第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case34
一瞬の出来事だった。割れた天井の羽目板を押し広げながら、真紅のワイヤーロープが、浩一の曲がりかけた首に巻き付き、彼を魚のように吊り上げた。思わず浩一が巻き付いた拘束を解こうと両手を持ち上げ、わき腹ががら空きになる。
左の壊れかけた壁を大鎌で突き破って、勢いを殺す事なく鎌を回転させ、わき腹を服ごと貫き、先端を床に叩きつけた。
右の窓の隣の壁が軋んだかと思うと、丸く切り取られた壁が倒れ、銃剣を構えた白翅が、空いた手で携えた拳銃で、血を流していない左脚に速射を叩き込んだ。浩一は呻こうするが、喉を締め上げられているため、掠れた空気が奥から流れ出しただけだった。
「ウチの後輩がやめてと言ったでしょ。動けば動くほど締まるわよ」
頭上から降る硬質の警告は椿姫のものだ。白翅が煙の出ている銃口を脇腹に突きつける。構えた銃を下ろすことなく、翠は苦い声を絞り出した。
「だから、降参してって言ったのに……」
彼の肉体から流れ出る血が、足元の木の床を汚していく。吊り上げられている時に唇を嚙み切ったのか、顎を伝った血が、続けて混じり合った。
ここに突入する直前、翠達はいかにして確実に板白浩一を確実に拘束するかを議論した。
重要なポイントは、まず第一に、けっして逃亡させないこと。第二に、浩一を生きたまま捕まえること。この二つだった。
もし逃亡を許せば、周囲が山林に囲まれた秩父の山奥で、捜索を行うのは至難の技だ。山狩りも行わねばならないし、カバーしなければならない範囲があまりにも広すぎる。
また、浩一から情報を聞き出すために、彼を生かしておくことが必要だった。認識票を彼に渡した黒幕の手掛かりを集めなければならないし、他に尋ねたいこともあった。
して導き出された最善の策はある程度疲弊させた段階で、全員で彼を拘束する、ということだ。
この作戦を実現するために、環境を整える必要があった。
浩一が逃げ出さないようにするためにはどうすればよいか?四人全員で、一斉に突入するというのは論外だった。
なぜならば、もし浩一が逃亡している間に、体調が回復していれば、彼はおそらく撤退するだろう。状況は圧倒的に不利だからだ。彼に自殺願望でもなければありえない。それでは、襲撃は何人で行うべきだろうか?二人以上はやはり浩一が逃亡を選ぶ可能性を捨てきれない。万全の体制であっても、翠と白翅のペアを前に彼はしばらく戦ったのち、逃走した。彼に自分が不利であることを悟らせてはならない。
よって最初の突入は一人で行うことになる。
ではその後は?
無論、彼とて翠と白翅以外にも、自分を追う者がいることは承知の上だ。彼を狙撃したのは、椿姫と茶花だからだ。当然、他の仲間がいることは予想済みだろう。そのため、最初に突入した一人が彼と戦い、注意を引き付ける。それもできるだけ長く。
それこそ、他に意識を払う余裕も無くなるほど苦戦させ、戦いに集中させる。
そして、注意が疎かになった隙を一斉に突く。
もちろん、最悪の可能性として、翠が飛び込んだ瞬間に浩一が逃げ出す心配もあった。しかし、メンバーたちは突入まではしばらく、コテージの四方を、最初に固めていた。逃げた方向にいるメンバーがすぐに応戦し、その間に他のメンバーたちが後ろから追いすがるまでだ。翠が押しのけられない限り、充分に対応できる。それに、翠が飛び込んできた方角は、不破が狙撃ポイントからライフルを構えていた。不利になれば対応できる用意はできている。
突入要員に翠が選ばれた理由は、浩一と一度も衝突していないメンバーが突入すれば、警戒して逃げ出す可能性が高いと判断したためだった。
よって、翠と白翅が残る。そうなった時、翠は真っ先に名乗りを上げた。
『どうして?』
疑問を口にする白翅に、翠は考えた答えを口にした。
『白翅さんの体質だと、先制攻撃をしかけるのは難しいと思うの』
白翅の肉体が持つ異能には、一つの特徴がある。
それは、敵意や殺意を相手が向けてからでないと発動しないというものだ。
フラッシュバンを投げ入れたのは白翅だが、敵意を向けられてからであれば、肉体が活性化され、強化されるまでには僅かにタイムラグがある。それは突入の際、強化が間に合わなければ先手を取られる可能性があることを意味していた。そのことを翠は心配していた。目くらましのためのフラッシュバンの攻撃と、ほぼ同時に、相手と互角以上のステータスで攻撃を加える必要があった。それなら、自分が適任だ、と翠は判断した。
無論、訓練の時と同様に模擬弾を使用して、白翅の危機意識を刺激し、活性化を促すという方法もあった。敵に銃声を聞かれないために、サプレッサーも所持している。かといって、完全な無音にできるというわけではないし、浩一がそのタイミングで異誕化していた場合、感覚が研ぎ澄まされているが故に、音を聞きつけて警戒する可能性があった。できるだけ無駄な動きはさせたくない。それに、白翅の活性化の異能も、ノーリスクではない。できるだけ彼女の体力を温存させておきたかった。
『……分かった』
白翅は翠の説明を聞き、やや俯き加減で肯定の意を示した。翠はその返事にどこか安堵していた。
その結果が、今の状態だ。
翠が注意を引き付けている間に、メンバーたちはコテージに気づかれない距離ギリギリまで接近し、待機していた。そして、ライフルに装着したガンカメラを介して不破が送信した映像をタブレットで確認しながら、突入する場所に目星をつけ、打ち合わせをその場で行い、アドリブでタイミングを合わせることもできた。翠の放つ銃声が足音や声をかき消してくれたのも有利に働いた。そして、翠が敵を充分に弱らせたタイミングで合図し、制圧したのだ。
「があああああああああああ!うううううう!」
完全に自由を奪われてなお、浩一は激しく抵抗していた。首がどんどん締まり、喉を圧迫していく。歪んだ顔がどんどんと青黒く変色していた。
首に巻き付いたワイヤーが熱を持ち始める。ワイヤーは魔力で作り出した炎をさらに変形させて精製したものだ。いわば、炎という物理現象を、魔力というエネルギーで、ワイヤーに変化させているというだけで、その本質はいまだに炎である。そのため、現象を操作すれば、自在に熱を持たせることもできる。
翠は見ていられなかった。まるで、自分たちまでが、目の前の少年を理不尽に傷つけた人々と同類になってしまうような気がして、ひどく惨めだった。
「椿姫さん、そのまま、もっと強く締め上げてください。私が彼を気絶させます」
『了解よ……く、暴れんな、……』
椿姫の焦った声が聞こえた。翠は逆手に持ち替えた銃を構えて、飛び上がろうとする。
ぞわり、と。首筋が急速に冷えた。何かが起ころうとしている。そう気づいた途端、翠は躊躇なく、後ろに下がった。翠の動きに呼応したように、白翅も後退する。茶花だけが、その場を動くことなく、より深く鎌を床に突き刺した。
浩一の首の内側から、尖った黄土色の何かが突き出し、ワイヤーを搔き切った。そして、体が落ちると同時に、脇腹の肉が千切れるのも構わず、強引に体を動かして、鎌の刃から逃れた。
コテージに空いた隙間という隙間から、砂や石粒が飛び込み、それらの集合体が、複数の岩石へと姿を変えた。四方八方に攻撃がまき散らされる。
「退避して……!みんな!」
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