火曜日

 窓から見えるのは鬱蒼とした木々ばかり。それ以外には何もなく、何の変化も面白みもない。ただ退屈に、貴重な余命が空費される。


 なんでも今夜は祖父母の家に泊まるのだとか。正直、一年に数回しか会わない、他人とさして変わらないような存在だ。それでも、母はケジメがどうとか、今までの恩がどうとか言っていた。なんで私の人生なのに、私の好きに出来ないのか意味が分からない。


 きっと、彼女は個人としての私を愛しちゃいないのだろう。


 ご飯を作ったり、服を買ったり、そういった行為を私に施すのは人形ごっこに興じているだけだ。だから、美しい人形にしようと勉強メイクはさせるし、自慢させる為に親戚にも見せびらかすが、私自身の意志は認めない。


 あくまで人形は従順に美しく在れば良いだけなのだ。『くちごたえ』なんて邪魔な機能はいらない。


 私は『無償の愛』だとかいう幻想が嫌いだ。周りの大人たちによると、親は『無償の愛』というものを子供に与えるのだとか。本当にそんなものがあるのなら、虐待児は0人になっている筈だろう。所詮、親という生き物は自分の都合で産んで、自分の都合で育てているだけだ。ありとあらゆる人種の中で、最も罪深いエゴイストである。


——だから、たった一度、優しさを見せただけで心を揺れ動かしちゃいけない。母が一週間の休暇をとった理由なんて、考えちゃいけない。


「一日だけでいいから、ちゃんと良い子にするのよ」

「………………うん」


 まあ、どうでもいいか、と納得は出来ずとも諦めることにした。


 死んでしまえば、そっから先は未練も悔いも無くなる筈だ。ならば、この残り六日間をどれだけ無駄にしようと、別にどうでもいいのかもしれない。


 存在感を増していく痣を見ながら、気の抜けた欠伸をする。


 気付けば、小さな街が現れていた。コンビニとホームセンターがひっそりと佇んでいる。逆に言えば、それ以外には大量の民家と青い田んぼしか見えなかった。この光景には見覚えがある。


「そろそろ着くわよ」


 ◇


「そっか……残念だね七夏ちゃん……」


 呆れ返るほどに薄っぺらい憐れみの言葉を述べる。その朽ち果てた双眸からは、一切の躍動も感じられない。心底、私のことなど、どうでも良いのだろうな。


 そもそも、ここの老人たちは対して私を好いていないのだ。正確には、好かなくなった、と言った方がいいだろうか。


 幼い頃は蝶よ花よと愛でられていた記憶がある。けれども、父が別の女の下へ行ってからは、あからさまに態度が変わった。結局、幼少期に愛されていたのは『七夏』という人間ではなく、『孫』という社会的な意味を持つアクセサリーだったのだろう。それが『浮気男の置いていったガラクタ』に値打ちが下落した途端、このザマだ。


 残念だね、だって。そんな訳ないでしょ馬鹿が、と心の中で毒を吐く。


 ◇


 昼の一時。質素極まりない昼食を終えると、周りを少し探索してみる。別に外で遊びたくなった訳じゃない。あんな居心地の悪い家にいるのはゴメンだったからだ。


 空気と景色だけはやたら綺麗な所だが、逆に言えばそれ以外には何もない古びた田舎だった。鋭利な陽射しが肌を突く。暑さで脳味噌が茹でてしまいそうだ。散漫な思考のまま、行く当てもなく、何か面白いものはないだろうかとゾンビのように彷徨っていた。


「ジジ……! ジジ……!」


 耳に障る不快な音。それは地面から鳴っていた。


「………………」


 死にかけのセミが地面に転がり鳴いている。片羽がもげて、意味もなく灼熱の地獄で苦しみもがいている。


 私にセミの気持ちなんて分からない。だから、これは下らない偽善かもしれないが、私は『救おう』と思った。


「…………ジ!」


 靴の裏で踏みしめる。最期に一言だけ鳴くと、という音と共にプレスされる。これでもう、コイツが苦しむことはない。その代わり、神秘的な田舎には似合わない、グロテスクな押し花が完成した。


「…………気持ち悪」


 輝かしい煌めきを放つ命も、最期にはこんな醜い末路を迎えるのか。この世に存在する物で、生き物の死骸以上に気持ちの悪い物はないのかもしれない。


 きっと、それは私とて例外ではない。この汚らしい姿は、六日後の私とさして変わりないのだろう。


「おーい!」


 淀んだ思考を掻き消すような清涼な声。聞き覚えのないそれの主は、どうやら地元の女の子のようだった。よれよれの白い長袖を着ている。背は小さいが、所作を見るに、幼いようには思えない。私と同じぐらいの歳だろうか。艶やかな長髪を揺らしながら走り寄ってくる。


「セミ踏んじゃったんでしょ? 油断してるとやっちゃうよねー。近くに川あるから靴洗いなよ。案内してあげる!」


 彼女は私が間違えて踏んだと思っているのだろう。私が浮かない顔をしていたのも、セミを踏んだせいだと思ったのか。


「……ありがとう」


 ただ、靴を洗いたかったのは事実だ。更に言えば、私は暇だった。だから、この少女の提案は僥倖と言えただろう。


 そんな、軽い考えで、華奢な背中についていく。


 ◇


 青々とした葉から差し込む木漏れ日が、透明な小川を照らす。絵画の世界に入ったかのように幻想的な空間だった。


 そこに白い綿のような残骸を流す。


 その隣で、何故か彼女も手を洗っていた。


「地元の人じゃないでしょ? こんな何もない所に、よく来ようと思ったね!」

「…………おじいちゃんと、おばあちゃんに会いに来た」

「へー! 名前なんていうの?」

「…………七夏」

「私は冬夜とうや! よろしく!」

「………………………………」


 人との会話には余り慣れていない。特に一対一での会話は嫌いだ。どうしても話していないと気まずくなる。


 かといって、こうもグイグイとこられるのも困るのだが……。


「手首ケガしてるの? 痛くない?」


 そんな私の苦悩も気付かずに、冬夜は質問責めを続ける。


「……痛くは、ない。ただ、これは病気の証」

「病気……?」

「蝉病。私は六日後には死んでる」

「あっ…………」


 こんな田舎でも流石にニュースを流すテレビぐらいはあるはずだ。彼女は病名を言われて、初めて気が付いたのだろう。申し訳なさと憐れみの混ざった視線を見せる。


 大概、こうなった人間のとる行動は二通りだ。薄っぺらい同情の言葉を送るか、ばつの悪そうに黙り込むか。出来ることなら、私は後者を望んでいた。


 だが、彼女の行動は予想外のものだった。


「飲む? 暑いでしょ」


 彼女は屈託のない笑顔で、瓶状のサイダーを手渡す。


「あ、ありがとう……」


 困惑と有難さを半々に、それを受け取り、口に含む。


「…………………………ぬるい」

「ごめん! ずっと持ってたから!」


 何が面白いのか、彼女は必死に腹を抱えて笑いを堪えている。


「しかも、炭酸抜けてるし不味い」


 これでは涼しくもならなければ、嗜好品としても使えない。余命数日の少女を慰める手段としては論外だろう。


 けれども、私の口角は、何故か柔らかく緩んでいた。


 ◇


「まいどありー!」

「あっ……あの、お釣り多いです……」

「そういうのは気付かないふりして、黙って受け取っとくもんだよ! ハハハ!」

「えっ……! あっ、ありがとうございます」


 やけに気前のいい老父の店主に、感謝を通り越して気圧されながら、店を出る。


 そこには先に買い終えた冬夜がベンチに座っていた。


「プハッー! やっぱ冷えてるサイダーは美味しいなー!」


 私は隣に座って、彼女に続くように喉に流す。渇ききった口内の砂漠には、たちまち潤いがもたらされた。キンキンに冷えたそれは、爽快な炭酸を散らしながら、体内の温度を下げる。


「…………美味しい……」


 輝かしい太陽と、喧しいセミの音に囲まれながら、二人で甘い炭酸を嗜む。その間には、会話どころか視線の邂逅すらもない。


 けれども、何故か楽しかった。


 何もしないということが、こんなに楽しく感じられたことがあっただろうか。昨日の自分では考えられない、不可解な感情を見つけてしまった。心地よい、穏やかな感情を。


 気付けば、空の瓶を口に含んでいた。何だか、恥ずかしくなるが、冬夜は気が付かなかったようだ。彼女は私より幾分か先に飲み終わったようで、空の瓶を傍に置いたまま、在らぬ方を見つめていた。彼女は、そんな『何もしない』ということを心の底から楽しんでいるようだ。


「そういやさ、冬夜は学校とかないの?」

「……えーと。ここは暑いから他の所より夏休みが早いんだよ!」

「へー……」


 彼女は、私に同じ質問を聞き返さない。案外、察しがいい所もあるのだろうか。


「ねえ。七夏は何時まで遊べる?」

「夕食には帰らないといけないから、七時くらいかな」

「オッケー! それじゃあ、ちょっと探検しよ!」


 ◇


 都会に生まれ、都会で育った私にとって、それは例えでもなんでもなく本当の探検だった。やけに伸びた草木。急に飛び立つセミ。道とは呼べない道。


 汗を流して、必死に冬夜についていく。何故、彼女があんな楽々と進んで行けるのか理解できなかった。


 冬夜曰く、ここを進んだ先に見せたいものがあるというらしい。


「大丈夫ー!? 七夏ー!?」

「大……丈夫……!」


 そう答えた矢先、湿った草を踏む。


「——あっ」


 そのまま足が滑り、天が回る。不意打ちの重力に受け身も取れず、地面に墜ちる……と思っていた。


「危ない!」


 私の身体を支える、心強い矮躯。私は地面に激突する代わりに、冬夜の体を抱きしめていた。


「よかった……。痛いのは怖いもんね……。目的地まで後もうちょっとだから、こっからは手を繋いでいこうか!」

「……うん……」


 柔い掌を掴み合い、緑の旅路を歩んでいく。


 ◇


「あっ! 見えてきた見えてきた!」


 やけに目立つ大木の下、木の板で出来た小屋がある。中には新聞紙が敷かれていて、漫画やらゲームやらが置かれていた。


「これは……?」

「これは私の秘密基地! 今まで誰も入れたことないよ!」


 ということは、一人で作ったということだろう。その割には本格的な作りをしている。


「入って! 入って!」


 促されるまま中に入る。これが何とまあ落ち着く。そしてそれと同時にドキドキする。気付けば、ポカンと口を開けながら、周りを見渡している私が居た。


「スゴい……!」

「えっへん! 私はスゴいぞー?」


 ただ、元々一人用に造られた物なのか、冬夜が入ってきた途端、お互いの肌と肌が触れる。急に何だか落ち着かなくなるが、冬夜はそんなのお構いなしに動き回る。


「七夏はゲームとかやったことある?」

「あんまり……」

「それは勿体ない! じゃあ、これで勝負だ!」


 そう言って冬夜が取り出したのは、やたら屈強な男たちが描かれたパッケージだった。


「何……これ?」

「『ストーリーファイター2』! 所謂、格ゲーってやつだよ!」


 冬夜は目をキラキラと輝かせながら、コントローラーを渡してくる。


「さあ! いざ尋常に! 真剣勝負!」

「………………はぁ」


 所詮、ただのゲームだろうに、よくもまあ、そこまで熱くなれるものだ。


 まあ、元々暇つぶしに来たのだ。付き合うとしよう。


 ◇


「もう時間じゃない? 大丈夫? 七夏?」

「……………………かい……」

「ん?」

「もう一回だけ……! 今度こそ絶対に勝つから!」


 圧倒的な経験の差の前に、私は未だ一勝も取れずにいる。だが、逆に言えば、足りないのは経験だけだ。私は着実に、プレイ回数を重ねるごとに成長している。


 次こそは勝てる筈だ。というか、勝つ!


「……っ! ……んっ!」


 画面の中の、エリンギのような髪型のアメリカ人を操りながら、声にもならない声が漏れる。全神経を、ただ勝利を掴み取るためだけに集中させる。


「早く帰さなきゃなんないし……ちょっと本気で行くよ!」

「……んぬあっ!! 何その変な技!!!」


 未知の技に対応できず、大ダメージを喰らう。ダメージゲージは急速に減っていき、結果として、連敗記録を増やしてしまった。


「これはコマンド技だよ! 初心者の七夏に使うのは卑怯かと思って、使ってなかったけど……ゴメンね!」


 何と、散々私を負かした挙句、手加減していたとは。ほろ苦い、忸怩たる思いが口に広がる。


「それ、どこに書いてる!?」

「取扱説明書に書いてあるけど……」

「明日も遊べる!?」

「う……うん……」

「じゃあ、説明書とコントローラー持って帰らせて!」


 冬夜は、若干引いた顔で、コクリと頷く。


 ◇


 落ちかけの夕陽は、地面に橙色の海を描いていた。一年間に数回しか来ないような場所なのに、もはや故郷のように感じられる。


 最初に出会った、この場所で、彼女に別れを告げる。


「じゃあ、明日! 昼の一時にこの場所で!」

「うん……!」


 お互いに手を振り合って、背中を向けて帰ろうとしては、また振り返って手を振って、そんなことを何回か繰り返した。


 冬夜。彼女は私の知らない感情を沢山教えてくれた。今でも、余韻に浸っていると、この胸の奥から温もりが込み上げてくる。


——だが、ふと手首の痣を見ると、途端に虚しさに襲われた。


 それは、朝見た時よりも濃くなっている。私の余命はあと僅かなのだ。そんな私が、こんな幸福を知ってしまって良いのだろうか。


 こんな感情を覚えてしまって、後悔しないのだろうか。


「…………………………」


 いや、今は、せめて今だけは、この幸福を享受していよう。


 その為に、私がやるべきことは、どうしようもない悩みを思案し続けることじゃない。一つ、確実にやらなくちゃいけないことがある。


 ◇


 玄関の扉を開ける。


 もう既に夕食は出来ているようだった。


 私は席について、「いただきます」より先に言うべきことを言う。


「もう暫く、ここに泊まっていい?」

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