なのに人間より高いところで暮らしてるってことじゃん!」
「……確かに」
水族館なんて最後に行ったのはいつだろうか。少なくとも両親が離婚してからは、勉強ばかりで旅行すら出来ていない。
確かに、幼い頃には色んなところに連れて行ってもらった筈だ。だが、その思い出も楽しさも忘れ、狭い机に向かっていた。忘却を『寂しい』とすら思わないまま、一方的に与えられた環境を常識としていた。それこそ、広い海から水槽へ移された魚のように。
そう考えると、私は知らず識らずのうちに色んなものを落としてきたのではないだろうか。
今日という日は、それを取り戻す為の日なのかもしれない。
「行ってみる?」
「うん!」
彼女と一緒なら取り戻せる。なんなら、それ以上のものも手に入れられる。
その横顔を見て、確信する。
◇
チケット代、二人合わせて二千四百円。財布の底が見えてきた。反射的に罪悪感を覚えたが、私に非はないのだと自分自身を戒める。
「わぁ……!」
海底を模した暗い廊下が続いている。安心感と高揚感をうまく調和させていた。この雰囲気には覚えがある。冬夜の秘密基地だ。程よい狭さも手伝って、懐かしさを想起させる。そんな道を進んでいくと、瀟洒に輝く水槽で魚の群れが待っていた。
「すごい……!」
感嘆して立ち尽くす彼女に肩を合わせ、小さな世界を観測する。見惚れるように眺めていると、この水槽の中へ魂を吸い取られそうな心地がした。
ふと、彼らにはどれだけの知能があって、どれだけの自我があるのだろうかと思った。人々は、知性こそが人類の素晴らしさであると語る。だが、ただ悠然と泳ぐ彼らを見ていると、何も識らぬまま行きた方が、幸せなのかもしれないと思う。
自身を囲う世界だけを全てと信じ、それ以外は何も知らない。そんな彼らのようになれたのならば、そこに蔓延る残酷さも知らずに済む。本能的な恐怖や嫌悪を感じても、数刻とせず忘れられるならば、それはこの世の遍く苦しみを知らないのと同義ではないのか。
どうしようもなく、羨ましいと感じてしまう。
じゃあ、どうしてあの頃の私は満たされなかったのか。勉強だけが全ての世界で、それ以外の苦しみを知らなかったのに、私は常に空虚だった。その狭い世界ですら、私は適応できなかったからだろうか。いや、勉強自体はそこまで嫌いじゃなかったし、成績もそれなりにはあった筈だ。志望校にも届きそうだった。
きっと、中途半端に狭かったからだろう。周りの大人は勉強が全てだと言うのに、傍にはそんなものが出来なくとも、楽しそうな友人達がいた。
————
「七夏、全然遊んでくれないじゃん。もう誘うのやめようよ」
————
……いや、元友人達だったか。
狭い世界に詰め込まれているのに、その世界を疑える要素が多すぎたのだ。それすら見えないほどに、徹底的にやってくれていたら、或いは幸せだったかもしれない。目の前で優雅に泳いでいる、鮮やかな熱帯魚になれていたかもしれない。
そんな事を考えていると、とりわけ大きな水槽が見えてきた。ホール状の空間に、海の一部を切り取ったかのような光景が広がっている。
「すごーい……!」
「……そうだね」
水槽の見えやすいど真ん中のソファに座る。今の私に周りのノイズは聞こえない。冬夜と二人だけの空間があった。
「今まで魚って食べられるか食べられないかでしか見たことなかった。私の知らない世界が一杯あるんだね」
楽しさに満ちた笑顔で彼女は言う。
私の胸で何かが動いた。
そうか。知らない世界を知るということは、悲しさを知るだけじゃない。そこにある未知の美しさにも出会えるということだ。彼女と出会って、何度も思い知らされたことじゃなかったか。
「私も、この世界がこんなに楽しいなんて知らなかった」
嫌なことばかりで、醜いことばかりで、私の居場所なんて何処にもないと思っていた。
けれど、今では私が居たい場所がある。
こんなにも大切な人がいる。
泥に埋もれていた、宝をやっと見つけられた。
「よかった。七夏が幸せだと、私も幸せ!」
肩越しに彼女の温度を感じる。
ああ。死ぬのが恐いな。
◇
水の楽園は屋外まで続いていた。荘厳なビル群に囲まれた屋上で、水辺に暮らす動物達が展示されている。薄い雲が広がっていて、月の光はぼんやりとしか目に見えない。ビルに入る前まで明るかった空は、今や黒一色に染まっていた。何万回と見てきた景色も、今宵だけは趣き深く感じるのだ。
「ペンギンだ! 初めて生で見た!」
集団で岩の上をヨチヨチと歩いている。
「かわいい……」
「なんか七夏みたい!」
「……どこが?」
「マイペースな感じが!」
そう言った途端、別の水槽で、空飛ぶジェット機のように泳ぐペンギンが目を過ぎる。
「……どこが?」
◇
一通り見終え、ショップへ行く。幻想的だった展示空間とは対照的に、安堵を覚える光で照らされている。親と一緒に行った時は、こういう店は碌に巡れなかった。親はそそくさと出ようとするし、私が何かをせがんでも、どうせ聞き入れて貰えないだろうと達観していたのだ。
その時から圧殺していた欲望を解放する。思い出に何か買っておこう。少しでも、この世の未練を減らしたいから。軽くなった財布を忘れ、陳列棚を凝視する。
「んー……」
「何買うか悩んでるの?」
私は無言で首肯する。
どうせなら形に残って、尚且つ彼女とペアルックに出来る物がいい。そこでビビッとくる物があり、手に取ってみる。
「……これ、かわいい」
ペンギンのぬいぐるみだ。通常バージョンと、リボンを着けたピンクのバージョンとがある。
少し考えてから、ピンクの方を冬夜に渡す。
「買おう」
「いいね!」
暖かいもので胸の中が満たされる。
けどその直後に、虚しさも感じてしまうのは何故だろう。
不安を置いて、今の幸福に身を任せる。その策も、いよいよ通じなくなってきた。
「…………」
それでも今ある幸せを、否定したりなんかしたくない。
◇
夜の闇は濃くなるばかりだ。早く帰らなければ、補導されるような時間になるだろう。家の方へと向かう電車は、どこか廃墟と空気が似ていた。
外面だけは綺麗なマンション。ここの鏡ばりのエレベーターは嫌いだ。いつだって、写っているのは死んだ様相の私だったから。けど今日は、少し笑顔の少女と、すごい笑顔の少女が見えた。
「すごい! 七夏の家って高いところにあるんだ!」
「家なんて空にあっても地面にあっても変わんないよ。母さんがちょっと見栄っ張りなだけ」
むしろ、飛び降りられないかと嫌な思考が襲うことの方が多かった。
それでも彼女が喜んでるなら、良かったのかもしれない。
緩慢にドアが開かれると、地味な色をした床が伸びる。風の吹き荒ぶ外廊下。夏と言えども、流石に寒さを感じるレベルだ。数日ぶりの再会は、さして感動も覚えなかった。横に振り向けば見下ろせる、この夜景だけは嫌いじゃない。
だが、私の視線は廊下の向こうから逸らせなかった。
ぼんやりと見える人の影。親しみ深い雰囲気だが、そんな訳はないと目を疑う。しかし、廊下を歩くにつれて、その解像度は上がっていき、一つの事実を突きつける。
「何で、ここに…………?」
私の母が薄い長袖に身を包み、部屋の前で佇んでいた。夜風よりも冷めた目で、私の顔を睨みつける。
怒られる。そう思ったが、謝罪の言葉を出そうとする喉を、心の何かが食い止める。結果、気まずい沈黙だけが流れた。
彼女は軽くため息をつくと、呆れるように喋りだす。
「……とりあえず、家に入れて」
そこで初めて、彼女がずっとここで待っていたことに気が付いた。何の為にそんな事を。今の彼女なら決して村から出ないと思っていたのに。
それに先に反応したのは、私ではなく冬夜だった。
「……じゃあ、私はこの辺で帰ります」
「…………えっ?」
優しいけれど潤んだ目で、彼女は呟いた。親と私の関係に、あまり干渉したくないのか。私は彼女をどうにか食い止めたくて、頭を必死に回転させる。
だが、その必要はなかった。
「泊まっていっていいよ」
母は何気なくそう言った。まさか、彼女の方から、こんな提案をするなんて。
冬夜の顔は明るくなる。これで何もかも安心だ。安心な、筈なのに。何か不穏な空気を覚える。私の人格を人生を、根幹から揺るがされそうな予感がする。
震えた手つきで、鍵を開ける。
◇
冬夜が靴を揃える横で、私はわざと雑に脱ぐ。一方、母はそんな私を戒めることもなく、棒立ちしたまま玄関から出ようとはしなかった。
「冷蔵庫にお菓子があるから食べていいよ」
言葉の対象こそ明示していないが、これは冬夜に言っているのだろう。要するに、ここで私と二人だけで話をしたいということだ。私は彼女の顔を見上げたまま、その場に留まる。
「ありがとうございます!」
冬夜は冬夜で察したのだろう。早足で居間まで駆ける。冷蔵庫のドアが開く音を聞くと、母はポッケに手を突っ込み、中の物を私に手渡した。
「これは…………?」
重みを持った、一万円札の束。意図が分からず、困惑する。
「これはあなたの学費に用意してたもの。だから、これはあなたのもの。好きなように使っていい」
「——————」
そこまで言われて尚、現状を脳が把握できない。いや、理解を拒んでいるのは心の方かもしれない。聞いたこともない優しい声で話す女性は、目の縁が少し濡れていた。
「ごめんね……。私には母親の仕事は向いてなかったみたい。お父さんを用意することも出来なかった。最後まで、あなたの母親として碌に何も出来なかった」
駄目だ。これ以上、喋られると、これ以上、この弱い人を見ていると、どうにかしてしまいそうだ。
「私はあなたに酷いことばかりしてきた。だから、どれだけ憎んでくれてもいい。……けど、最期まで幸せに生きてね」
やはり、私は致命的な勘違いをしてきたのだ。
「母親になれなかった私には、あなたの側に居る資格はない。だから、お友達と仲良くね」
お母さんは背中を向けて扉を開ける。
私はそれに手を伸ばして、何かを言おうとする。
だが、その何かは出ないまま、扉は閉じられた。
「………………」
間違っていた。
彼女は私なんか愛していないと。だから、私も愛さなくていいと。もしかしたら、それは本当で、今のもただの罪滅ぼしに来ただけかもしれない。
けれど、確実に間違っていたのは、彼女自身を憎んではいけなかった。彼女を捨ててはいけなかった。憎むべきなのは、排他すべきなのは、彼女ではなく、彼女の行動の方だった。
彼女は確かに酷いことをした。私の居場所を狭めようとした。けれど、私がそれに抗議したことはあっただろうか。どうせ無理だと勝手に諦めて、勝手に彼女を憎んでいた。
彼女の行動ばかりに目を向けて、彼女自身と対話しようとしなかった。
もしそれさえ出来ていれば、お互いマシな末路があったんじゃないか。
もっと早く、彼女の愛に気付いていたんじゃないか。
フラつく足取りで居間へ向かう。ソファの上で冬夜が黙って座っていた。お菓子は取り出してすらいないようだ。
「おかえり」
呟く彼女に、私は我慢できずに抱きついた。
胸が締め付けられて、涙が止まらない。
「死にたく……ない……! まだ、死にたくない!」
絶叫に近い声で、ただそれだけを繰り返した。
この世界には後悔ばかりだ。
この世界には見落としてきたものばかりだ。
この世界には、まだ楽しいことばっかりだ。
どうして、もっと早く気付かなかったのか。どうして、今になって気付いてしまったのか。
泣きじゃくる私を、彼女はそっと抱きしめる。
私の肩に、熱い水滴が落ちてきた。
◇
適当にシャワーを浴びる。
今日はドライヤーもしなくていい。
何だか脳がずっと揺さぶられる。
グッとのしかかるような、辛さがあった。
そんな私を包んでくれる人がいる。
「一緒に寝よ!」
充血した目で彼女は笑う。
この人生はとても辛い。
でも、彼女が居るから、後一日ぐらいは頑張ろう。
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