第十八話 ファイアークラッカーcase3

 鮮やかな青空を照らす夏の陽光は、雲を白く輝やかせながら射しこんでいる。


 乾きかけの土から昇る空気は、しっとりと水気を帯びていた。

 それが朝の空気を、僅かながらに涼しく冷やしてくれているかのようだ。

 しかし、この分だと、涼しいのは今だけかもしれない。陽が高く登ればきっと蒸し暑くなるだろう。暦は七月に入った。もうすっかり夏だ。そして、長引いていた梅雨も終わりを迎えた。


 翠は持ってきたカバー付きの文庫本のページを、よく手入れされた爪先で捲る。

 周囲に紛れようとするかのような深緑色の屋根を持つ、東屋あずまやの下。

 緑一色の森林に囲まれたこの場所は静けさをたいがい保っていて、翠のお気に入りの場所だった。

 特に、一息入れて何かを読みたいときは、ここを使えば集中できた。木製のテーブルもベンチもある。けれど今は、視線は文字を上滑りするばかりだ。本を読んでいるというよりは、ページを眺めているといった感じだった。


 翠の視界に移る部分だけを切り取れば、とても敷地の境界近くに、自動小銃で武装した警備隊がいるとは思えない。東京の山地の奥深くに位置する、SATの訓練施設。

 今は午前七時少し前。学校の無い土曜日だが、翠は待ち合わせの予定を入れていた。


「待たせてしまったかな」


 凛とした声に顔を上げると、東屋に入ってくる、分室長の不破の姿が目に入った。仕立てのいいダークスーツ、パンツスーツに黒いネクタイ。そして糊のきいたシャツ。



 なんとなく気を引き締めようとして、翠は胸元のクロスタイに指先でそっと触れた。

 今日は学校があるわけではないが、正装の代わりとして夏用の学校の制服を着て来ていた。


「いえ、そんなことないです」


 にっこりと微笑んだつもりが、うまくいかず、ひどく曖昧な笑みを浮かべただけになったような気がした。不破はにこりともせず、さっそく本題を切り出した。


「それで今日の面談だが……どうだね、白翅の様子は?」

「調子は、この前とそんなに変わりません。心持ちも安定しているみたいだし……特に、私から見て困ってることは無さそうです」

「そうか……精神面が無事なのはいいことだな」


 こうした話をするのは、今日が初めてではない。翠は時々、不破から連絡を受けて白翅の日常生活や、任務時の様子を報告していた。

 本人のことは本人に尋ねるのが一番というのはもちろんだが、客観的に語れる者がいるに越したことはない。特に、精神的な問題は本人が気づきにくい場合もある。それは翠自身も良く分かっていた。


「すごく丈夫なだと思います。身体からだも心も……。うなされてるところなんて、私、見た事ありません」


 異誕生物が酷く荒らした現場を見た時も、実際に人を殺すことになった時も、白翅はちゃんと睡眠をとることができていた。憔悴したり、日常的にパニックになったりもしない。白翅は常人なら激しいストレスを感じるはずの修羅場にこれ以上にないほど適応していた。

 現在いまはすっかり慣れてしまった翠も、かつては心を安定させることに苦労した。特に初めて人を殺した夜には、しばらくひどくうなされていたのだという。それでも、精神薬の処方無しで、自力でなんとか立ち直ってきたのだ。けれどその時だって、迷惑をかけまいとかなり無理をしていたのだ。


(けど、きっと、怜理さんや椿姫さんには、分かってたんだろうな……)


 なぜなら、あの二人も自分と同じ経験をしているはずだからだ。きっとその時の自分の様子も、当時の監督官に報告されていたのだろう。ちょうど今のように。不破が口を開いた。


「稀にそういう人間がいるんだ。特殊な人間」

「特殊……?」

「ああ。人を殺しても、ほとんどストレスを感じない人間。悲惨な状況に対して、大きな耐性を持つ人間だ。過酷な環境で生きていくために生まれた人間。『生まれながらの兵士』なんて呼ばれたりもする。翠も、よく本を読むならどこかで読んだことはないか?」

「私、物語とかならよく読むんですけど、学術の本はあまり……」


 照れたように翠は微笑を浮かべた。そうか、とだけ不破は短く答える。不意に、遠くの方で何かが動く気配がした。当直の隊員たちかもしれない。あるいは、訓練に早く来た者たちか。


「そうした人間は、軍人の中にも一般人の中にも低確率で存在していてな。厳しい言葉を使うと、彼らは社会病質者なんだそうだ。そもそも、突出して異常な性質を持つんだからな」

「病質者、だなんて……」

「別に彼女の事を病気扱いしているわけじゃない。ただ、その手の人間はそういうカテゴリに分類されるのが今の社会ということだ」


 友達だし、相棒であるからこそ、白翅のことをちゃんと受け入れてあげたかった。

 たとえどんな性質を彼女が持っていても。不破が沈黙する翠に、言葉を重ねた。


「白翅は……特にその傾向が強いように思う。君の話を聞いたり、本人の行動を見る限り。とても三か月前まで、素人だったとは思えない。戦闘に関するメンタルの強度が高すぎる。それは彼女自身の体質にも関係しているのかもしれない」

「殺意や敵意に敏感で……確実に反撃できるようにステータスを跳ね上げる……」

「そうだ。正直、彼女が我々の味方で会ってよかったと思うよ。もっとも、敵だったとしたら出会ったかどうかすら疑わしいがな」

「敵なんて……あり得ません、そんなこと」


 白翅は、最近まで普通の女の子だった。三月に起こった事件が無ければ、今も平穏に暮らせていたはずだった。そして、自分達と共に戦う必要も無かった。どんな体質の持ち主であろうとも。どんな過去を背負っていたとしても。


「最初に白翅が自宅で襲撃を受けた時も、分室に来る以前なら、あの子の話を信用しなかっただろう。武器を持った襲撃者を、一般人が……ただ戦う才能がっただけの一般人が返り討ちにしたなんてことはね」

「……」


 なんと答えればいいか分からない。常識を超えた戦闘能力を持つ、『元素人もとしろうと』だった翠としては。元公安部外事課にいた不破でさえも、常識の内側にいたということなのだろう。それくらい、特務分室が扱う案件は異常なものなのだ。今までも、そしてこれからも。


「私も、不破さんに聞きたいことがあったんです」


 会話が途切れたタイミングを見計らって、翠は徐に用意してきた話題を切り出した。

 ブレザーの内側から取り出した私用のスマートフォン。画面を指先でなぞり、とあるページを表示する。


『妻が離婚調停中の夫を包丁で刺した疑い。妻も自殺を図り、夫婦ともに意識不明の重体』


 それは二日前のネットニュースの記事だった。神奈川県の高層マンションで暮らす男性が裁判で争っていた夫を刺して、自分の腹にも包丁を突き立てたのだ。それだけなら、ただの刑事事件だが、問題なのは被害者の名前だった。円城靖えんじょうやすし。翠達が担当した、邦画研究会メンバー連続誘拐事件で疑われていた円城巴教諭の父親であり、実行犯だった洲波優実の実父でもある。刺したのは、優実の実母だ。本人が自殺を図り、原因は調査中のようだ。「何らかのトラブル」があったとみて調査中らしい。しかし……


「これって、私たちが捜査したことに関係ありますよね……」

「今は詳しくわからん」


 ずばっと切り捨てるように不破が応える。当時捜査中に調べた結果、円城夫婦は優実の教育方針や、帆人が成果を出せないことが原因で対立していた。そして、表向きは、女子高生たちを誘拐後、一人を殺害。その後、逃げ場を失って自殺ということになっていた。その後のことは分からないが、翠にもだいたいの想像はつく。


「優実のことで揉めてたんですよね。きっとお互いに責任を押し付けあって……それで、とうとう……」

「私も、おおかたそんなところじゃないかと思っている」


 おそらく、しばらくは落ち着いてきた責任のなすりつけ合いがヒートアップしたのだ。母親はこんなことになったのは優実を落ちこぼれ扱いし、追い詰めた父親のせいだ、と考えるだろうし、虚栄心の強そうな父親には、優実は自分のキャリアを傷つけた癌のように思えるだろう。


「どうして、このことを教えてくれなかったんですか」

「話す必要のないことだ。君たちには関係ないと判断した。君たちは担当する事件のことだけに集中していればいいと思っている。直接関係のない情報はノイズになる。だから、シャットアウトしたんだ」


 不破の物言いはいつにも増して事務的で、それはまるで意識してそうしているかのように思われた。


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