第十八話 ファイアークラッカーcase8

 早朝の女学院の人気ひとけは皆無に近い。外が明るいのに人がほとんどいない建物はいささか新鮮に感じられた。夏場で太陽の光が強いせいで、余計にそう感じられるのだろう。時刻は午前七時を少し過ぎたくらいだ。


 玄関口から翠と共に校内に入り、目の前の曲がり角を左に曲がる。革靴で歩く女学院の廊下は、埃一つ浮かんでおらず、静謐な空気に包まれていた。

 左右の壁には、価値のよく分からない絵画が並んでおり、白翅はこの額縁の中身を全てじっくり見る人がいるのだろうか、とふと思った。


「珍しいね。こんなに朝早くからブリーフィングなんて」

「……うん。すぐ終わるかな?」

「どうかな。でも、どうせ終わるなら、なにか新しい情報が入ってればいいんだけど……」


 うーん、と翠が歩きながら両手で伸びをする。小さい背丈が少しだけ高くなった。

 長めの廊下の突き当りには、段差の上に青赤紫黄色緑、とカラフルに彩られたステンドグラスがはめ込まれており、外側から当たる光は爽やかで温かい。

 段差の上に座り込むと、まだ来てないね、と翠がちょっと笑ってスカートを整えている。

 白翅は頷きながら、中腰になって学生鞄を置いた。

 やがてそのまま待っていると、登校してきた何人かの生徒がすれ違い、そのたびに二人は会釈する。


「待たせたわね」

「お待たせです」

「おはよう!」

「……おはようございます」


 やがて二十分ほど経った頃、待ち合わせしていた椿姫と茶花が廊下の奥から現れた。


「こんな時間に打ち合わせなんて珍しいですよね」

「そうね、なんか不破さんたちも忙しいらしくて、とりあえず空いてる時間を使っておこうってことじゃないかしら。霞が関ってやっぱり眠らない街なのね」



 軽口を嫌味のない調子で言いながら、よっこいしょと椿姫と茶花が翠の右隣にセットで腰かけた。椿姫タブレットを鞄から出すと、茶花が首をひねって画面を覗き込む。

 少し前までは、茶花はこうした時、椿姫にべったりとくっついていたのだが、今日は僅かに離れていた。気温が高いので、椿姫が嫌がったのかもしれない。茶花の脚を覆っていたタイツも無くなっていて、今は脚がむき出しの状態だ。


『ギリギリ間に合ったようだな』


 全員の無線イヤホンに音声が流れ込み、画面には不破のクールな面持ちが現れた。おそらく夜勤明けなのだろうが、身に着けているダークスーツには一部の隙も無い。


「会議お疲れ様です。不破さん、進展有りましたか?」

『たいしたことは分かっていない。表面的なものだけだな』

「犯人の目星すらもなのですか?」

「それは最終段階でしょ。分かってたら朝ごはんを食べる前にふん縛ってくるわよ」

「朝食を抜くと茶花は大幅に弱体化してしまいます」


 不破の目線が一瞬外れ、書類をめくる音が微かに鳴る。


 被害者の名前は高岡恵吉たかおかけいきち。都内のあちこちの受験予備校で講師をしていたのだという。身元が分かるものを身に着けてはいたのだろうが、それが全て燃えてしまっていたため、近隣の防犯カメラをあちこちチェックして足取りを追い、生前の姿を探り当てたのだという。そして、その日に立ち寄った建物を全てチェックしたところ、そのうちの一つが彼の務める予備校だったとのことだ。


 「昨日、初動捜査に来てた刑事さんから聞いたんですけど、突然燃え上がったんでしたよね」

 『ああ。目撃者たちもできるだけ所轄署の捜査員が調べたらしいんだが、なにげない調子で普通に歩いていたらしい。それが、いきなり足の下から炎に包まれ、悲鳴を上げてひっくり返って亡くなったんだ。しばらくは悶えていたみたいだから、現場は当初、かなりの騒ぎだったらしい』

「でも、あのあたりって結構どの時間帯でも人通多いですよね。雑踏の中を歩いていたなら、巻き込まれた人とかいなかったんですか?」

『いた。火の粉が服にかかったものや、炎が僅かにうつって火傷したものもいる』

「同じ炎を使う者として、正確に標的を狙わないうえに、民間人を殺傷する奴をのさばらせておきたくはないわね」

「対抗意識が熱いのです」


 意識が熱い、という言い方する人初めて見た。そんなことを考えたのち、事件に思いを馳せる。


「……どんな人だったんですか」

『変わった人間ではなかった。ごくごく平凡だ』

「アンダーグラウンドとのかかわりも無し、かしら」


 詳しく調べた結果、死亡した高岡氏は特に問題を抱えていたわけでもなく、トラブルに巻き込まれた様子も無かったらしい。

 もちろん、相手が純粋な異誕生物であった場合、標的をいちいち選んだりしないのかもしれないが、それは人間を食料として捕食する場合だけだ。そして今回のようにピンポイントで人を狙う場合は、やはり自分たちが追っている特殊な存在のことを無視するわけにはいかない。


「認識票を使う人……ってことですよね」


 翠の呟きに全員が無言で肯定する。陽が高く昇ってきたためか、廊下はさっきよりもずっと明るくなっていた。差し込む光を四人のクロスタイが吸い込む。十字の影は映らなかった。


「まったく、休ませてくれないわね」


 愚痴のように椿姫が吐き出した。


 ***


 五時間目の授業は英語だった。見開き二ページ分の長文を、クラスで当てられた子たちが交代ごうたいに読んでいく。声があまり大きくない白翅は、正直あまり当てられたくはなかったが、翠が朗読する声は毎回楽しみだ。残念なことに、今回彼女は当てられなかった。翠は朗読が上手で、こういう時にちゃんと声を張れるだけの胆力がある。それが羨ましい。大和さん、というベリーショートで背丈が白翅とあまり変わらない女の子が叩きつけるような大声で末尾を読み終える。


「よろしい。だが、完璧ではない。クラスの諸君、心して聞くように。sake

 の読み方は「サケ」ではない。「セイク」だ!何度間違えれば気が済む?ほかにも同じ間違いをするものがおる!何度も言うが、魚類ではない!それを言うならサーモンだ!」


 初老だが、黒々とした髪の英語の先生が対抗するかのよう注意した。


「けど先生、私たち日本人が鮭を常食にしてる以上、これをサケと読むなっていうのは酷ってもんじゃないですか?どう見てもローマ字の鮭ですよこれ!」

「違う、何度言わせるんだセイク、だ!「ハウマッチ」と聞かれて「いくら」、と言わなくてはならんのが英語だ!和訳と英訳は言語のニュアンスが全然違うだろう!ローマ字のように丸読み出来たら正解というわけでは、ない!」


 そして力強く言葉を切った。


「そんなにサケが好きなら、君は次からシャケと言うようにしなさい!もう二度とサケという発音をあの魚類に使ってはならん!」

「せんせーそれ、サケハラですよ!」

「全く最近の若者はハラスメント、ハラスメントと……セクハラと微妙にローマ字が似とるのが気に食わんな!」

「ハラスメントも、なんか魚類っぽいですね!」

「それはシラスっだってー!」

「あはははは!」


 ちらっと、教室の真ん中ちかくに視線を向けると、堪えきれなくなった翠が笑っている。教室中に笑いが広がる中、翠に向けてふっと白翅も微笑んでみせた。翠がにこにこして口を押えている。白翅は以前、授業中に笑うのが苦手だった。なんだか場違いな気がしていたからだ。けれどそれは、楽しみを共有できるほど仲良しな人がいなかったせいなのかもしれない。同じことで笑えるのが、とても嬉しい。


そんなことを考えていた時だった。何気なく、ふと注意が逸れて、翠の頭の向こうに視線を向ける。


「……!!」


 窓の遥か向こうの空が、黒く染まっていた。その下のビル群に囲まれた場所へ向けて、黒く長い尾のようなものが繋がっていて、白翅はそれが、街の一角から吹き上がる上がる煙なのだと気づく。


(火事……?)


 声を上げようかどうしようか、判断がつかない。自分の身に迫る危機と関係があることなのか、白翅には分からなかった。だって、あれは、遥か遠くで起こってることなのだから。


「なにあれー!」

「びっくりさせないでよ!うわ!マジ?」


 異常に気づいた生徒の一人が叫ぶと、それに呼応するかのように、周囲のクラスメイト達が口々に声を上げる。


「ほんとだ……!」

「ちょっと!あれ!光化学スモッグってやつじゃないよね!防災訓練の常連のヴィラン、光化学スモッグじゃあるまいよね!生光化学!」

「だったら危険すぎるでしょ……!とりあえず百十九番⁉」


 翠や由香や雫も、それに気が付いて驚いている。由香にいたってはスマートフォンで動画撮影を始めた。


「一旦席に着くんだ!様子見をする!地震が来たわけではない!机の下には隠れている者は安心しなさい!」


 英語教師が叫び、腰を曲げて外を注視している。

 窓の外の煙は、しばらくは煙る範囲を広げていたようだが、途中からは大きくなることは無くなった。


「こっちに来てるわけじゃないみたいねー」

「いや、こっちにすぐに来られたら世界の終わりだっての」

「あの下どのへんよ、距離分かる人いるー?」

「とりあえず、消防署呼べば?」

「もう誰かが呼んでるでしょ」


 クラスの中のざわめきが収まっていく。煙が上がるということは当然、その下には燃えているものがあるということだ。何が燃えていたのだろうか。





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