第十八話 ファイアークラッカーcase11



 都内の電車の中を、彼は人込み以上に嫌っていた。

 日本は全体的に人口が減りつつあるというのに、十年前からちっとも車内の人々は減る様子が無い。

 老若男女が互いに関心を示さず、ただひたすらスマートフォンを見ている光景は、まるで画一化されたコピーのようだ。寝不足のためなのか死んだ魚のような目をした会社員風の男に、何を仕事にしているのか分からない若者。

 どう考えても昼過ぎにいるはずの無い制服姿の女子高生たち。口々に話す話題も、芸能人やバラエティー番組の薄い話ばかりだ。


 どいつもこいつも周囲にひたすら溶け込もうとしている光景は滑稽極まりない。少なくとも彼はそう思っていた。これでは痴漢被害が日本で一番多いのも納得だ。注意を示さないのだから。

 きっと車内で不良に絡まれている人間がいても、誰も助けないに違いない。この国には薄情な人間が多すぎる。


(まったく、いつから日本人はこんなに愚かになったんだろうな)


 嘆かわしいと思いながら彼は、彼は大きなため息をつく。隣の吊革に捕まっている二十代後半ほどの元気そうな青年が、一瞬怪訝そうにした。耳には白いケーブルのイヤホンをつけている。スマートフォンのちらっと見えた画面には、なにかのゲームらしい対戦シーンが映し出されている。


 かつてはあこがれていた東京も、今は軽薄な連中の集団にしか思えなかった。今、彼が乗る電車が向かうのは埼玉県で。東京での家賃を払う余裕が無くなり、もっと安いアパートを探さなくてはならなかったからだ。

 だが、それでもいいと彼は思っていた。


 やがて、自宅の最寄り駅につくと、いっせいにホームに吐き出される乗客の中を彼は懸命に進んでいく。階下に続く、手摺に区切られた段差のすぐ下を並んで歩くスーツ姿の女性の一団が邪魔だった。かしましく、横文字のビジネス用語らしきものを口走っていた。

 貞淑さの欠片もない。限られたスペースの歩道を集団で横に並んで歩くことで、後ろにいる一人の人間が追い越す事が出来なくなっているということに気が付かないのだろうか。集団で彼という一人の人間の行動を制限している。それがどれだけ罪深いことなのかを理解していない。


(この街には自分勝手な人間が多すぎる)


 階段を降り、外へ出ると駅前の商店街を歩き始める。スクール鞄を背負った小学生くらいの子たちがひどく楽しそうに目の前を横切っていった。今は午後七時、帰宅時間にしては遅い。今から塾の授業でも始まるのだろう。

 彼はただその子供たちを哀れに思った。受験戦争というレールに彼らを乗せ、遊ぶ時間を奪う親をひどく憎らしく思った。きっと、無い金をひねり出し、教育費に当てているのだろう。金を出せばなんでも上手くいくという考え方が蔓延している。そのおかげで、自分もこんな状況に落ちて行っているのだから


(もっと貧しい国を出て立派になっているやつらもいるんだ。金が一番ではないことがなぜわからない?)


 おそらく頭が悪いのだろう。そして、頭の悪い親の子が賢くなれるわけがない。それが分かる俺の方が賢いはずだ。なのに、誰も俺の賢さを理解しない。

 きっとああやって育てられた子供たちは、学力をかさに威張り、他人を蹴落とすことを喜びとする野獣として育っていくに違いない。彼は自分が暮らす日本という国を憐れんだ。そして、彼らに蹴落とされ、泣きを見るであろう子供たちに思いを馳せ、胸を痛めた。


 子供たちの背中を目で追いながら、彼らの身なりと自分の身なりを比べてみる。

 古びたジーンズに、チャック柄の外出用のシャツ。地味な柄で、自分も好きではない。けれど、高いものを買う余裕がないから仕方なく着ている。センスがあると思って買い、着た服に着替えても誰も彼に関心を向けはしなかったからだ。アルバイト先での対応も変わらなかった。女性の同僚が話しかけてくることも無かった。ただでさえ乏しい蓄えを失うだけだった。


 心がどんどん重くなっていく。そして、怒りが心の内から湧き上がってくる。

 自分が住んでいる国がこんな国になっている原因に彼は心当たりがあった。金と学力と才能こそが全て教える権威主義の犬どものせいだ。東京が嫌いになったのも、中央に住む子供たちと、地方に住む子供の格差を見せつけられているような気がして嫌になったからだった。自分がかつて東京に住んでいたと話すと、前のアルバイトの年下の同僚は「都落ちだな……」と笑っていたのだ。怒りの感情を押し殺し、彼はいつも笑って見せていた。せめて人のいい男だと思われていたかった。



 結局そのことに意味は無かった。どれだけ人良い男であることをアピールしても彼の評判が上がることは無かったし、気にしていた女の子とその年下のいけ好かないアルバイトの男と付き合ったからだ。敬語の使い方も知らないやつが周りからもてはやされるこの国は終わっている。この間違いは早急に正さなければならない。努力が報われない空気が蔓延すると、誰もが努力しなくなるからだ。


 そして、自分にはその気概があると彼は信じていた。まあいいさ、ゆっくりやろう。今の俺には力があるのだから。


 自分のアパートに帰ると、むっと熱い空気が彼を出迎えた。南向きの部屋はこの季節には日当たりが良すぎる。まるで、サウナのようだ。冷蔵庫まで汗だくになりながら移動し、冷やしておいた缶ビールを開け、一気に飲んだ。安酒特有の、ちっとも心地良くない酩酊だった。しかし、そんなものでも彼は欲していた。

 以前は酔っても絶望的な気分にしかなれなかった。酒に逃げても最悪な現実は変わらなかったからだ。けれど今は違う。


 彼は狭い畳敷きの部屋に移動すると、低いテーブルの前の平たい椅子に腰かけた。この部屋唯一の贅沢品であるPCがそこには乗っていて、そばには最近買った撮影機材が転がしてある。

 PCの電源とエアコンの電源をつけると、彼は今日のネットニュースを漁り始めた。


 帰宅途中の高校生が、老人のカバンをひったくった犯人を追いかけて捕まえたという記事が掲載されており、ガタイのいい男子が笑顔で感謝状を掲げていた。


「警察に点数稼ぎか……」


 彼は鼻を鳴らし、吐き捨てる。きっと、警察が彼の進路に口を聞いてくれるのだろう。きっと、その親切な行動とやらも、自分の将来のためになると思ってやったに違いない。打算的な行動しかできない少年少女を育てるこの国の体制は早急に手を打たなければならない。


「だが、今はその時ではない……」


 突然、機械的なアラームが鳴り響く。それが待ち望んでいたものであることに気が付くと、彼は机の下を覗き込み、隠しておいた小さな鍵付きの箱を開け、折り畳み式の携帯電話を取り出した。


 端末は最近彼のもとに送られてきたものだった。未払いの請求書を処理するために、彼が郵便ボックスを開けていると、突然中から、白いボール紙の箱に入れられた荷物が転がり出てきたのだ。郵送で送られてものらしく、差出人の名前に心当たりは全くなかった。間違えて配送されてきたのかと思ったが、とりあえず開けてみるにした。

 元の持ち主の手がかりがあるかもしれない。それに届けにいってやれば、俺に感謝ぐらいするだろう。

 しかし、それから二時間ほどした頃、いつも迷惑メールしか送られてくることのないメールボックスに、明らかに様子の違うメールが送られてきていたのだ。


『プレゼントは受け取ってくれたかな?』


「誰だ、あなたは?」と返信すると、すぐに答えが返ってきた。


『携帯電話を送った者だよ。今後のあんたに必要になると思ってね。どうだ、現状に満足していないんだろう?今の生活に飽き飽きしているんじゃないのか

 ?』

「してるに決まっているだろう。」


 そう返信しかけて、彼は一瞬手を止めた。これは何か新手の詐欺なのではないかと考えたからだ。しかし、携帯電話を用意し、送るだけでも費用は掛かっているし、なおかつ彼を騙せる人間などいないということに思い至った。自分の賢明さを改めて認識すると共に、彼は相手の正体を確かめてやろうと考え、熟考したのち、なるべく自分の有能さが、そして賢明さが伝わるような文面を心掛けた。さながら、就職活動中のエントリーシートを書くような気合に入れ方で。


 それによると、相手は彼の日頃の不満を良く知っていて、彼の力になりたいのだという。相手が所属しているは、彼のように、この世の現状を憂いている者たちが活動しやすいように支援を行う団体なのだそうだ。

 しかし、彼の心の内をもっと知りたいのだという。そうすれば、更なる支援も検討してるのだという。


 自分の秘密に満ちたプライベートを誰かに明かすことはできるだけ避けたかったが、あえて彼は危険を冒すことにした。何より、そんな自分の勇敢さを褒めたたえたいくらいだった。しばらく話した後、相手が新たな返信をよこした。


『ありがとう。正直、あんたほどの人間をスカウトするのは気おくれしていたんだ。なにぶん、全て秘密裡に行われている。だからこそ、信じてもらうのが難しかった。正直、あんたしかこの国の現状を変えられる人間はいないと思っている』

「そう謙遜するな。……しかし、あんた達になら打ち明けられることがある」


 そう言って、彼は自分の内側にある、彼だけしか知らない秘密を口にした。




 彼の打ち明けた秘密を、相手は熱心に応対してくれた。


「だがこの力を理解する者がいない。そして、こんなことを打ち明けられるのもあんただけだ。俺は無力感に日々苦しめられている。俺に権力さえあれば……大勢の人々救えるのに」


 キーボードを強く叩き、彼は自分の苦しみを書き連ねた。


「俺はもっと立派になるべき男だ。弱き人々を守る力に溢れた男だ。だが、足りものが多すぎる」

『安心してくれ。あんたの望みをかなえる手伝いがいしたいんだ。聞かせてくれないか?何がしたいのか?』

「俺の望みは……」


 そして続きを書いて送信した。


『大変感銘を受けた。やはりあんたを見込んで正解だったらしい。携帯電話の入っていた箱の底を開けてみてくれ。もっとも、あんたの慧眼ならとっくに見破られているかもしれないが……』

「ああ、とっくに気づいていたさ。ただ、あんたの警戒を解いておきたかったんだ」


 正直なところ、確認などしていなかった。しかし、相手に失望されたくはなかったし、知ってて黙っていたことにすれば相手に自分の有能さをさらに上手く伝えることができると信じていた。

 メールを送りながら、白いボールの底を開けると、二重になっている底を手で力づくで破った。どうやらジムに通っていた甲斐があったらしい。会費が払えなくなって今はやめてしまったが。


 そこには蛍光灯を浴びて鈍色に光る、一枚の認識票が入っていた。


『それがあんたに力をくれる。あんたの正義の力を見せてやるんだ』

「分かっている。どう使えばいい?」

『ちょっと待ってくれ』


 そうして、間もなく、携帯電話に着信が入った。


『ハロー。今後の連絡はこの端末で取りたい。他人名義のものだから安心してくれ』

「不安なものか」


 明瞭な発音の英語の挨拶から始まり、理知的な印象の男の声が聞こえてきた。やけにくぐもっていたが、向こうにも何か事情があるのだろう。

 できるだけ頼りになるタフガイらしさをアピールした、自信に満ちた声音で彼は答えた。そして伝えられたのだ。認識票の使い方を。彼の正義を成すための方法を。



『うまくやったようだな』


 そして、今日の連絡が送られてきた。


「当たり前だ。朝飯前だよ。しかし気に食わないのは……」


 彼はPCの画面を見つめたまま、憤慨する。


「俺の活動をニュースが報道しないことだ。明らかに他殺のはずなのに、そうなっていない。火事が起こったことになってる」

『すまないな……わざわざ新宿まで出向いてもらったというのに……』

「無問題だ。悪いのは、政府と癒着する腰抜けのマスコミ、そしてそれと癒着する悪徳警察どもさ」


 まったく、嘆かわしい。彼は彼自身の正義のため、二日に渡って新宿に遠征し、者たちを殺害した。彼が持つ認識票の力を使って。


「他にもそれを渡した同志はいるが……あんたほど仕事が早い人間は初めてだ。礼を言うよ」

「とんでもない。同志に遠慮などするな」


 内心、ひどく嬉しかった。これまで、彼の話を熱心に聞く者は一人も現れなかった。彼よりももっと話す価値があると判断した人間の中身のない話を聞くばかりだった。だが、そんなことはどうでもいい。自分は今偉大な活動をしていて、


「あんたにも見せたかった。今日始末した男は、喉の奥から煤や血まみれの組織片を吐き出しながら死んでいったさ。いい死にざまだろう?しかし、誰かがやらなくていけない」

『ああ、そうだ。それがあんただ。いや、それでこそあんただ」

「近々さらに大がかりな活動をするつもりでいる。期待していてくれ」

『ああ。感謝する……。今夜はどうやらここまでらしい次の仕事が控えている』

「大変だな、どうだ、近々食事でも」

『ありがとう。何か奢らせてもらうよ』


 そう言葉を最後に電話は切れた。心地よい充足感に包まれながら、彼は畳の上に横になる。変わりばえのしない木の天井すらも今はいとおしい。

 自分の実力をこの国に知らしめる時がやってきたのだ。安ビールの入ったグラスを一気に煽る。きっと、いつの日か、遠くないうちに、もっと上等な酒が飲める身分になるだろう。

 彼を支援する『団体』は、高額の報酬の振り込みを約束してくれたのだ。今日も郵送で十万円が届いていた。これ活動のための経費の前払いらしい。ということは

 いずれはもっと払ってもらえるだろう。

 真面目に今まで努力してきたが、何の役にも立たなかった。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。きっと自分を、今の支援者たちが救ってくれるはずだった。その幸運がいきなりやってきたのだ。


「これがジャパニーズドリームってやつか……」


 彼は起き上がり、SNSのアカウントを開いた。


『新宿 放火』で検索すると、様々な画像が現れる。アップロードした者たちの大半が、ただの事故だと思っている。違う、二件とも俺の偉大なる功績なのだ。それが世に知らしめられた時、世間はどんな反応をするだろう。楽しみだ。彼は財布を手にした。経費の金を少しくらいは使っても構わないだろう。前祝いだ。彼はいそいそと、歓楽街にくり出した。

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