木曜日

 訪れた朝に、絶望した。


 全部全部夢なんじゃないかと、愚鈍に信じていたかった。だが、色濃くなった手首の痣は無情に時間の経過を告げる。


 ああ、冬夜は本当に……。


「……………………何もしたくない」


 未だに心の整理が出来ず、ただただ気持ちが悪かった。不条理なこの世も、皮肉な程に平和な村も、何もかもムチャクチャにぶち壊れたらいいのに。全員、死ねばいいのに。


 でも、何より気持ち悪いのは無力な私だ。


 今の私に、何が出来るだろうか。何をすれば、冬夜は助かるだろうか。或いは、何をしようと助からないかもしれない。私が関わるべきことではないのかもしれない。


 そんなことを考えていると、一つの答えに行き当たる。


——このまま、何もせずに忘れればいいんじゃないか?


 所詮、私は残り数日で死ぬ命だ。三日後の夜に眠りにつけば、そこから起きることはもう無い。たった三日で何が出来ようか。残りの寿命を全て費やしても、彼女を助けられる保証はない。助けたところで、すぐに私は彼女と別れるのだ。


「…………私は、初めて出来た友達すら裏切るのか……?」


 いいや、これは裏切りなんかじゃない。


 元々、私には関係なかったことだ。そもそも、どういう事情かすら碌に把握できていない。ここで逃げたって、誰も私を責めはしないだろう。何より、先に約束を破ったのは彼女の方だ。


 そうだ。自分の幸せを守るためなら、何もしないのが正解だ。


「……馬鹿馬鹿しい……」


 自分自身の淀んだ思案が憤ろしい。


 そうだ。そんな幸福なんて欺瞞でしかない。彼女を見捨てたまま、幸せに過ごせる筈がないんだ。


 何より、私自身の心が助けたがっている。


 ただ、それをするには余りに私は無力で、無力故に、失敗するのが怖いのだ。何も為せぬまま、残りの人生を空費するのが恐いのだ。


「どうせ、何もしないくせに……!」


 今の私に出来るのは、布団の中で包まって、すすり泣くことだけだった。


 ◇


 彼女ともう遊べないというのに、どうして私はまだこの家に泊まっているのだろう。ゲームの一つもありゃしない、本当に退屈な場所だ。


 開け放たれた牢獄で、足りない暇を持て余す。


 ふと、時計を見る。


 昼の一時。他の二十三個と変わらない、普通の時間。


 では、どうして私は外に出ているのだ。こんな暑苦しいだけの場所、まだ退屈な家の方がマシだというのに。一昨日と、昨日と、繰り返してきたルーティンを、どうして未だに守っているのだろう。


 今までの日常は、もう残っていないのに。昨日までの『当たり前』は、『ありえない』になっているのに。


——だが、その『ありえない』が居た。


「七夏!? 今日も来てくれたんだね!」


 昨日と何も変わらない声で、昨日と何も変わらない姿で、私の友は笑っていた。


——ああ。どうして、この笑顔を裏切れようか。


 気付いたら、彼女を強く強く抱きしめていた。


「……」

「……暑いよ、七夏。………………まあ、それも悪かないけどね」


 目頭に込み上げてくる、熱いものをグッと堪えて、彼女を離す。そこで目に飛び込んだ顔が赤かったのは、この激しい熱気のせいか、それとも、別の何かのせいか。


「行こうか!」

「……うん……!」


 それ以上、彼女は語らず、私は聞かなかった。


 今日のセミは一段とうるさい。


 ◇


 お互い指を絡ませ合い、緑の旅路を歩んだ先。


 やけに目立つ大木の下、雑に散らかったガラクタがある。まるで何かの残骸のようで、木の板やら新聞紙やらが……。


「これは…………?」


——脳が理解を拒みだす。


 五月雨の如き冷や汗が、流れ出しては止められない。底の見えない絶望が、心も身体も支配する。あまりに無情な現実を、眼球の奥に焼きつける。


 思い出が、何物にも代えがたい、私たちの思い出が、無残な姿に変わり果てていた。


 未熟ながらに意匠を凝らされていた小屋は、乱雑に破壊されている。大切に保管されていた本やゲームも、今や見る影はない。


 何故、そんなことになっているのか、わからない。


 目の前の光景が許容できず、二人、呆然と立ち尽くす。止まった時を、先に動かしたのは冬夜の方だった。


「お……っ…………! ぅう……っ!」


 その場で、彼女は腹の中のモノを吐き出した。彼女の意思と関係なく、嘔吐物は喉を通り抜け、緑の地面を茶色く染める。


「……っあ……はぁ……っ……!」


 内臓を締める激痛と、喉を燒き裂く液体に、苦悶の表情かおを浮かべていた。たちまち、崩れるように座り込み、澱んだプールに涙を落とす。喉につっかえた元朝食を、痙攣しながら吐き捨てる。


「大丈夫!? 冬夜……!?」


 私だって、信じられない程のショックを受けている。だが、彼女は私よりずっと長い間、この小屋で過ごしてきたのだ。その悲しみは、誰にも推し量れる筈がない。


 私にできるのは、ただ、彼女の傍にいることだけだ。


 ただ、それだけなのに——彼女は肩に置かれた私の手を振り払った。


「……………………帰る」


 静かに呟いて、彼女は立ち上がる。さっきまで、うずくまりながら吐いていたとは思えない程に強固な足取りで、茂みの奥に消えていく。ただ、その表情だけは、どうしようもなく暗かった。


「待って……!」


 腕を掴んで、引き止める。それでも、彼女は頑なにこちらを振り向かない。


「……私は、貴方と一緒に居ちゃいけない。私と一緒にいると、貴方も傷つくことになる」

「そんなことない……! 私は、冬夜と一緒にいる時だけが幸せなの……!」

「あの小屋ね、多分、村の人たちが壊したんだよ。昨日、私が変な茂みから出てきたから、その先を探索したんだと思う。そうやって、あの人たちは私の居場所を壊すのが楽しいんだよ……! だから、貴方は私の居場所になっちゃいけない。そうしたら、きっと貴方も壊されるから……!」


 ◆


「どこに行ってたの冬夜!? 私たちは祈りを捧げなきゃいけないのよ! そうしないと、パパが帰ってこないじゃない……!」


 ここに私の居場所はない。


「冬夜の親、カルトなんだって……」

「聞いた聞いた……。お母さんから、『あの子には近付くな』って言われたもん」


 ここにも私の居場所はない。


 じゃあ、どこに私の居場所はあるんだろう。


「お前はこの世に居ちゃいけないんだよ!」


 怖い声が、響く。ごつい腕が首を絞める。苦しい。死んでしまいそうだ。昨夜、あんなに死を望んでいた命が、今は必死に生きようと踠く。だが、圧倒的な体格差はひっくり返らず、終わりの見えない地獄を味わう。


 なんで、私がこんな目に遭わなきゃ行けないんだろう。私は何もしていないのに。なんで、普通に生きられないんだろう。


「冬夜も、パパに会いたいでしょ……?」

「………………うん」

「じゃあ、祈りを捧げましょう……」


 そう言って、母は私に刃物を持たせる。


 まな板の上には、鶏が紐で縛られ動いていた。絶対、逃げられやしないのに、必死に生を望んでいた。まるで、村の輩に嬲られている時の私のように。


 刃物を持つ手が震える。


「早くやりなさい、冬夜」

「…………うん……」


 いつまで経っても慣れない。ただ、抵抗しても無駄だってことだけを学んだ。母の言うことに、疑問を呈しちゃいけない。意味が分からなくても、ただ従うしかない。


 だから、その刃を、生きた肉に刺しこむ。生き物の肉を斬る感触。痛々しく溢れ出る、紅。刃越しに、消えかけの生命が苦しみもがいている躍動を感じる。


 硬い繊維を切り落とす。不気味な頭が転がって、ついにソレは息絶える。その断面から、静かに紅を流し続ける。


「さあ、心を込めて飲みなさい」


 流れ出たそれを啜る。口いっぱいに、獣の臭いと鉄の臭いが充満する。


 私はもう、何も考えたくなかった。


 家も、学校も、村の中のどこにも居たくなかった。


 いつか私に浴びせられた罵声の通り、私はこの世に居ちゃいけないのかも知れない。


 いつもまな板の鳥に向ける光を、自身の首もとに当てる。きっと、とんでもなく痛いのだろう。だが、そっから先は、これ以上痛い思いはしなくてよくなる。誰も私を望んでいなくて、私も自分を望んでいないのなら、こうした方が良いに決まってる。


 けれど、震えた腕は、もうそれ以上動かない。


 この世に神がいるのなら、どうして『死の恐怖』なんてものを作ったのだろう。


「そんなものなけりゃ……私は早く死ねるのに……!!!」


 誰にも知られず、独り泣く。


 あと、何度こんな茶番を繰り返せばいいのだろう。


 それでも、こんな地獄と変わらない世界でも、一切の希望が無かった訳じゃない。


 私の家にはゲームも漫画もあった。お父さんが、まだ生きてた頃——お母さんが、まだマトモだった頃——買ってもらえたものだ。何度も読んだ漫画と、何度もやったゲームだったが、これしか娯楽のない私にとっては紛れもない希望であった。


 それに、隣の村に行くのは好きだった。


 そこでは私は何者でもない私になれた。親や今までの立ち位置なんて関係ない、ただの冬夜になれた。悠々と伸びる無名の木が、ありのままに生きているように、私もまた自然の一部と化して、数多の下らない枷から解き放たれている気がしたのだ。


「お嬢ちゃんサイダーいるかい?」

「いえ……えっと、私お金持ってないんで……」

「今日は気分がいいから無料だよ! ほれ!」

「えっ……! あっ、ありがとうございます……」


 この村では、私は人の優しさに触れることができた。


 この世界には善い人も悪い人も居ない。ただ、善い行動と悪い行動があるだけだ。


 私に危害を加える人たちだって、別の誰かには優しさを振り撒いているのだろう。相手に対する行動の違いは、立場の違いにほかならない。だから、何者でもない私になれるここでは、心の温もりを感じられる。


 ここでしか、感じられない。


 けれど、もしもこの村でも立場が変わったらどうだろうか。隣村の私の噂を聞いた時、あの駄菓子屋のおじさんは同じ笑顔を見せるだろうか。善い人が居ないとは即ち、状況次第で誰しも私に敵意を見せると言うことだ。


 それが、心の底から怖かった。


 今まで、信じていた誰かに裏切られるのが怖かった。


「どうしてママの言うことを聞いてくれないの!?」


 ヒステリックな叫び声と、投げられた皿の断末魔が、オンボロな家に響きわたる。母は獰猛に怒りながらも、誰よりも彼女自身が脆く見えた。今にも崩れてしまいそうで、怒鳴られている私の方が不安になるぐらいだ。


「冬夜はパパが嫌いなの!?」

「いや……」

「じゃあ、ママが嫌いなの!?」


 床に散らばった皿の破片すら気にかけず、こちらを凝視したまま詰め寄ってくる。そのまま髪を引っ張られて、私は宙に浮いた。


「ママのことが嫌いだから、言うことを聞かないの!? 私は冬夜を産んで、毎日家事をして、こんなにこんなに冬夜に尽くして、愛しているのに、冬夜はママのことが嫌いなのね!」

「痛い……! 痛いっ! やめてよ、ママ!」


 彼女だって、父が死ななければ、こうはならなかっただろう。慈愛に満ちた母親であった彼女が、状況さえ変わればこんな風に変わってしまう。いや、変わったのは状況だけで、彼女自身の本性は元からコレだったのかもしれない。ただ、その醜い中身が父という皮膜によって覆い隠されていただけなのかもしれない。


 私が人の裏切りを恐れているのは、最も身近な人に裏切られたからだろう。人は状況さえ変われば、その恐ろしい皮の中身を露にすると、誰よりも身に染みて知っているからだろう。


「ごめんね……ごめんね冬夜……。冬夜はいい中学校に行きたかっただけだもんね……。ただ、ママを置いていって欲しくなかったの……!」


 泣きながら私を抱擁する彼女は、本物なのだろうか。かつての優しい母、理不尽に怒り狂う母、弱く泣き続ける母、果たしてどれが本物の彼女なのだろうか。きっと、どれも違うだろう。


 人に『本物のその人』なんてものはないのだろう。あったとしても、永劫にそれを知ることはできない。何故なら、私たちは本物の自分すら分からないのだから。ある時、信じていたものを、別のある時は簡単に捻じ曲げてしまえるのが人間だ。そうしなければ、生きていけないから。


 或いは、この生きるための本能だけが、私たちにとっての本物なのかもしれない。


 だとしたら、本物の私たちというのは、なんと醜悪な姿だろうか。


 人が怖い。他人が怖い。他人が居ると、傷つけられるから。他人が居ると、裏切られるから。一人になりたい。孤独になりたい。誰も居ない、理想郷へ逃げ出したい。でも、そんなものはこの世にない。


 だったら、自分で創るしかない。


「えぇ? あの余ってる板? 特に使う必要もないから持ってっていいよ」

「ありがとう! おじちゃん!」


 私の世界で唯一の優しい人に頼む。


 大量の板を荷車に乗せて山へと運ぶ。途中、手伝おうか、と何度も声をかけられたが全て断った。これは、自分で創らなければ意味がないのだ。


 実に六日間かけて、それは完成した。釘が飛び出ていたり、板がズレていたりと杜撰な所はあるものの、雨風を凌げるぐらいの耐久性はある。中に入ると、何とも言えない安堵を感じた。この狭い空間に、自分一人だけという安心感。何より、自分の手でこんな物が創れるのだという達成感。


 この時、確かに私は成長した。


 翌日、好きな漫画とゲームを持ち込んで、秘密基地の中で安息を得る。


 私は初めて、自分の居場所を手に入れた。


 母が発狂した時も、寄ってたかって殴られた時も、クラスメイトに無視された時も、先生に見捨てられた時も、自分で自分を殺したくなった時も、その小さな世界は私を受け入れてくれた。唯一の安寧の場所として、私を守ってくれた。他人の恐怖を忘れさせてくれた。多量の雨にも耐えられるそれは、私の涙なんて意にも介さず無視してくれた。ここでは私が存在しても許された。


 そこには一人の安堵があった。一人の快楽があった。一人の赦しがあった。一人の自由があった。一人の強さがあった。一人の永遠があった。一人の理想があった。


——ただ、欲を言えば、この自慢の基地を見せる友達も欲しかった。


 ◆


 理想郷もいずれ終わりが来る。そんなこと、薄々分かっていた。けれど、いざ終末に立ち会うと、その絶望の質量に耐えきれなかった。


 虚しいだとか、悲しいだとか、そんな言葉では物足りない。今までの人生を全て否定された感覚。それは生命機能を維持したまま殺されたも同然だった。


 やっぱり、私はこの世界に居ちゃダメだったんだ。


 いつもあの箱の中でやっていた様に、声にならない嗚咽を漏らす。


 そんな私を抱きしめる腕があった。


 ◇


「私は冬夜の居場所になりたい」


 震える彼女を抱きしめる。


「ダメだって……言ってるじゃん……!」


 人は『強さ』と『弱さ』の両方を常に抱える生き物だ。


 彼女は劣悪な環境に居ながらも、それを私に悟られまいと気丈に振る舞い、それどころか、病に罹った私へ寄り添ってくれた。その自己献身の姿勢は、ある意味では『強さ』だろう。


 だが、彼女自身の自衛という観点から見れば、どうしようもない『弱さ』である。自身の心身が摩耗し続けているのに、誰にも助けを求めることが出来なかった。


 その結果がこれだ。彼女は今にも壊れてしまいそうだが、『他人に助けを求める』という機能を、ついぞ習得できなかった彼女は、差し伸べられたソレに対して拒むことしか分からない。そんなことを続けていれば、いつか完全に壊れてしまうと、彼女自身も気付いているだろうに。


 或いは、それを望んでいるようにも見えた。


 私はそれが許せない。


 彼女に壊れて欲しくない。どうしようもない弱さすら、全て受け入れて認めてあげたい。彼女に、存在しても良いんだと、当たり前のことを教えてあげたい。


 それは正義か偽善か自己満足か、私にはもう分からない。ただ、彼女さえ救われるなら、それ以外のことは、どうでも良かった。


「私は後数日で死んでしまう。けど、それまでは絶対に壊れたりしない。だから、その少しの間だけでも冬夜の居場所になりたい」


 こんな物、気休めにしかならないと分かっている。


 だが、気休めでしかない、炭酸の抜けたサイダーに救われた少女が居ることも知っている。


 今、ここで見捨てたら確実に彼女は壊れてしまうだろう。だから、気休めだろうが何だろうが、その崩壊を先伸ばさなければならない。あるいは、その途中に、彼女が解を見つけ出すかもしれないから。


「だめ……ダメなの! そんなことしたら、私戻れなくなっちゃう! 七夏が居なくなった時、耐えられなくなっちゃう! だから、これ以上、七夏が大切な存在になっちゃダメ……!」


 彼女は、ひどく怯えている。死よりも苦しい何かを感じ取って、弱々しく怯えている。


——けれど、そこで彼女は初めて此方へ振り向いた。


「ダメ、なのに…………!」


 二人の少女は互いに抱き合う。今までの、どんな抱擁より力を込めて。今までの、どんな出来事より涙を流して。


「私は絶対に冬夜を幸せにする。だから……それまで私も此処に居させて」

「うん。私も、七夏と一緒に居たい…………最期の刻まで、七夏と共に過ごしたい……! その時に、笑顔でお別れできるように」


 居場所のなかった二人の少女は、遂にそれを見つけ出した。


 ◇


 森の中にある、岩の上。それからずっと話をした。今まであった嬉しかったことも、嫌だったことも、誰にも話せなかった物語を明かす。私たちには『これから』の話が出来ないから、その分お互いの過去を話し合った。


 今までの私たちにとって、言葉とは凶器だった。自分を傷付ける物であり、自分を排斥する物であり、自分を裏切る物であった。その中身はスカスカなのにもかかわらず、残虐なまでに尖っている。そんな嫌悪すべき物で、こんなにも楽しい会話が出来るのだと、こんなにも幸せな思いが出来るのだと、新たな学びを得るのだった。それは余りにも遅い気付きだったかもしれない。


 やがて、空は緋色に染まる。けたたましいカラスの群れが、今日という一日の終わりが近づいていることを報せていた。


「今日、今までの人生で冬夜と一番喋ったんだね」


 落ち行く夕陽を見ながら呟く。


「……私、七夏に出会えて本当によかった」


 いわおから降り、背を向けながら語り出す。その姿は、幻想的に美しかった。


「すごいよね。今まで何の接点もなくて、偶然二日前に出会ったのに、今ではこんなに大切な存在になってるんだもん。すっかり、七夏の居なかった生活を、思い出せなくなってる。運命の相手って、こういうことを言うのかな?」


 彼女の声には、歓喜も悲哀も混ざっている。いずれ来るであろう、別れを想ってだろうか。


「私も、冬夜と出会えてよかった……」


 やはり、私も同じ声色でしか返せない。相手を想えば想う程、心の鉛は重くなる。かと言って、もはや離れることなど出来るはずもない。人と人との関係というのは、なんと皮肉なものだろうか。


 そこでふと、思い出す。


「……何か、昨日も似たようなこと言ってなかった?」

「今日のこれは、昨日のやつより、濃度が濃いと言うか、込めてる気持ちが多くなってると言うか……とりあえず、改めて言いたかったの!」


 何故か、怒るように彼女は言う。後ろから見えたその耳は、燃えているように赤かった。自分から色々と語り出すくせに、勝手に恥ずかしがって照れ始める。そんな矛盾したところも、彼女の愛おしいところだろう。


 それはそれとして、無防備な彼女の背中を私は見逃さない。


「隙あり!」

「わっ!? やめっ……!?」


 彼女の脇に手を潜らせて、昨日やられた分を返す。


「ちょ……! ははっ! くすぐったいっ!」

「ふふふふ…………」


 思わず変な笑いが漏れる。のたうち回る彼女を、抱きしめ捕まえるようにくすぐり続けた。


「冬夜……私より弱いじゃん」

「七夏のやり方が容赦なさすぎるだけだって!」


 何だか可笑しくなって、二人一緒に吹き出した。


 こうして、何も考えずに笑える時間というのは、何と幸せなのだろうか。


 けれど、どんなに尊い時間でも、必ず終わりは避けられない。私たちは、家に帰らなければならない。


「冬夜は、やっぱり家に帰るの?」

「うん……そうだね」


 声の調子こそ平静だが、その表情は少し曇る。


 彼女の顔が曇るなら、私はそれを晴らさねばならない。


「私の家に泊まろうよ」

「うん………………えっ、えぇっ!?」


 全てを知ってしまった私には、冬夜を村に帰すことなんて出来なかった。かと言って、野宿しろなんて言うのは余りに無茶だ。ならば、こうするしかないだろう。


「やっぱ、難しい?」

「い、いや……秘密基地で寝落ちした時も何も言われなかったし、いけないことはないだろうけど……」


 彼女は、そこで言葉に詰まる。


「……どうしたの?」

「………………本当に、いいの?」

「うん。むしろ、一緒に泊まりたい」


 彼女は呆気に取られたように、一瞬硬直した後、すぐに柔らかな笑顔を見せた。


「じゃあ、そうする! ありがとう、七夏!」


 やはり、彼女にはこんな顔が似合うのだ。


 ◇


 この道はあまり好きじゃなかった。冬夜と別れ、一人きりで帰る道。中身も未来も何もない、空虚な自分を見つめる道。


 けれど、今日だけは違うのだ。私の隣に、彼女がいる。


 透き通るような夜空には、円い光が浮かんでいた。


「二人で月を見るのは初めてだね」


 彼女は空を見ながら呟く。


「うん……本当に綺麗」


 私は彼女を見ながら呟く。


 しばらくすると、目が合った。互いに思わず、笑みをこぼす。


 この世界には、二人しか居なかった。


 ◇


 私の母と祖父母はあっさり快諾してくれた。特に嫌がる様子も喜ぶ様子もなかったので、単にわざわざ追い返すのが面倒だったからだろう。


 ご飯も余分はある。寝巻きも私のを使えばよい。昔は今より頻繁に泊まっていたので、家の中にいくつか私の服がある。小さくてキツいかもしれないが、小柄な彼女なら着られないことはないだろう。それが喜んでいいことなのかは不明だが。


 だが問題は彼女の親だ。冬夜は大丈夫だろうと言っていたが、私は不安で仕方なかった。今、家の固定電話から、冬夜自ら彼女の母へと事情を告げている。


 私は自身の部屋で、電話が終わるのを怯えながら待っていた。もし、私の行為でかえって冬夜を窮地に追いやってしまったらどうしよう。もしかしたら、私は軽率な行動を取ってしまったのかもしれない。そんな思いが頭の中で回り続ける。


 終わりの見えない逡巡を、遮るように戸は開く。


 現れた彼女は、きまりの悪そうな顔をしていた。


「なんか、全然電話出てくれなかったから、多分泊まっていいんじゃないかな……」


 曖昧な結果に一抹の不安を感じつつも、ひとまず、彼女が泊まれることに安堵する。


 ◇


 流石に布団までは二人分も用意できなかった。


 ということで、一つの布団を使うことにする。


「狭くない?」

「狭いけど……大丈夫」


 冬夜の体が触れている。あの秘密基地を思い出す。あの時から、この温かさが好きだった。胸が幸福で満たされる。気付けば、彼女を抱いていた。応えるように、彼女も体に手を回す。彼女の吐息がくすぐったい。


「……眠れないね」

「……うん」


 お互い、顔を赤らめる。


 彼女を見ていると、何だか胸がドキドキする。


 他人との交わりを避けてきた私には、これの正体が分からない。


 ただ、大切なものだという事だけが分かった。


 冬夜を救いたい。それだけが、今の私の望みである。それを為すには、私に一体何ができる。彼女曰く、警察も村の実情を見逃しているのだとか。もはや、根本的な解決は不可能かもしれない。


 私が何をすべきなのか。それを決めるのは、私じゃなくて彼女かもしれない。


「ねえ、冬夜。冬夜を救うためには、どうしたらいい?」


 暫く、沈黙が鳴る。


「……七夏には、幸せに生きてほしい。それだけで、私は救われるから」


 決して、叶わぬ望みを語る。


 手首についた聖痕が、今はこんなにも憎らしい。


 彼女の言葉に、私は何を返せただろうか。否定も肯定も、感謝も謝罪も、どれも違うような気がした。だから、私はただ自分の願望を口にする。


「ちょっと離れた所に、ホームセンターがあった筈。そこで工作道具でも買ってこよう」

「…………? …………あっ」


 彼女は私の意図を理解したようだ。


「直すの?」

「うん。冬夜……いや、私たちにとって大切な場所だからね。次は誰にも壊されないような、もっと凄いのを一緒に作ろう」


 身体の締め付けが一層、強くなる。


「ありがとう! 七夏!」


 永久に続くような、暖かい台詞を聞く。


「おやすみ。冬夜」


 あと僅かしか使えないであろう、寂しい台詞を返す。

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