第2話 馬鹿でも風邪は引く話。

 濡れたアスファルトの匂い。確かこの匂いにも名前があったはずだ。それが何だったかは覚えていないが、俺の両親は"梅雨の匂い"と呼んでいた。


「小林。傘忘れた」

「はい…?」


 学校の昇降口。雨空を見上げながら少女はそう訴えかけてくる。俺達が"家を出る前から"降り続く雨をじっと見つめて。


「忘れたって…。今日は一緒に傘差しながら登校したよな?」

「まったく。細かい事ばっか気にしてると禿げるよ?」

「これが細かい事だと…。そんな馬鹿な」


 納得はいかないが、ここで話し合っても無駄な気がする。話し合ったところで雪菜が右手に持っているビニール傘が開かれる事はないだろう。


「仕方ない」


 俺は傘を開き雨の中へと足を踏み出す。雨粒が傘にぶつかる音。その音にかき消されないように少しだけ声を大きくして雪菜を呼ぶ。


「早く来いよ。一緒に入るんだろ?」




 放課後の昇降口。私は日直の仕事をしている小林を待っていた。朝から降り続く雨は止む気配を見せない。


『ラーメン食いに行こうぜ』

『いいね!ついでにゲーセンな』


 周りの生徒は雨だというのにどこか楽しそうに校門をくぐっていく。彼らはこんな日にでも青春を感じているのだろう。私が感じるのは濡れたアスファルトの匂い。灰色みたいな匂いのペトリコール。


(小林。早く来ないかな…)


『傘忘れたの?ウチのやつ入る?』

『え…。それって相合い傘…』

『意識しすぎだって(笑)。オタクくん顔真っ赤じゃん』

『いやっ…これは…』

『も〜。何でもいいから早く入れ。今日は雨だしオタクくん家ね』


 腕を組みながら一つの傘に入る男女。漫画やアニメで見たことがある。あれは相合い傘とかいうやつだ。羨ましい。


「悪い。待たせたな」

「大丈夫」

「それじゃ帰るか」


 私は右手のビニール傘に体重を預けながら作戦を考える。何となく今日は小林と相合い傘がしたい気分なのだ。難しく考えすぎず…最初の一声は。


「小林。傘忘れた」

「はい…?」


 小林は優しいからきっとこれで大丈夫。






ピピピピ…ピピピピッ。


【38.2℃】


「しっかり風邪だな」

「こばやし〜。わたしはもうダメだぁ…ズビビッ……」


 涙目になりながら鼻をすする雪菜。学校には休みの連絡を入れておこう。一人にするわけにもいかないので二人分の連絡を。


「とりあえず大人しく寝てろ。俺は薬とか買ってくるから」

「うん…。ありがど…」


 玄関が開く音。そして訪れる静かな時間。自分の家なのに見知らぬ何処かにいるような。そんな感覚に襲われる。


(頭痛い…。喉痛い…。ふわふわするし…すごく寂しい。)


 小林と会うまでは一人で居ることに寂しさなんて感じなかったのに。


「も〜…責任とってよ〜…」


 そんな独り言を残し私は眠りにつく。目を覚ます頃にはきっと彼が隣にいてくれるはずだ。



 すぴ〜すぴぃ…。


「薬は起きてからでいいか」


 俺はベッドの上でぐっすりと眠る雪菜に手を伸ばす。じんわりとした熱さ。少し熱が上がっているみたいだ。とりあえずコンビニで買った熱さまシートを貼っておこう。

 

「ひゃっ…」

「悪い。起こしちゃったか?」

「んーん。大丈夫」

 

 そう言うと雪菜は優しく俺の手を掴み、自分の頬にすりすりと擦り付ける。おそらく風邪のせいで人肌恋しくなっているのだろう。


「私の部屋に小林がいるの新鮮」

「風邪が治るまでは居座ってやるから安心しろ」

「えへへ…ありがと」


 雪菜から向けられる暴力的なほど眩しい笑顔。俺じゃなければ心臓の一つや二つ消し飛んでいたはずだ。危ない危ない。


(とりあえず起きてるうちに薬飲ませるか。)


 ひとまず、風邪に効くであろう食材で作った【特性ウルトラデリシャスうどん】を食べさせ薬を飲ませる。後は大人しく寝てれば治るはずだ。


「ん〜…。汗でペタペタする。お風呂入りたい」

「風邪なんだから諦めろ」

「そんな残酷なぁ…。小林はいいの?このままじゃ汗臭い雪菜ちゃんになっちゃうよ?」

「別に俺は困んないしな…」

「うぅ…この汗臭い女の子好きの変態!」


 事実無根である。何故俺が罵られているのかは分からないけれど、汗をかいている状態が嫌だというのは伝わった。


(はぁ〜…仕方ない。)


「お湯とタオル用意するからそれで我慢してくれ」

「え…それって」


 やっぱり男女で違うものなんだな。俺は風邪の時に汗なんか気にしたことないけど、女の子はやっぱり気になるらしい。とりあえず今は汗を拭くだけで我慢してもらおう。


「ほら。着替えとタオルな」

「あ、うん。それじゃ…その。お願いします」

「お願いします…?」


 俺はその言葉の意味を理解した瞬間、自分の説明が足りなかったのだと深く反省した。半裸で胸を隠し背中を向ける少女。


「なっ…!?」


 俺はてっきりブツを渡せば後は自分でやっくれると思っていた。しかし…【病人】【看病】とくればこれが正しい形。誰かに拭いてもらえると思うのは当然の事だ。


「小林…そんなにじっと見られると恥ずかしい…」

「わ、悪い!」


(こうなった以上は仕方ない。さっさと背中を拭いて終わらせよう。無心になるんだ。これは看病…これは看病…)


「んっ……」


 俺は心を無にして雪菜の背中を拭いていく。絹のようにきめ細やかで白い肌。肩の辺りは熱のせいかほんのり赤くなっている。意識しないようにと頑張ってはいるが流石に限界はある。


(よし。そろそろ終わりか…。)


「あっ…これじゃ拭けないよね…」

「…。」


 背中を拭き終わると腕を片方ずつ上にあげる雪菜。ここまで来たら最後まで付き合ってやる。腕も脇も余すことなくしっかりと拭いておいた。これで文句はないだろう。


「えっと…。こっちはあんまり見ちゃダメだよ…?」

「……!!!?」


 流石にこれは想定外だ。特別大きくはないが存在感のある膨らみ。手によるガードを失ったそれは先端の蕾すら露わにしている。


「いやいや!流石に前は自分で!」

「拭いてくれないの…?」


 赤く染まる頬に潤んだ瞳。道行く人を無差別に魅了してしまいそうな表情で雪菜はそう訪ねてくる。


(その顔は反則だろ……。)





 そこから先の事はあまり覚えていない。気が付いた時には着替え終わった雪菜が眠っていた。おそらく俺は無の境地へと足を踏み入れたのだろう。


 そんなわけで俺から言えることは何も無い。やましい気持ちなど1ミリも(ヤワラカカッタ)ないのだから。

 

 

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