金曜日

「どうしたの冬夜?」

「いたい……、いたいよぉ……!」


 怪我した足が痛くて痛くて、潰れた顔で泣いていた。


 すごく退屈な下校中。走っていたら転んでしまった。どうしようもない痛みに身体も心も蝕まれる。いつもの帰り道は、とても長く感じられた。


「ちょっと待ってね……」


 母はあくまで落ち着いた様子で、救急箱を持ってくる。たおやかな手つきで、消毒液と白いふわふわを取り出した。それの名前は知らないが、ふわふわだから好きだった。


「しみるけど我慢してね」

「いっ!」


 ピリピリと痛む傷口に、思わず顔を歪ませる。気付けば、そこには絆創膏が貼られていた。


「痛かったね。でも、もう大丈夫」


 優しく頭を撫でられる。あんなに大きかった赤い亀裂が、今ではすっかり小さく見えた。不思議な安堵が心を満たす。


「もう、どうしようもないかと思ってた……」


 側からみれば、取るに足らない小さな出来事だったかもしれない。それでも私は、死んでしまうかと思うほど、絶望の中に落ちていた。


「どんな時も希望はあるものよ」

「本当に?」

「うん。神様だって、冬夜がいい子にしてるとこ、ちゃんと見てくれてるからね」


 その言葉の意味はよく分からなかったが、私は母の胸の中が心地よくて、柔らかい幸福に身を委ねていた。


 この暖もりさえあれば、神様なんて、別に居なくてもよかったのに。


 ◇


 旧い記憶はここで終わる。何故か、この時のやりとりを私は時々夢に見るのだ。


 それはある意味では最大の悪夢であった。


 私は母を憎んでいる。憎みたい。憎まなきゃいけない。いつも自分勝手に生きて、居ない何かに縋り付いて、私の人生を掻き乱す。そんな下衆以下の人間を、これ以上、好きにさせないで欲しいのだ。優しかった頃の記憶なんていらないから、心の底から嫌いにさせて欲しかった。


 こんな夢を見た朝は、決まって苦い味がした。けれど、今日だけは少し違う。私を優しく包みこむ、いつかの暖もりがあった。


 最愛の人。七夏。私に本当の愛を教えてくれた。私に居場所を与えてくれた。私の存在価値を認めてくれた。


 夢より儚く消える人。もうすぐ、終わりを迎える人。


 それでも、今この胸を満たす幸福を、今ともに過ごすこの時間を、無意味だなんて言いたくなかった。いつか終わりが在るからこそ、彼女には残りの人生を最大限に生きてほしい。その為なら、私は全てを捧げよう。


 例え、どんな悲劇を抱え込んでも。


 未だ彼女は起きない。というか、私が早く起きすぎたようだ。私を抱き枕のようにして、スヤスヤと眠りこけている。彼女は今、どんな夢を見ているのだろうか。顔を見るに、きっと悪夢ではないのだろう。その夢に、私は出てきているのだろうか。


「…………かわいいなぁ」


 それだけ口にして、私は再び瞼を閉じる。


 今度は、七夏の夢が見られますように。


 ◇


 窓から差し込む陽光と、アワアワうるさい鳥の声で目が覚める。


 私は冬夜を抱えていた。


 彼女の顔は苦悶に歪んでいる。クーラーが効いているにもかかわらず、額には薄い汗が滴っていた。


「大丈夫……!? 冬夜!?」


 私は慌てて彼女を起こす。青白い顔で、亡霊のように起き上がる。今の彼女は、少し触れただけで、崩れて消えてしまいそうだった。


「……おはよう。七夏」

「冬夜、具合悪そうだけど、大丈夫……?」

「……大丈夫。ちょっと、嫌な夢を見ただけ」


 汚物を軽蔑し、同時に憐れむような目を見せる。今の彼女の脳内には、一体何が浮かんでいるのだろう。


「どうして夢って自由に選べないんだろうね。自分の中の世界なんだから、そこぐらいもっと楽しい世界でもいいのに……」


 彼女は虚を眺めていた。そこには私がいないみたいで、別の場所に行ってしまったようで、この上ない恐怖が走り去る。


「大丈夫。夢はただの夢。だから、現実がもっと楽しくなれば、そんなの気にならなくなると思う」

「それもそうだね……」


 きまりが悪そうに黙り込むと、暫しこちらを見つめてくる。


「私、お母さんの所に戻る……」

「………………え?」


 言葉の意図が理解できない。何も返せず、呆気に取られていた。その様子を見た彼女は、焦って理由を話し出す。


「別に、この家が嫌な訳じゃないよ! ただ、やっぱり何も言わずにお母さんを放ったらかしにするのもよくないなって……」

「……………………」


 私は彼女を幸福にしたい。その為には、それを脅かす存在から遠ざけるのが必須だと思っていた。実際、他の誰が見てもそう思うだろう。けれど、彼女はその存在の下へと戻ることを望んでいる。この矛盾を私はどう解決すればいい。


「じゃあ、私も付いていく」

「ダメ! 七夏が危険な目に遭うかもしれない!」


 彼女がこんなにも、強く声を荒らげたことがあっただろうか。私は少し気圧される。


「でも、私だって冬夜に痛い目に遭ってほしくない」

「大丈夫。お母さんに用件を伝えたらすぐ帰ってくるし、村の人たちだって、いつもひどいことをする訳じゃない」

「それでも…………!」


 私はそこで言い淀む。


 今ここで彼女の願いを反故にするのは、私のエゴではなかろうか。村に帰ることの危険は、どう考えても私より彼女の方が正確に承知している筈だ。何より、私は彼女に『幸せに生きてほしい』と望まれた。それを遂行することこそが、最大の目標ではないのか。だとしたら、ここで身を挺してまで、危険を冒すのは間違いだろう。


 それでも、万が一のことが彼女にあったら。そう考えると、このまま彼女を行かせることが、恐ろしくて堪らなくなる。


 答えの見えない思考を繰り返す。願望、責任、使命、それらを全て勘定して考えるが、何が正解か分からない。そんなものがあるのさえ、私には分からなくなっていた。


 そんな私を導くように、冬夜は口を開く。


「こっからホームセンターまで行くの、結構遠いから車でいってもそこそこ時間かかると思うよ。私が家に行ってる間に、買っておいた方がいいと思う!」

「でも……」

「それに、正直、あんまり知らない人と一緒の車に乗るって、ちょっと怖いしさ……。買ってくれると嬉しいな……。一緒に買い物してみたかったって言う気持ちもあるけど、そっちの方が都合がいいからね」

「……………………うん。分かった……」


 私は結局、自分で答えを出さないまま、彼女の出した選択肢に従った。


 人は無責任な行動をとる時、きまって自覚がないものだ。


 ◇


 自分は今、とても愚かな行為をしているのかもしれない。


 七夏に全てを捧げるというのなら、こんなことをするべきではないだろう。それでも、『仕方ない』と許してほしかった。あんなにも憎い存在なのに、母のことを放っていると、心がザワザワして落ち着かないのだ。


 まるで、自分の一部が崩れていくように。まるで、入ってはいけない何処かに入ってしまったかのように。得体の知れない喪失感と罪悪感に纏わり付かれるのだ。


 こんな思いを消してしまいたい。そんな強迫観念に押されて足を動かす。


 気付けば、村に着いていた。


 雄大な自然に囲まれているというのに、その空気はひどく不味い。視覚情報と相反する閉塞感。端的に言って、とてつもなく居心地の悪い場所だった。きっと、それも私にとってだけだろう。


 寂れた家が並ぶなか、一際、粗雑な小屋が見える。それこそ、私の家であった。私が小さかった頃は、もっと豪華だったような気がするのだが、私が大きくなったのか、家がボロくなったのか、それはどっちか分からない。或いは、その両方だろうか。


 そこまで来て、やっと私は悩み始める。


 母に、どう話しかけようかと。


 大切な友達ができたとでも言おうか。そうすれば、案外、母も喜ぶかもしれない。久しぶりに、恐くない笑顔が見られるかもしれない。そう思うと、自然と心が高鳴った。


 相手は憎悪すべき対象だというのに。


 それでも、今では少し素直になれる。本当は誰も憎みたくないのだと。勿論、彼女は私に憎まれるだけの罪がある。私にはそれを罰する資格もある。


 けれども、もし罰することなく和解できたら、またあの母に出会えたら。それはどんなに良いことだろうか。


「やっぱり、私とお母さんが仲直りした方が、七夏も安心できるよね」


 架空の未来を想ってみる。暖かいハグをまた貰えるのだろうか。好きだった肉じゃがも、また口にできるかもしれない。学校の話なんかをして、笑いあったりもしてみたい。


 こんな巫山戯ふざけた考えが浮かぶのも、不思議な夢を見たせいか。


 ◇


 悲鳴をあげて戸は開く。家の中は静寂で満ち満ちている。——そして、若干の異臭がした。


「ただいまー……」


 柄にもないことを言ってみる。どうせ返ってこないと知っているにもかかわらず。——それは、本能からくる嫌な予感を払拭したかったからかもしれない。


 廊下を歩く。——異臭は強くなる。


 居間の前に立つ。——異臭はますます強くなる。


 なんだろう。この臭いは。


 初めて嗅ぐものではない。


 そうだ。昔、儀式に使ったニワトリの死体をそのままゴミ袋に詰めていたら、腐ってしまったことがある。その時の臭いだ。生きていた物が腐るというのが当時の私には信じ難くて、とてもショッキングだったのを覚えている。何より、自分の不始末のせいで、そんな事になってしまったという事実が、私の心に穴を開けた。


 そんなトラウマじみた臭いが、家の中で再び充満している。


 この扉を開けば、またあの光景を見る事になるのか。


——いや、或いはそれ以上の。


 静寂が私の手を止める。何だか嫌な予感がするのだ。


 いや、まさか。そんなことある筈ない。きっと、この先にはどうしようもないけど、いつもと同じ光景が広がっている。そうでないと。そうでないと……。


 唾を飲みこみ、覚悟を決める。


「ただい——」


 戸を開く。


 現実じごくが顕る。


 脳に突き刺さる腐乱臭。

 床に倒れた醜い残骸。

 不細工に抉られた赤。

 それを啄む黒いからす


 現実と意識が乖離する。一番初めに浮かんだ思考は、このカラスはあの開いた窓から入ってきたのかな、なんてどうでもいいことだった。


 痛いほどに慣れ親しんだ面影が、歪みきって壊れている。まるで、最初から生きてなかったかのように、命持たぬマネキンだったかのように、物言わぬまま倒れ込んでいた。


 優しい表情を貼り付けていた顔面は、赤い亀裂で隠れている。代わりに、そこから黒ずんだ脳みそが飛び出していた。


 いつかみた鶏のように、生前の暖かみを捨て去って、不気味な黒をたたえている。


「お母……さん…………?」


 腐った肉塊は何も答えない。


 何故こんなことになったのか、全くもって分からないまま、事実を受け入れざるを得なかった。


 本当にひどい母だった。勝手に私を産んで、変な宗教にハマって、それに私を巻き込んで、そのせいで私は村から除け者にされて、友達もできなくて、普通の人生は送れなくなって、そんな私の不満も知らずに理不尽に怒って、打って、泣いて、喚いて、勝手に死んで、本当に本当に本当に最初から最期まで最低最悪の屑以下の母親だった。なのに、なのに、なのになのに、なのになのになのになのになのに……!


「何で、綺麗な思い出ばっかり思い浮かぶの…………?」


 あんなにあんなに憎かったのに、いざ死んでみれば、優しい記憶が暴走する。まるで、出来る限り私を苦しませてやろうかというように、暖かいハグを貰った日が、好きな肉じゃがを作ってもらえた日が、学校の他愛のない話をした日が、次々と心の底から掘り起こされる。


 あの時の母のように、救急箱でも取り出して、傷を治してやれればいいのにと思った。足を擦りむいただけであんなに痛かったのに、母は痛くなかったのだろうかと心が締め付けられた。最期のその瞬間に私が居なくて、心細かったのではないかと狂ってしまいそうだった。


 床に落ちる涙は、いつから出ていたかも分からない。床に染み込んだ汚れた赤を、少しでも薄めることができないかと、意味の分からないことを考えた。


「……ごめんっ……! ごめん……なさいっ……!」


 誰に、どうして謝ってるのか、考えるより先に言葉が漏れ出た。


 私自身に、私が産まれてきたことに対してかも知れない。初めからこんな世界に産まれて来なけりゃ、こんな泥に塗れた感情も知らなくてよかったのに。或いは、過去何度も何度も挑戦してきたこの世とのお別れを、一度でも成功させていれば、今頃、楽になれたのに。そうだ。今、私がこんな思いをするのは無能な私のせいだ。私が産まれてきたから、私が臆病だから、私が馬鹿だからだ。誰かに裁いて欲しかった。誰かに赦してほしかった。これからどうすればいい? もう精神的にも経済的にもグッチャグチャだ。それでもどうせ死ねないんだろう。どうしようもなく無能な私のせいで! そういえば、父が死んだときも、こんな風に唐突だった気がする。そう、唐突に私の人生は狂ったんだ。何で、私だけこんな目に遭わなきゃいけないのか。クラスの皆んなも村の人たちも、当たり前のように幸せそうに生きているのに、何で、何で、私だけ! 神様なんて居るわけない! 居るとしたら、きっと私のことが大嫌いなんだろう。もう何もかも嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! じゃあ、今すぐここで死んでみろ! 包丁を首に当てて、血管をぶった切って、血を散らしながら死んでみろ! そうすれば救われるんだろう、苦しまなくていいんだろう、全部全部解決するんだろう、そうしないともっともっとずっとずっとこれから酷い目に遭うんだろう! じゃあ、死ね! 死ね! 死ね死ね死ね死ね!


「……ぁっ……! ……あぁ……っ……!」


 自身の髪を強く引っ張ってうずくまる。もう何も見たくなかった。


 死ねない理由は分かってる。死にたいんじゃなくて、消えたいんだもの。


——戸が開く音を聞く。


 廊下がギシギシとなる音が、段々大きくなっていく。最悪な予感がした私は、うずくまるのをやめて、虚空を見上げていた。


「やあ、冬夜。昨日は何処に行ってたんだ?」


 錦城きんじょうだ。彼は村の者の中でも特に積極的に私を痛ぶった。水曜日にも、わざわざ私を探しに来ていたな。きっと、私に危害を加えるのが、この上なく楽しいのだろう。


 筋肉質な腕を壁に当て、部屋の扉を塞いでいる。勝手に家に侵入している時点で相当な問題なのだが、何より今、このタイミングで彼が現れたことが、とてつもなく恐ろしく、憎らしかった。


「あーあ……。見ちゃったんだね。昨日、お前がどっかに行ってる間に、死んじゃったよ。一人で居たから、自殺じゃないかね」


 嘘だ。頭が叩き割られている。そんな方法で自殺する必要もなければ、そもそも恐怖で出来る訳がない。それは、誰より私が分かっていた。


 だとしたら、殺したのは……。


「…………………………………………」


 黒々としたものが、吐きそうなぐらいに溢れ出してくる。証拠はない。だが、コイツの仕業だと私の中で確信する。仮に違ったとしても、このドロドロを誰かにぶつけて放出しないと、頭が侵されてしまいそうだ。


「可哀想だよなぁ……十何年間必死に育ててきたのに、最期の瞬間に看取ってすらもらえないなんて」

「………………」


 無反応な私に、退屈そうに頭を掻く。


「まったく……どこに行ってたんだい。

「!? お前っ……!」


 あの小屋も、こいつが壊したのか。脳細胞が焼けつくような怒りが走る。


 その様子を見て、彼は歓喜を露わにする。


「そんなに大切だったのか? あんなボロくさい犬小屋が!? まあ、本来の家がこんなチンケなもんだったら無理もないか!」

「お前……っ! お前! おま——」

「お前じゃなくて、『錦城さん』だろ?」


 片手で首を押さえつけられる。声を出そうとしても、空気の漏れる情けない音しか鳴らせない。そのまま、彼は喋り続ける。


「安心するといい、冬夜。あの醜い小屋にも、こんな不吉な家にも、もう居なくていいんだ」

「……? 何を…………?」

「『私がこれから飼ってやる』と言ってるのだよ」

「————」


 こんなことが、こんな理不尽が果たして現実なのだろうか。いや、むしろこの胸を覆い尽くす絶望こそが、何より現実の証なのだろう。


「流石に親もなく子供一人ってのは可哀想だろう? だから、村の奴らで話し合って、私の家に住むことになったのだよ! これから楽しくなりそうだろ?」

「私には、他に帰る場所が……」


 そう。七夏のところに、帰らなく——。


「ない」


 頬に平手打ちをくらう。痛かった。痛くて痛くて、泣き出したかった。


「家族もいない。友達もいない。私の家以外にお前が帰れる場所なんてない」

「なな……七夏が……」

「あの一緒に遊んでたガキのことか? どうせ、外からやってきた奴だろうが。すぐにお前を見捨てて、どっかに行くさ。村で居場所のないお前には、友達なんて作る資格すらない」

「……ぁ…………っ…………」

「じゃあ。行こうか、冬夜」


 もう全てを諦めていた。


 腕を引っ張られて引きずられるように、連れていかれる。


 母の死体はこのままなのだろうか。


 腐敗がひどくなるし、カラスにもっと食べられる。


 それじゃあんまりだと思ったが、抗議する気力もなかった。


 ごめんね、七夏。


 ◇


 帰り着く頃にはもう昼間になっていた。


 車が停まる。このまま車内のソファに座っていたかったが、怠い体に鞭を打ち、木の板を必死に運ぶ。母は運転し終えると、面倒くさそうに家の奥へと消えて行き、まるで私を手伝ってくれなかった。まあ、別に良いのだが。


 暴力的な陽射しは、軽い運動をしているだけで、ごっそりと体力を吸い取っていく。もう背中が汗でビチョビチョだ。改めて一人で小屋を作り上げた冬夜の凄さを思い知る。


 或いは、そこまでしたくなるほど追い詰められていたのだろうか。


 家の中までたどり着くと、玄関に彼女の靴はなかった。身体中の汗が冷える。私は彼女の家の方向しか聞いていないのだが、こんなにも時間がかかるような遠い場所にあるのだろうか。いや、ここからいつもの待ち合わせ場所までは、そう遠くない。では、向こうからも、そんな無茶苦茶な遠さではない筈だ。


 じゃあ、何で彼女は帰ってきてないのか。


「…………」


 様子を見に行こう。冬夜は怒るかもしれない。でも、順調に事が進んでいるなら、帰っている彼女と鉢合わせるはずだ。それならば何の問題もないだろう。


 一応、水筒は持っていっておこう。


 後は……。


「……………………」


 こんなもの持っていってどうなるのか。まあ、お守り代わりにポーチに入れておこう。


 ◇


「どうだ冬夜。これからここがお前の部屋だ」


 彼は押し入れの襖を開ける。そこには一枚の薄いタオルが敷かれていた。


「どうだ? あの犬小屋を思い出すだろう?」


 どんな理不尽も暴言も、私の中をすり抜けていく。周りの全てがあやふやにしか捉えられない。私の視界は、未だあの静かな居間にあった。黒ずんだ肉の塊だけが、脳髄の奥でたゆたんでいる。


 だから、何も考えることなく、反射的に『私の部屋』へ身を入れた。こんなに暗いところでも、現実よりは暗くない。こんなに冷たいところでも、心よりは冷たくない。


 埃くさいし、床は硬いし、およそ人の過ごす場所ではない。けれど、それが寧ろ心地よかった。人でないように過ごしていれば、いつか本当に人じゃなくなって、ゴミのように死ねるのではないかと思ったからだ。そうすれば、母の気持ちも分かるだろうか。


「……違うんだよなぁ」


 錦城は苛立たしげに呟いた。まるで、スランプに陥った画家のように。


「廃人同然になられても面白くないんだよ。私はもっとカタルシスを得たいんだ。どんな酷い目にあっても生きようと踠く健気さが好きなんだ。首を絞められて酸素を求めて、必死に口を動かすキミが好きだったんだ。部屋を埋めるほど大勢の男から暴力の嵐にあって、血反吐を堪えるキミが好きだったんだ」


 きっと、彼は不愉快なことを言っているのだろう。だが、その言葉の半分以上は、まともに聞き取ることが出来なかった。脳が聞くことを拒絶しているのかもしれない。


 これ以上、周りの世界に触れたくなかった。


「すまない冬夜。私はキミに酷いことをしてきたし、これからもする予定だ。けど、それは憎いからだとか嫌いだからとかではない。寧ろ、『好き』だと思うからなのだよ。そうでもなけりゃ、わざわざ家で飼うなんてしないだろう? 勿論、異性としてじゃない。女性として見るには余りに幼すぎる。しかし! 芸術としてのキミは本当に素晴らしい! その価値は、あらゆる名画を凌駕するだろう!」


 息を切らして熱弁する。しかし、全く私が聞いてないことに気付いたのだろう。肩を落として落胆する。


「人の話はちゃんと聞かないと駄目だろう? 学校で教わらなかったのか? ああ、行ってないんだったな。悪い悪い」

「……………………」


 私は死体を模倣する。死にたかった。本気で死にたいと思えば、勝手に心臓が止まって、死ねるんじゃないかと思った。死体は喋らない。だから、私は彼の言葉に何も返さない。


 そうしていると、悪魔は飽きたのかその場を立ち去る。これからどうなるのだろう。どうすれば、私は幸せになれるのだろう。どうすれば、不幸に立ち向かえるだろう。そうやって、これからの事を考えている時点で、自分は死体になる気なんてなかったんだと気が付いた。死ねば、これからなんてないんだもの。


 これからなんて怖いもの、ないんだもの。


————


「蝉病。私は六日後には死んでる」


————


「………………」


 川で話した哀れな少女を思い出す。私は初めて、彼女に嫉妬した。私の手にも痣があれば……。


「…………駄目…………っ!」


 それだけは駄目だ! ただでさえ私には何もないのに、あの人さえも憎くなれば、本当に私の存在価値が無くなってしまう。あの人だけは信じてたい。あの人だけは好きでいたい。それだけが、この世界で唯一好きになれる要素だから。


「七夏……! 七夏…………っ!」


 今、彼女はどうしているだろうか。もしかしたら、心配しているかもしれない。初めから母になんか会いにいかなきゃよかった。彼女の残りの人生を、出来る限り幸せにするのが私の役目だったのに。変な情に囚われたせいで。しょうもない罪悪感から逃れたいがために。


 私のせいで、彼女までをも傷付けることになるんだ。


「……………………」


 もう、嫌だな。


 悪魔の足音が近付いてくる。


「人間というのは高度な言語を有している。その役割は、コミュニケーションの道具という枠をこえ、芸術作品の域にまで達している。しかし、人が作ったが故に美しいものは、人が作ったが故に不完全なのだ。たとえ、どんな言葉を使っても、意思が言葉に変換された時点で、話者が聞き手に伝えたい本意を、そのまま伝えることなど不可能だ。では、我々は完全なる意思の疎通はできないのだろうか? それでも、私は諦めたくない。だって、そんなの凄く悲しいじゃないか」


 彼は私の目線に合うようにしゃがみ込むと、鋭く光るハサミを見せつけた。


「人の作り上げた言語は不完全だ。では、神の創り上げた『痛み』はどうだろうか? これは言語が生まれる前から存在する根源のコミュニケーションだ。言語を持たない赤子でも獣でも、『痛み』とは忌避すべきものだと理解できる。その度合いや種類によって、どのぐらい、どのように脅威なのか、言葉にせずとも本能で測れる。ならば、我々は『痛み』によって、より純粋な意思の疎通が可能なのではないだろうか。……特に、人として壊れかけているキミにとっては」

「……………………」


 彼女は彼の言葉に耳を傾けず、ただ虚を見つめていた。しかし、細い指先に冷たい刃物が当てられて、初めて覚醒する。そこで、彼は自身の推論の的中を予感し、口角を上げた。


「…………………………痛……」


 散漫だった思考が、指から走る鋭い電流で纏められる。ハサミの両刃が、人差し指にザックリと刺さっていた。ドクドクと血が流れ落ちる。


「……痛いっ……! 痛い!」


 急いで離そうとするも、手を掴まれる。それどころか、動けば動くほど刃が食い込んで痛みが加速した。柔な繊維が千切れる感触。血管が破れ、熱くなる温度。逃れることができない恐怖。


「痛いっ! 痛い痛い痛いっっ! 離して!」

「そうそれだ! それこそがキミの芸術性だ! これこそが真のコミュニケーションだ!」


 傷口の感覚が無くなれば、その少し上を。指の感覚が無くなれば、その隣の指を。次々と指がズタズタになる。その度に耐えがたい痛みに襲われた。身悶えすることさえ許されないで、過呼吸になりながら涙を流す。


 怖かった。自身の体が欠乏していく感覚が。自身が死に近付く感覚が。


「芸術品を芸術たらしめるものとは何か。それはそこに込めた心の熱量だ。その温度、その躍動、その物語こそが美しいのだ。だから、人の苦痛こそが至上の美なんだよ。それは根源から人間の心を揺れ動かす、最も凄まじいエネルギーだからだ……! その時、最も人は輝き、それは万物にも勝る美しさを孕んでいるのだ。今、私はキミのエネルギーを受け取っている。その血の温度、その血管の躍動、その涙の物語から、キミの真なる意思を受け取っている。鑑賞とは、『対象の美』との対話だ。ならば私は今、極上の芸術を鑑賞しているのだ! なんと喜ばしいことだろうか!」

「…………ぅう…………! っ…………!」


 ジンジンと鈍い痛みが残留する。痛くて涙を拭うことすらできなかった。なんで、こんなになってまで生きているんだろう。痛みとは死を回避するためのサイレンだ。ならば、死にたい私が何で、それに苦しまなくちゃいけないんだろう。


 七夏のところに帰りたい。


 もう、苦しまなくていいんだと、優しく抱きしめてほしい。


 押し入れの中に居る私は、彼が飽きるまで出ることなんて叶わない。七夏のところへ帰れない。


 でも、手の指は全部切り終わったから、これで終わるかもしれない。


 そんな期待は裏切られた。


「『アルバート・フィッシュ』というシリアルキラーを知ってるかい? 彼は極度のマゾヒストで、自身の体に様々な拷問を行い、それを快楽としていたらしい。だが、流石の彼でも、あまりの痛みに途中で断念したものがある。それは『爪の裏側に針を通すこと』だそうだ」


 彼は、ポケットから針を取り出した。それも丁寧に二十本。


「こんな話を聞いたら、どれだけ痛いか試してみたくなると思わないか?」


 私の中の何かが、壊れた。


 勢いを増した涙が溢れる。


「もう嫌だ……! もう嫌だっ!!!! なんで、私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの!? 何か、私が悪いことしたのっ!? 何でただ、普通に生きることすら出来ないの!? ねぇ!? 許してよ!? お願いだから…………許してよ……!!!」


 静寂の間が流れる。


 ただし、それもすぐに終わる。


「やはりキミは美しい」


 爪に針があてられる。


 それはゆっくり侵入する。


「——————————っ」


 長い長い、地獄を味わう。


 ◇


「私は昔から人の絶望が好きだった。それを見ると興奮した。だが、真っ当に生きたかった私には、精々画面越しに楽しむことしかできなかった。常人として生きるのは楽だろう。敷かれた秩序に難なく従えるからな。狂人として生きるのも楽だろう。自分で新たな秩序を築けるからな。しかし、その間というのは非常に生きづらいものだ」


 男は満足とも脱力とも取れない表情で襖に背を向ける。


「私は自分の手で絶望を作り上げたかった。素晴らしい絵に心打たれれば、誰しも画家に憧れるように、私は画面越しにいる惨劇の作家達に憧れた。それでも警察の世話になるのは怖いのだ。芸術のために全てを捧げられるほど、私は酔狂にはなれない。次第に本当は人を傷付けることなんて自分にはできないんじゃないかと、夢を手放しつつあった。そんな私を救ってくれたのは、紛れもない君自身だよ冬夜」


 顔の隣に飛んできた蝿を払う。


「この村はイカれている。現代日本にこんな無法地帯が許されていいのかと、衝撃を覚えた。自分の今まで信じていた常識が音を立てて崩れ散ったよ。ここでは国の法よりも村の法が優先されている。皆が嬲ってよいと決めた者たちには、何をしようと許される。私の歪んだ願いもここでは果たされるんだよ。キミの手によって」


 蝿の数が増えていく。


「キミは私の作り上げた絶望に染まってくれた。私に支配されてくれた。だが、最近のキミは違った。苦しみや悲しみ以外の色を知ったかのような顔をしていた。私ともあろうものが、それに嫉妬を覚えてしまったのだよ。小屋を壊したのも、親を壊したのも、その為だ」


 男は次第に泣き始める。


「私は私が怖いんだよ……! こんなひどいことをしてしまって、心の底から悔やんでいる……! それでも、やめられないんだ。凄惨な光景を見ていないと落ち着かないんだ……! つくづく矛盾しているよな。悪行を為すことに罪悪感を抱いているのに、それを和らげる手段を悪行以外に知り得ないのだから」


 涙を拭い、襖をそっと覗き込む。そこは悪臭で溢れていた。


 少女は余りの痛みに、嘔吐と失禁を繰り返したのだ。この上なく汚れきった小さな部屋で、死んだように倒れていた。実際、肉体は死ぬ寸前で、心はとっくに死んでいた。冷たく青白くなった肌に、蠅が止まる。それに彼女は気付かないまま、ただ目を見開いて暗闇を見つめていた。


「それにしても、ひどい臭いだ。外の空気でも吸いにいくか」


 男は軽やかな足取りで家を出る。


 ◇


 一歩一歩、道を辿っていく度に、胸のザワつきが大きくなる。嫌な暑さも相まって、軽い吐き気を催してきた。


 冬夜。世界で唯一好きな人。いつまで経っても出会えない。角が現れる度、そこからヒョコリと出てくるのではないかと期待するが、あるのは静閑な道だけだった。


 どうか無事でいてほしい。さもないと、私自身どうなるか分からない。もう既に気が狂いそうだ。今すぐにでも抱きしめて、安堵感に身を委ねたい。照れ臭く笑う、彼女の姿を目に焼き付けたい。


 結局、彼女と出会えないまま、見知らぬ村に辿り着く。


 蝉の音だけが響き渡る、穏やかな村だ。にもかかわらず、得体の知れない気持ち悪さがあった。常に何処からか誰かに見られているような気分がする。


 ここが、冬夜の過ごした村だろうか。


 どこかで道を間違えて、全く知らない村に辿り着き、その間に冬夜が帰ったのかもしれない。それならば、全て解決なのだが、ここまで一本道だった。あまりに都合が良すぎるだろうか。


 兎にも角にも、とりあえずここで冬夜を捜さなければならない。居るとすれば、まず第一に考えられるのは彼女の家だ。


————


「見つけたぞ! 祝園いわぞののところの冬夜だ!」


————


 いつかの怒声を思い出す。あまり愉快な記憶じゃないが、役に立つ事もあるものだ。


 表札の名を一つ一つ確認していく。こんなことをしていれば、不審に思われるのではないかとビクビクするが、そもそも目撃者になるような人が誰もいない。家の奥からはテレビの音が聞こえてくる。やたら引きこもりが多いのか、皆んな何処かに出かけているのか。今の私には都合が良いが、どこか居心地が悪かった。


 私は遂に見つけてしまう。これにて、さっき考えた最良の可能性は潰えた。『祝園』。しっかりとそう書かれている。こう言っては失礼かも知れないが、正直、ボロ臭いという印象を真っ先に受ける。


 しかし、そんなことはどうでもいい。問題はこの中がどうなっているかだ。冬夜が酷い目に遭っているかも知れない。でも、だとしたらどうする。仮に大勢の大人から暴行を食らっていたとして、私が入ったところでどうしようもない。


 しかし、その心配はなさそうだ。中から音は聞こえない。むしろ、不気味な程に静かだ。ならば、このまま入っても問題ないだろう。


 玄関に手をかける。不用心なことに鍵はかかってないようだ。こんな田舎じゃよくあることなのか。中から少し覗き込む。靴は二セット。おそらく、冬夜の物と彼女の母親の物だろう。この中にはこの二人しかいない。


 胸の鼓動は早くなる。私はこのまま入るべきだろう。インターホンを鳴らした場合、冬夜に会わせて貰えなくなるかもしれない。それはマズい。もし彼女が何かされていた場合、無理矢理にでも連れ出して、逃げなければならない。その為には、この玄関で母親に足止めされるという位置関係は非常に良くない。もし、何事もなかった場合、インターホンを鳴らさないと、不法侵入した私は母に訝しめられることだろう。しかし、そのデメリットは前者のケースと比べて遥かに小さい。


 犯罪を犯すのは少し気が引けた。でも、悪いのは向こうだし、鍵を開けていたのも向こうだ。覚悟を決めて中に入る。


 余りに静かすぎる。本当に冬夜は居るのだろうか。何より、強烈な臭いが鼻につく。生ゴミでも放置しているのか。だが、現実は想像を遥かに凌ぐ悲惨さだった。


「!?……………………」


 人の死体。それもおそらく母親だろう。腐りきっていて、とても目を当てられたものじゃない。だが、強烈な光景に対するショックよりも、さらに大きな不安で覆い尽くされる。


「冬夜は……冬夜は、どこ……?」


 全身が細かく震えだす。何があったのか知らないが、冬夜に何か異常で良くないことが起こっていることだけは分かる。或いは、もう既に……。


 探さなくては。絶対に探さなければ。家中を駆け巡るが、見当たらない。監禁されている可能性のあるところは全て開けたが、いずれにも彼女は入っていなかった。早く早く探さなければ。手遅れにならないように。


 靴は玄関にある。では、靴を履く前に誰かに連れ去られたのか。外に出て地面を見る。確かに、何かが引きずられたような後がある。偶々できたと言われても納得できるような薄い跡だ。しかし、他に手掛かりもない。途切れ途切れのそれを辿る。


 見事、一つの家に辿り着いた。若干、他の家より豪華なぐらいで他に変わった所はないが、探るしかない。


「……くそっ!」


 ドアへ手をかけるが、鍵が閉まっている。もはや、不法侵入がどうとか、中で家主と対峙したらどうするかなんて、全く考えていなかった。何がなんでも冬夜を探さなければ。それ以外はもうどうでもいい。


 縋るような気持ちで裏庭へ行く。


「……こいつはバカなのか?」


 思わず声が出る。掃き出し窓に一切鍵がかかってない。難なく開けて、土足のまんま上がり込む。


 家具一つない不気味な和室。


 酸味を孕んだ悪臭が、狭い空間に飽和している。


 わずかに開いた襖から、それは這い出て襲い来る。


 しばらく、体がフリーズする。


 喉がカラカラに渇いている。


 私は人が来ちゃダメな所に来てしまった、と確信した。


 襖を開ける。


「冬……………………夜………………?」

「七……………………夏………………?」


 なんだ、これは?


「——————————————」


 こんなことが、こんなことが、こんなことが、許されてたまるものか。こんな理不尽が、こんな惨劇が、こんな絶望が、この世に在ってはならない。自分が自分じゃなくなっていく。脳髄が、総身が、精神が、憎悪一色で塗りつぶされる。犯人が憎い。この世が憎い。


 そして、何より自分が憎い。


 今朝、私が冬夜を止めていれば。今朝、私が冬夜についていけば。今朝、私が自分で決めていたら。こんなことにはならなかったろうに。


「七夏………………見ないで…………!」


 襖の少女は枯れた喉で、切望する。


 感情の暴走が一旦止まる。


「今の私、穢れてるから見られたくないの……! 身体も、心も、綺麗な所なんてもうないの…………! でも、せめて七夏の中だけでは、綺麗な私で居たいから……これ以上、七夏を傷付けたくないから……! 私のことは、見なかったことにして忘れて?」

「……………………」


 そうだ。私が今すべきなのは、憎悪に飲み込まれることじゃない。


 この少女を救うことだ。


「なっ……七夏っ!?」


 色んな体液に塗れた彼女の体を、覆い被さるようにして抱きしめる。自然と心が浄化されていく気がした。


「冬夜は綺麗だよ」


 もう、我慢ができない。


 ゆっくりと口づけをする。


 柔らかい唇が触れ合う。脳が蕩けて、時間が止まる。至福に心を浸からせる。


「七夏…………!」


 赤い顔で涙ぐんでいる。それを眺める私の顔も、きっと燃え上がっていたことだろう。


「好き」

「私も……好き…………!」


 彼女は生きている。それだけでも、まだ救いがある。


——ガチャリ。


 玄関の鍵が開く。それと同時に、冬夜の顔が恐怖に歪む。


「大丈夫。私が守ってあげるから」

「でも……!」

「静かに」


 彼女の口に指を当てる。彼女の震えを止めるように、頬を手で撫でる。私は、このいじらしい生き物を救わなきゃならない。


「襖は開けないでね」


 彼女の震えが止まるのを見届けると、私はそっと物置を出る。


 お守り代わりと思っていたが、まさか本当に役立つ時がくるとは。或いは、最初からこうなると薄々分かっていたのかもしれない。ポーチからそれを取り出して、扉の前で身構える。廊下の音は大きくなる。


 どんどん、どんどん、大きくなる。それに合わせて、胸の鼓動も大きくなる。これは緊張か、高揚か、果たしてどちらだろうか。いずれにしろ、その奥にあるのは激しく冷たい憤怒だった。


 音は最高潮になる。


 そして、扉は開けられる。


 気付かれるより先に、足を踏み入れ、振りかざす。


 命中。肉の抉れる音と同時に、華麗に絵の具が飛び散った。手にした鉄のキャンパスには、鮮やかな赤が描かれた。


 工具用のなた。秘密基地を作るため、ホームセンターで買っていたのだ。


 男は脇腹から出る血を抑えながら、何が起こったか分からずに、ただただ息を切らしていた。こいつには見覚えがある。一昨日、冬夜を攫いにきた錦城とかいう妙に気持ちの悪い男だ。冬夜を監禁したのも、彼女の母を殺したのも、こいつで間違いないだろう。


 相手が立ち上がるより先に、足を叩っ斬る。スイカが半端に割れるように、足の裏が縦にパックリ裂ける。不思議と嫌な心地はしない。それも冬夜への愛ゆえだろう。彼女のためならなんでも出来る。冷酷無比な悪魔になれる。


「痛いぃ! ああああああっっ!!!」


 やっと理解が追いついたのか、今頃になって痛がりだす。無様に床を暴れる様は、釣り上げられた魚のようだ。もう既に確定した死を、必死に逃れようと踠いている。


 そこへ馬乗りになる。ただ殺すだけでは飽き足らない。私の心のドロドロは、それでは吐き出しきれないだろう。まずは左手の指を切り落とす。


「ああああああっっっ!!! 怖いぃい!!! 痛いいいいぃぃぃ!!」


 切れるまで、何度も何度も振り下ろす。その度、彼は絶叫する。現代アートを彷彿とさせる、異次元的な曲がり方をして、拗れに耐え切れず破裂する。親指以外を切り落としたところで、ある違和感に気がついた。


 彼は、一切の抵抗を見せない。


 それどころか手を広げて、切りやすくしているようにさえ見える。ふと、その顔を見てみると、恍惚とした笑顔を浮かべていた。


「痛いっ! いいぞ! すごく良いいっっ!」


 痛みに悶えているのかと思ったそれは、ただ快楽に笑い転げているだけだった。


「キモ……」


 強烈に気持ち悪い。何なんだコイツは。全くもって理解ができない。思わず漏れ出た罵倒の声も、彼の耳には届かない。千切れるような哄笑だけが響き渡る。


 嫌悪感に身を任せて、彼の胴体を無造作に斬りつける。その度、笑いのボルテージは上がっていく。


「そうかっ!! そういうことだったのか!!!! こんなカラクリが! こんな面白いドッキリが! この世界にあっただなんて! はああああぁぁぁ………………痛いぃぃぃぃ!!! 死んでしまうううう!!!」


 一刻も早く殺さなければ。これ以上、不快な様を見てられない。鈍い刃を顔面に何度も何度も叩きつけるが、頭蓋骨というのは思った以上に硬いもので、中々うまく殺せない。凄惨な傷と腕の疲労だけが増え続ける。


「死ぬのは怖い! 怖いが、すごく興奮する!! 私が絶望に魅了された理由!! 他者へ絶望を与えることに悦びと罪を同時に感じていた理由!!! それは私自身がそれを欲していたからだ!! この恐怖が!! 痛みが!! 気持ちいい!!!」


 左目が潰れ、白い飛沫が宙を舞う。セミのハラワタのようだった。かき混ぜられたカレーのように、顔がグチャグチャになっている。


「最高だ! 最高だ! 最高だっっっ!!!! でも、でもでもでも…………死ぬのは怖いいいいいいいいい!!!!」


 力一杯振りかざす。それと同時に、頭が潰れる。力任せに菓子袋を開けた時、中身が飛び出すみたいに、ドロドロの脳が噴出した。


「あっ……………………」


 その瞬間、『やってしまった』と思った。蝉を殺したのとは訳が違う。私と同じ、人を殺した。数時間前までは、一般人として過ごしてきたのに、今この瞬間から、『人殺し』になったのだ。


 もう、普通には戻れない。


「………………いや、それがどうした」


 そうだ。どうせもうすぐ死ぬのだから、ここでコイツを殺したところで私の人生に支障はない。ならば、冬夜を守れたという事実だけが尊いはずだ。


 唯一、引っ掛かるものがあるとすれば、彼の最期の絶叫だ。痛みを喜びとしていた彼でさえ、死を恐怖と感じるのだ。私もそれと直面した時、あんな風に発狂するのだろうか。


「……………………」


 破れた顔を俯瞰する。やはり、生き物の死体とは醜いな。


 まあいい。それより先に、冬夜のケアをしなければ。


「冬夜。終わったよ」

「…………殺したの?」


 思わず、一瞬ドキリとする。人殺しとなった私を、彼女は一体、どう思うだろうか。だが、そこに死体がある以上、もう隠しようはない。あえて、ハッキリ言うことにしよう。


「殺したよ」


 口にしてみれば、容易いものだ。彼女はよろけながら立ち上がる。


「ありがとう…………!」


 彼女は歓喜に泣いていた。だが、自身の汚れを気にしてか、ハグすることに躊躇していたので、私の方から抱き寄せた。


「まずはシャワーでも浴びなきゃね」

「うん……でも、痛くてちょっと歩きにくい」


 傷跡からは未だ僅かに血が流れている。それでは物を持つのも厳しいだろう。自分で体を洗うのも苦しい筈だ。


「実は、私もシャワー浴びたいんだよね」


 私は私で温い返り血で汚れていた。


「それって……!?」

「嫌………………?」


 私の胸に顔を埋めてから彼女は答える。


「………………嫌な訳ないじゃん」


 ◇


 彼女の髪をドライヤーで乾かす。軽い割に乾きが良く、妙に性能が良いようだ。


 他人の、それも好きな人の髪をいじるというのは妙に楽しい。


「…………ツインテール」


 両手で髪を掴んでふざけてみる。


「………………」

「……可愛い」


 髪を括るものがないのが残念だ。


 それはそうと、冬夜はさっきから赤面したまま黙りこくっている。こんな変なジョークにも乗ってくれない。


 別に私だって慣れてる訳じゃないが、流石に冬夜には早すぎただろうか。


 ◇


 救急箱を取り出して、彼女を膝に座らせる。


「……ごめん。これじゃ秘密基地作れそうにないや……」


 ようやく、言葉を発せるようになったようだ。だが、それと同時に憂鬱も這い上がってきたらしい。


「大丈夫。冬夜のせいじゃないよ。私もあの鉈はもう使いたくないしね」

「でも…………」


 彼女は顔を曇らせる。あんな凄惨なことがあったのだから仕方がない。それに加えて、色々と後ろめたさを感じているのだろうか。


「じゃあさ、別の楽しいことしようよ」

「何?」

「私の街に遊びに行くとかどう? 遊べるところもいっぱいあるし、二人で巡れば楽しいと思うよ?」


 彼女の顔が晴れていく。


「いいの!?」

「うん」


 彼女が喜んでくれれば、すごく嬉しい。私も私で、死ぬまでに楽しい思い出を沢山残しておきたいのだ。


 あんな恐怖を味わう前に。


 絆創膏を爪痕に貼ろうとする。


「あれ? 消毒液はつけなくていいの?」

「うん。あれはバイ菌を殺すけど、傷を治すための菌も殺すから傷の治りが遅くなるらしいよ」


 彼女は呆気にとられた後、吹き出すように笑いだす。

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