第十八話 ファイアークラッカーcase4

「ノイズ、ですか」

「そうだ。君たちも正直手一杯だろう。最近は特にそうだ。最近の異誕事件、それも認識票にまつわる事件に関してはな」

「手一杯なんて……そんなことありません!」


 まるで、自分たちの実力を否定されたような気がして、声を上げるも、翠はすぐ後に別の意味を汲み取る。そして、その答えを不破が続けた。


「手一杯というのは、実力ではなくて情報に関してだ。一連の『認識票』事件は、これまでの君たちがやってきたような、街中に突如として現れた異誕生物をひたすら駆除するという形式とは大きく異なる。無差別に殺害された被害者たちがどこの誰だったのかなんてのを知らされたことが、その手の事件であったか?」


 首を振る翠に、不破は、無いだろう?と続ける。


「理由は不必要だからだ。知っても意味がない。ただ、君たちが追体験して苦しむだけだ。毎回出る、ものすごい数の犠牲者の写真や死に様を、いちいち覚えていたいか?」

「それが必要なら、覚えます……」

「そうか。なら、必要ないから覚えなくていい。必要ないということは、極力しなくていいということだ。それと同じだ」


 言葉を継げない翠は、せめて目をそらしたくなくて、不破の顔を見返した。

 彼女に言っていることはもっともだ。異誕事件は、多くの場合、化け物と被害者の間に確執は無い。無差別的に食事のために殺すか、稀に関西で討伐したようなクリストファーのようなアンダーグラウンドに所属した存在が、ビジネスで人を殺す程度だ。

 犠牲になった無辜の人々のことを知れば、ただただ辛くなるだけだろう。どうしても、その背景にある事情に思いを馳せてしまうからだ。

 だから翠たちはただ事件を起こした異誕生物を処分することだけ考えていればよかった。


 けれど、認識票が引き起こす事件は違う。怨恨や打算、それにねじ曲げられた狂気が加わった凶行の連鎖だ。そして隠された事情を知って、平気でいることはできなかった。翠や他のメンバーにできることはただ耐えることだけだろう。

 その上で、人生を狂わされてしまった、被害者や、加害者に関わる人々のことを心配し続けることは、とても大きな負担となる。


「私たち分室のスタッフの仕事の中には、君たち分室の特殊部隊員を最適な形で運用することも含まれているんだ。だから、君たちが最高のパフォーマンスを発揮するのに邪魔だと思ったものは全部押しのけている。で、今回伝えなかったのは、その一つだ。だから仮に、君やその他の人員が被害者達のその後のことを知りたいと言ってきても教えない」

「それも知る必要がないからですか?」

「そうだ。別に……」

「分かりました……」


ありがとうございます、と不破が何かを言いかける前に、翠は礼を口にした。そして、ぺこりと頭を下げる。厳格そうな目に一瞬、きょとんとした表情が浮かんだ。しばしの間を埋めるように、名も知らない鳥の鳴き声が小さく響き渡る。


「ありがとう、ってなにがかね?」

「私たちに気を遣ってくれてたんですね」


 皮肉でもなんでもなく、素直に翠はそう口にする。自分たちに秘密にされていたことは、自分達を思いやってのことだという理屈は、なんとなく理解できるような気がしたからだ。そして、それは自分たちを心配していなければできないことだ。


「『感謝しろとは言わない』って、言おうとてたんだがな……怒っているかね?私が君に黙っていたことを」


 翠は静かに首を振る。多くの人々がさまざまな思いを巡らせて流れが出来る。システムとはそういうものだ、と翠も理解していた。ましてや、自分達に話せないこと、話してはいけないことが山ほどあることも。それに……


「怒りません。それに、白翅さんが罰せられなかったのも、不破さんがいろいろしてくれたおかげ、なんですよね」

「ああ。長官たちもいろいろ手を尽くされたよ。今度、お礼を言っていたと伝えておく」


 正当防衛とはいえ、翠と白翅が出会った事件で、白翅は計十人もの人間を殺害している。その結果、裁判を経ることなく、白翅の行いは見逃された。

 本来、ましてや翠達の住む日本では考えられないことだった。色々調べて分かったことだが、日本は正当防衛が非常に成立しにくい。

ましてや、十人も殺せば裁判にかけられたら間違いなくただではすまないだろう。

そして、無罪措置が講じられたおかげで、白翅は訓練を積み、数か月前まで自分たちのかけがえのない戦力になってくれている。


 もちろん、翠もできたら白翅を休ませてあげたい。しかし、彼女の存在のおかげで何度も分室は窮地を乗り越えてきた。その状況を作ってくれたのは不破であり、その上にいる長官であり、先人が作った警察庁のシステムのおかげだった。


「気にするな、私も気に入らなかったんだ」

「銃を持って、丸腰の女子の家に突っ込むような奴らを殺したせいで、誰かが泣く羽目になることが。私は間違ったことをしたとは思っていない」


 翠達は超法規的措置を何度も行っている。仮に、階級を持つ普通の警察官であれば、仕事を続けられなくなるほどのこともしている。そんな無茶が許されているのも、やはり特務分室の行いをシステムが正当化してくれているおかげだった。


「私はまだこの戦いを続けたいんです。決着がつくまで」


 そして、そのおかげで翠はまだ戦える。真相に近づくまで。掴んだ手がかりのおかげで、まだ戦える。だから、自分たちのパフォーマンスを維持することを思いやってくれているのは正直ありがたかった。


「ついでにこれもバラそう。顔裂き事件の森下麻衣が自殺を図った。舌を何回も噛んだ。これは、私の判断で黙っていた。上からの命令ではない。これでもう隠し事は無い」

「無事だったんですか」

「治療中。助かるだろう。しかし、脳の損傷がひどい。長い目で治療するしかないだろうな」


 皮肉な話だ、不幸なことなのに。それをするおかげで、誰かの肩の荷が降りている。そして、翠は麻衣を憐れみつつも、不破の気が楽になったことに安堵している。森下麻衣も、今は罪悪感の苛まれているのだろうか。また、鳥の鳴き声が静かに森の木々を反響する。

 しばらくの間、二人は黙っていた。やがて、話題を探していたらしい不破が、翠の手元を指差した。


「それ、なんていう本なんだ?」

「『茶色の朝』です。フランク・パブロフさんの」

「聞いたことが無いな。翠はよく外国の本の読んでいるようだが、好きなのか?」

「本はなんでも好きです。絵本も……。不破さんは本、好きですか?」

「好きだったんだが……最近はあまり読めていないな」

「できることなら、読みたいですか?」

「読みたい」


 それだったら、としばらく翠は表紙を見つめて思案する。


「読んであげましょうか」

「いいとも。短い話か」

「はい。それに短編集ですから」


 断られると思っていたら、意外にも許諾がもらえた。今朝はどうにも読書に集中できなかった。それなら、他者に読み聞かせることならできるかもしれない。自分も読めるし、相手も聞ける。

 とりあえず表題作からでいいか、とスカートの生地を撫でつけて、翠は立ち上がる。そして、本を両手に持って広げた。


『コーヒーをゆっくり味わいながら、時の流れに身を委ねておけばよい。シャルロイが、犬を安楽死させなければならなかったと聞いた時は流石に驚いたが……』


 パラパラパラパラ、と雨粒が激しく散らばったような発砲音が、枝の隙間を通り過ぎて聞こえてくる。きっと、訓練用の模擬弾だろう。火薬の充填量が、実弾とは違うのだ。翠は何年も前に、それを聞き分けられるようになっていた。

 音がひどく遠い。この音は、自分の耳の良さのせいで聞こえているのだろうか。不破は今、どちらの音も聞こえているのだろうか。模擬弾と実弾の音の違いが分かる人とわからない人がいるように、翠の声だけが彼女には聞こえているのだろうか。



『病気とかじゃないんだ。色が茶色じゃなかった。ただ、それだけさ。なんだって?猫と同じになっちまったってことか?』

『ああ、そういうことだ』


 本の中の世界の、どこかにある国。その国では、茶色以外の色を持つペットは、劣った生物として弾圧されており、国家はその飼い主たちに殺処分を強要していた。


 二人分の声の抑揚をつけながら、翠の声は先に進む。銃声と大きな人の声が入り混じり、先ほどよりも遠くに感じる人の気配が濃くなった。危険人物に対処するための想定訓練でも始まったのだろう。


『お国の科学者達が言うことには、茶色を守る方がいいという』


 朗読はいい。声を出すことに集中していられる。心が安らぐ、何かが欲しかった。ただ安心していなくても、穏やかに声を紡げば、自然に心が静けさを取り戻す気がした。私、ナルシストじゃなかったはずなんだけどな。そう思いながら、ページを捲る。不破は机に頬杖をつき、眠るように目を閉じていた。


『犬には流石に驚いた。なんでかはわからないが、猫より大きいし、あるいはよく言われるように人間のよき相棒だからかもしれない』


 日々を平和に暮らしたい主人公は、友人との何気ない日々を大切にしながら、なんとか平穏を守ろうとしていた。かつて、自分が仕方なく処分してしまった愛猫の死にも折り合いをつけながら。


 銃声が激しさを増したかと思うと、また断続的に響く。水を多く含んだ空気に、火花のようなひりつきが走る。そんなふうに、翠は頭の隅で錯覚した。


『読者はどう考えればいいか分からなくて、犬を隠し始めるものまで現れたんだ』


 本の中で、圧政はその勢いを増していった。政府に批判的な記事を載せた雑誌は発禁に追い込まれた。そして、弾圧の手はついに、国家に従順だった友人にまで及んだ。自警団が拘束した数百人の逮捕者、その中に友人はいたのだという。

 政府はついに、過去に茶色以外の動物を飼っていた人間も弾圧することに決めたのだった。慌てる主人公だが、もうどうすることもできない。彼は友人と同じ過去を持っていたからだ。


『でもどうやって?誰も彼も面倒ごとはごめんで、平穏な暮らしがしたいだけなんじゃないのか?』

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