水曜日

「………………よし。……これで行ける」


 頭ではなく、体で覚える。


 眩しい程に明るい朝。クーラーを全力稼働させた二階の部屋で、コントローラーをいじる。冬夜に一泡吹かせてやろうと、コマンドの練習をしていたのだ。


 悔しがる彼女の姿を想像して、早く一時にならないかと、胸が躍り出す。


『待ってー! ちょっと、待ってって!』


 外から子どもの声が聞こえる。窓から見下ろすと、ランドセルを背負った男児が走っていた。友達に置いていかれたのか、それに追いつこうと必死に走っているようだ。


 そんな置いていくような奴は放っておいて、自分のペースで行けばいいのに、と思う。それ以上の感想は抱かないような、なんの変哲もない光景だった。だが、何かが私の中で引っかかる。


「あっ……」


————


「そういやさ、冬夜は学校とかないの?」

「……えーと。ここは暑いから他の所より夏休みが早いんだよ!」


————


 駄菓子屋前での会話を思い出す。夏休みだというのに、何故ランドセルを背負った子供が居るのか。


 まあ、単に冬夜とは違う学校の児童というだけだろう。


 ◇


 水筒を掲げ、炎天下の道を歩く。時間は正午。クーラーの効いた部屋で待とうと思っていたのだが、何だか居ても立っても居られなくなり、早めにいくことにした。


 セミの合唱を聞きながら、進んでいく。すると、待ち合わせ場所に見覚えのある長袖の人影があった。


「冬夜……!? 早っ!?」

「そっちこそ! お互い暇してるみたいだねー?」


 そう言うと、冬夜は私の手を引いて、森の中へと入っていく。


 ◇


「……あれっ! なんでっ!? ああっ!!」


 あんなに練習していた筈なのに、コマンド技が出せない。やり方を忘れたわけじゃない。確かに打っている筈なのに、出ないのだ。


「ははは! ソフトも貸した方が良かったかもね……。成功してるつもりでも、実際のゲームでやってみると出来てなかったりするからね」

「————っ!」


 悔しさの余り、声も上げられず紅潮する。


「……別のゲームもあるけど、どうする?」

「…………せめて一回は勝つ……!」


 それにしても。自分がこんなに熱意を注げるものがあるなんて。


 いや、そういや過去にも一つだけあったな。


 ただ、それをずっと押し殺していた。


 ◆


 幼い頃、絵を描くことが好きだった。


 何かを創り出すことで、充実感を得られるから。周りの人たちに褒められるから。自身の成長を確かめられるから。


 隙があれば絵を描いていた。そのペンを動かしていたのは、熱意以外の何者でもない。


「見て! パパの日だから、パパの絵描いたの!」


 幼稚園で出された課題。いつもより時間をかけて描いていた。


 とても上手いと褒められて、父の部屋に飾られて、それが密かな誇りだった。


 それなのに、それなのに。


「パパは私たちと一緒に暮らせなくなったの」


 桜舞う入学式の日。父に買ってもらったピカピカのランドセルを背負って帰ると、そんな事を告げられた。


「なんで?」

「私たちとは違う人たちと暮らすからよ。私たちは捨てられたの」


 何かの嘘かと思った。でも、嘘にしてはやたら真剣な面持ちで、とても怖かったのを覚えている。それでも涙を流さなかったのは、こんな残酷なことが起こるはずないと、信じられなかったからだろう。


 しかし、それから父が帰ってくることはなかった。全部本当だったんだと、夜中に一人で泣いていた。


 母は耐えきれなくなって、父の物を手当たり次第に捨てていった。写真も指輪も気が狂ったようにゴミ袋に詰めていた。私の言葉も耳には届かず、母が母じゃなくなったみたいで、脳を締め付けるような恐怖を覚えた。


 そこで私は父の絵のことを思い出す。せめて、一つだけでもいいから、父との思い出を残したかった。母に見つかる前に、隠してしまおうと思っていたが、いとも簡単にバレてしまった。部屋に飾ってあったのを、知っていたのだろうか。


「早く渡しなさい!」

「嫌だぁ……!」

「早く! どうして!?」

「だって……パパに上手いって、褒められたんだもん……!」


 嗚咽を堪えて、必死に説得しようとした。母に立ち向かうのは怖かったけれど、それ以上にこの絵を盗られることの方が怖かったからだ。だが、それを力ずくで奪い取られる。


「やめて! お母さん!」

「うるさいっ! うるさいうるさい、うるさいのよ!」


 喉が潰れそうなほど叫びながら、絵をバラバラに引き裂いた。


 散っていく、父の欠片を眺めながら、もう絵を描くのはやめようと思った。初めから絵を描いてなけりゃ、こんな思いもせずに済んだかもしれないと思ったから。


 その時から、私は彼女をお母さんと呼ぶのをやめた。


  思えば、これが母への最後の反抗だったかもしれない。


 ◆


 けれど、今なら思い出せる。何かに熱意を注ぐ楽しさを。


 傷付きたくないから押さえつけていた感情を、彼女が再び引き揚げてくれた。


 感謝よりも少し大きな気持ちを抱く。


 これを世間では、『友情』と呼ぶのだろうか。


 ◇


「あああっっっっ!!!」


 そんな奇声を上げたのは、冬夜の方だった。


「……よし!」


 小さくガッツポーズを決める。遂に、私は冬夜に勝ったのだ。


「まさか、一日でこんな成長するとは……」


 幾度とない対戦により、私はコマンドの打ち方は勿論、その他細かいテクニック等もマスターしていった。


 間欠泉のように湧き上がる達成感を全身で堪能しながら床に寝そべる。今まで、画面の中で繰り広げた様々な死闘を思い出し、思わず涙腺が緩みかけた程だ。


 そのまま、冬夜を見上げた状態で、口を開く。


「スゴいでしょー?」


 勝利の後の圧倒的優越感に浸りながらの自慢。それに対して、冬夜は不穏な微笑を浮かべながら応える。


「一回勝っただけで調子に乗りよってからに……。七夏みたいな悪い子は、こうだ!」

「ちょっ!?」


 横たわっていた私は、彼女の奇襲に対応することが出来ず、無防備な脇への攻撃を許してしまった。


「ははっ! やめてっ! ほんとっ、くすぐったいってば!」

「さては七夏、くすぐりが大の苦手だなー? うりゃっ!」


 反射的な笑いに溺れ、呼吸困難に陥る。狭い小屋の中で逃げることもできず、彼女の猛撃をただ耐える事しかできなかった。


 どれ程の間そうしていただろうか。私が長く感じただけで、対して時間も経っていなかったかもしれない。冬夜は攻撃の手を止める。


「……脇も腹筋も痛くなったんだけど」

「ごめんごめん! あんなに反応するとは思ってなくて、楽しくなっちゃった!」


 そこですかさず、冬夜の脇もくすぐろうとするが、寸のところで避けられる。


「おっと、危ない危ない」

「……いつか、絶対やり返す」


 そう口にした所で、私にとって『いつか』とは、ごく僅かな期間しか指していないことを思い出す。


 だが、そんな憂いは、肥大化して暴走する前に、冬夜の笑顔によってかき消された。


「もう時間だし、帰ろうか!」

「うん……!」


 たとえ僅かな時間でも、そこに彼女の笑顔さえあれば、永遠にも等しい幸せを享受できるのだ。


 ◇


 こんな悪路も、もう慣れた。一人で歩いていけるぐらい、とっくに道も覚えている。それでも二人で、手を繋いだまま帰るのだった。


 濃艶な夕闇が、世界を包み込んでいる。生い茂った草木は、その黒をより一層、深いものへと変貌させていた。ヒグラシの唄とカラスの聲が、緑の迷路に鳴り響く。


 冬夜は握る手を強めると、静かに口を開く。


「……私は、七夏がいて幸せだよ」


 それは、私への感謝にしては、あまりにもか細く、切実な声だった。


「……急にどうしたの?」

「初めて会った時の七夏は、すごい『生きてて楽しくない』って顔してた。自分がもうすぐ死んじゃうことも、すごいどうでも良さそうに話してた。でも、私にとって七夏の存在は、本当に意味のあるもので、かけがえのないものだって、伝えたかったの」

「……………………」

「……まだ、会ってから二日ぐらいしか経ってないのに、不思議だよね。ごめんね! 急にらしくないこと言っちゃって!」


 いつも通りの笑いを漏らす。その頬の赤らみは、この夕闇でさえも隠せない。


「……私にとっても、冬夜は大切な存在だよ」

「————っ!?」


 予想外の言葉だったのか、彼女は身を浮かして驚いた。


「二日前までの私は、確かに生きてて楽しくなかった。けど、今はすごく幸せ。私に残された時間は少ないけど、その少ない時間も、冬夜と一緒なら、楽しく過ごせるって思える」

「……それは、本当によかった」


 ああ。出来ることなら、この先の一分一秒を彼女のために費やしたい。このまま、帰って別れてしまうことが、こんなにも惜しい。


「ねえ。冬夜の家に泊まることって出来る?」

「……ごめん。それは、ちょっと無理かな」

「そう……。でも……せめて、私が死ぬまで毎日遊んでほしいな……」

「もちろん! 七夏が望むなら、!」


 やはり、彼女は眩いのだ。ありとあらゆる苦しみも、彼女の前では霞むだろう。


「……ありがとう! じゃあ、約束ね!」

「うん!」


 二本の小指は、幼い契りを交わすのだった。


 ◇


 いつもの場所が見えて来た。すると、野太い声が聞こえてくる。誰かが話しているようだ。


 茂みを出ると、冬夜はその場に立ち尽くす。


「……どうしたの?」

「…………七夏は茂みに隠れてて。絶対に出てきちゃダメだよ」


 彼女は何やら焦っているようだった。私は取り敢えず、彼女の指示に従う。


『おい。あっちの方で物音がしたぞ』


 粗暴な足音を鳴らしながら、誰かが冬夜の下へ寄ってくる。それは一つではなく、複数のものだった。彼女は諦めたような面持ちで、足音の方に近付いていく。或いは、それは私から離れる為だったのかもしれない。


「見つけたぞ! 祝園いわぞののところの冬夜だ!」


 男達は冬夜を囲む。その顔は憤怒に歪んでいた。


「なあ? 何で俺たちがお前を探してたか分かるか?」

「…………お母さんの、ことですか?」

「そうだ。お前のとこのキチガイ女が俺の家の鶏を殺しやがったんだ。儀式だとか何だとか喚いてな」

「……ごめん、なさい」


——パァン!


 軽快な破裂音。彼女の頬に、真っ赤な判が押された。


 今、私の目の前で起こっていることが、一体何なのか私には理解できない。それは、彼女一人が背負うには、あまりにも大きな絶望と恐怖だった。


「今まで、何度謝ってきた!? そうやってお前は、何度も何度も何度も何度も、謝って、結局何も変わってねーじゃねーか! こっちはお前の母親に迷惑してんだよ! 親子諸共死んじまえよ、害虫どもが!」


 男は怒声を浴びせながら、少女の胸ぐらを掴む。それを解こうと必死に踠いていた。その時、白い長袖が捲れ、彼女の腕は露わになる。それには大きな青い痣がついていた。


「続きは村に帰ってからだ……。この責任は必ず取ってもらうからな……!」

「………………はい」


 そう言って男は冬夜の手を引っ張る。私と繋ぐはずの手を。


「————待って!」


 反射的に茂みから飛び出す。


「ちょっ!? 出てきちゃ駄目だって!?」


 このまま彼女が連れていかれるのが、どうしようもなく怖かった。このまま黙って見ていたら、二度と会えない気がしたのだ。


 だが、睨みつける男の視線は、本能レベルの恐怖をもたらす。それでも、彼女はこれより怖い思いをしたのだと思うと、立ち向かわざるを得なかった。


 震えた声で、言葉を紡ぐ。


「話を聞く限り、悪いのは冬夜の母親であって、冬夜は何も悪くないんでしょ? だから、許してあげてよ……!」

「あのなあ、娘であるコイツには、母親を抑える責任があるんだよ。それなのに、コイツは隣の村まで逃げて、お前と遊び呆けてた訳だ。その結果、村の住民に迷惑をかけてんだ」

「でも、でも冬夜は悪い子じゃないし……!」

「——いや、私は悪い子だよ」


 私の助けを突き放すように彼女は告げる。


「私、七夏に嘘をついてた。私が学校に行ってないのは、夏休みじゃなくてサボってたから」

「そんなこと、どうでも……!」

「それだけじゃないの!」


 食い気味に声を張る。


「初めて七夏とここで出会ったのは、実は理由があるんだよ……」

「どういうこと……?」

「セミの羽をちぎったのは、私だから」

「————!?」

「家のこととか、村のこととか嫌になっちゃってね、学校も嫌で、ずっとこの村に逃げてたの……。そこで何だか暇だし、ムシャクシャしたから、セミの羽をもいで、もがいてる様を観察してたの。どう? 気持ち悪いでしょう?」


 自嘲的な笑みを浮かべながら、何もかも吹っ切れたように告白する。


「そしたら、知らない人がやってきてね、急いで身を隠したの。けど、その人も変わった人で、そのセミを踏み潰したの……! 訳わかんなかったけどさ、手首に痣がついてるし、『もしかして私と同類かも』って、思った。『自分が現状に満足できてない苦しみを、自分以外の何かに危害を加えていないと紛らわせない、ゴミクズ仲間かも』ってね! だから、ゴミクズ同士、仲良く出来るかもって思ったんだけど、その人は私とは全くもって違う存在だった……!」


 そこで彼女は、耐え切れないように俯く。


「ごめんね……急に、驚いたよね……? 私は元々、他人に近付いちゃいけない身分だった。なのに、それを隠して七夏に近づいた。あろうことか、同類だと勘違いして、傷の舐め合いをしようと思って、卑しい気持ちで七夏に近づいたの! 七夏はこんなにも眩くて、尊い存在なのに……! どう!? 分かったでしょ!? 私がどれだけ醜悪な存在か! だから、私が酷い目に遭うのは当然のことなの! だから、七夏は私を助けなくていいし、私は助けてなんか欲しくないんだよ……!」

「………………嘘だ」


 もし、それが本当なら、どうして彼女の頬は濡れているのか。


 ボタボタと零れ落ちる雫が、彼女の本心を告げる。だが、無慈悲に少女は連れていかれる。


「待って…………!」

「やめておけ」


 そう言って静止したのは、冬夜を掴んだ男とは別の男だった。粗暴さを感じさせない、小洒落た雰囲気を纏っている。どこかこの村には不釣り合いで、異物のような存在感を放っていた。


「君も、こんな風にはなりたくないだろう? 君だけじゃない。君の家族だって同じ目に遭う。それが嫌なら、もう関わらない方がいい」


 優しく紳士的な声で語りかける。だが、彼の目はとても不愉快だった。この凄惨な状況を楽しんでいるみたいだ。


「早く行きましょうや。錦城きんじょうさん」


 冬夜を掴んだ男が言う。


「ああ、そうだな」


 去っていく背中に、私は声をあげる事すら出来なかった。無力感に打ちひしがれて、棒立ちする。崩れるように、熱く視界がぼやけてきた。


「……嘘つき…………」


 つい数分前まで、幸せを掴んでいたその腕で、目を拭う。


「……いつまでだって、遊んでくれるって言ったじゃん……!」


 悔しくて、悲しくて、拭っても拭っても溢れ出す。


 ◇


 その日は、一段と静かな夜だった。

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