第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case33

 大型のドラッグストアやチェーンの立ち並ぶ国道を抜けて二十分ほど経つと、すっかり建物を見かけなくなった。延々と走り続けるランドクルーザーの車中で、翠は手入れを終えた銃を膝の上に置いている。


 特務分室と共に、夜通し調査し、捜査員達が日付が変わる頃にようやく候補となる物件を見つけ出した。浩一の父親が経営していた会社の名義で、秩父の高原に別荘が購入されていた。

 しかし、しばらくすると手放してしまったらしい。


「いちばん景気のいい時期に買ったのかもね」


 物件を特定したとき、椿姫はそうしんみりとした口調で言っていた。翠は、物件の写真を見ながら、ただ頷くことしかできなかった。

 翠も、現在はかつてと違う家に住んでいる。思えば今年の三月まで住んでいた官舎の部屋に、怜理の部屋、そして神奈川の実家、と随分自分が住む場所を変えていることに気が付いた。


 もし、自分が、ありえないことだが、もし何もかも嫌になって。どこまでもどこまでも逃げ出すとしたら。


「もう少しかかるぞ」


運転席から不破が声を掛けてきて、翠の思考は中断される。

 車は事前に調べていた、鄙びた一軒家程度の大きさの駅舎を通り過ぎる。遠くに見える山裾を走る線路には、一つの車両も走っていなかった。最寄駅からでもかなりかかるらしく、しばらく揺られ続ける必要があった。静かな車内に時折流れる無線のノイズが、無性にありがたかった。


「学校付近の防犯カメラを調べた結果が出たらしい。近場のカメラに異常はない。板白の姿は全く映っていなかった」

「あのへん、わりと住宅密集地ですよね。道路とか、マンションの防犯用のものにも映って無かったんですか?」


 椿姫の問いかけに、唸るように不破が答える。


「カメラ自体は有った。だが、犯人の姿が映っていなかったんだ。板白は銃で撃たれて出血していた。肩と腕から。どうも、そこから流れ落ちた血が点々と落ちている箇所は有ったらしい。だが、その近辺のカメラにも姿は映っていなかった」

「血の跡はあたしも確認しました。けど……ウソでしょ」


 今度は椿姫が唸る番だった。腕組みして、ついでに脚も組んでいる。


「なんだか変な話ね……」

「時間はかかるだろうが、もう少し詳しく調べてみることにするよ」


 舗装された道が途切れ、山が土で覆われた傾斜を登り始めた。辺りを見渡すと、周囲をひと気のない木造の別荘が距離を空けて点在している。

 目標となる建物まで、あと一キロメートルほどしか離れていない。事前の打ち合わせ通り、傾斜した道路脇で不破が車を止めた。突入前に、一旦敵情視察を行うためだ。

 茶花が、脚で挟んでいたツールケースのうちの一つを、翠に手渡した。翠が礼を言って受け取る。


「……行ってらっしゃい」

「うん」


 白翅が膝の上に抱えていたパウチの中からビニールに入った何かを手渡してきた。

 車を降り、山側の雑木林の中に、静かに歩を進めた。苔に追われた木々に取り囲まれながら、頭上を仰ぐと枝葉の隙間から、夜空が見えた。樹木の東京にいた時よりも、明らかに夜空の星の数が増えていた。


 なるべく高い木に目星つけ、しゃがむと、ツールケースをこじ開ける。

 取り出したSL8ライフルのマウントベースからズームスコープを取り外し、白翅から受け取ったビニールから夜間偵察用の赤外線サーマルスコープに交換する。

 しっかりと銃身を抱えると周囲の木々の枝を足場に三角跳びを繰り返し、大枝の上に軽やかに降り立った。


「南西に、一キロメートル……」


 座射姿勢を取ると、スコープを覗き込み、目的の建物を検索する。周囲の別荘から距離を取るようにして、丸太を積み上げたような外壁を持つコテージが傾斜の上に建てられていた。

 淡く発光する緑の瞳でクロスヘアの中心を捉え、見えている窓を順番に精査していく。

 闇に包まれたスコープ内の視界に白黒の輪郭の一部が映りこんだ。熱信号による変色だ。射角があまり良くなく、部屋の真ん中付近にいるため、はっきりと全体像を捉えられない。しかし、赤外線サーマルが反応しているということは、確実に中にいるのだろう。


「標的を確認。撃ちますか?」

『いや。外れた場合、逃げられるだろう。確実に仕留めたい。ここで降りて接近する』

「わかりました」


 白黒の像はぴくりとも動かない。動けないのか、動く気力もないのか。今の板白は何を考えているのだろう。

 もし、自分が、ありえないことだが、もし何もかも嫌になって。どこまでもどこまでも逃げ出すとしたら。


(きっと私も、昔の家に帰るのかな……)


 今は誰か別の人が住んでいたとしても。もし、そうではなく、誰も自分を出迎えてくれなかったとしても。きっと自分もそうするのかもしれない。



* * *



別荘の中は不気味なほど静まり返っている。頭の中で黒い感情がわだかまり、とぐろを巻いていく。

焦燥感と怒りが、浩一の頭の奥の奥から湧き上がってくる。

許せなくて、この怒りをぶつけたい。何にでもいい、誰にでもいいから。


 『あんたも私が辛いのは知っているでしょ?だからわかってほしいの。こんなことをするのも私が辛いからよ。私の事情もよく分かって。そうしたら酷いあんたでも思いやりのある人になれるのよ』


叔母はそう言って自分に暴力を振るった。ひたすら可哀想な自分は、誰かに暴力を振るう権利があると思っていた。浩一自身、その異常さは感じていた。けれど、叔母の母親に、たまたま自分を傷つける相手がいない時に、助けを求めた事があった。


『けどねえ……やっぱりわたしも、あの子がかわいそうだと思うわ。だって、あなたと違って、あの子は今まで苦労してきたのよ?あまりお金も無いのに頑張ってきたの。馴染めなくても、一生懸命ね……でもねえ、あなたはどう?苦労してるのはいまだけじゃないの。これまでは贅沢できてたんでしょう?わたしの旦那が亡くなった時、葬式にも来なかったじゃない』


そしていかにも嘆かわしい、とでも言うようにため息をついたのだ。


『だから、それくらいのバチは当たっても仕方がないんじゃないかしら』


そうこうしている間に、叔母が帰ってきた。後のことは思い出してはいけないことだった。


「ううううううううううううううううううううううううう」


闇に覆われたキッチンの中で、彼は呻き続けた。

ダメだ。もうダメだ。どうして人がいないんだろう。どうして、誰ももう傷つけられないんだろう。こんなにも嫌で。腹が立って。

殺したいのに。


ガアン、と激しい物音が静寂を破った。過剰に暴走した聴覚に従って、彼の視線は音の方向に引き寄せられた。

コンロの上の換気扇が内側に吹き飛び、新たに飛び込んできた、空き缶のようなものが床に激突する。

大きな音と光が鼓膜を震わせ、たまらず浩一は頭をかばった。


庭に面した窓が砕け散った。黒い影が飛び込み、手にした何かが鈍く光を放った。


「ははは、ははは!」


怒りを爆発させ、浩一は服の中のそれに強く念じる。

やった、やった。これでもっと傷つけられる。怒りを発散できる。

本当は物足りなかったんだ。もっともっと殺させて。




* * *



閃光がコテージの中で迸り、暗色の窓が白く染まった。

 翠は唇を小さく噛んで気を引き締め、地を蹴って加速する。レッグホルスターから引き抜いた拳銃をまっすぐに構え、正面玄関のドアの右方向に見えている窓めがけて、連射を叩き込む。

フラッシュバンの閃光が消失すると同時に、翠は木の床の上に滑り込んだ。腰を床に落としながら、銃身を動かして対象を追う。


 内部に立つ、たった一つの影が、すんでの所で身を捻った。夜の闇の中で、板白浩一の眼は怒りに燃えていた。

 翠はその姿に違和感を感じつつも、床を靴裏で蹴り、飛来した石英で作られた剣を転がってかわした。続いて投げつけられた追撃を、瞬間的な照準ポイントと応射の一撃ではじき返す。


 手を使わずに、宙に浮かべ、自動的に投擲することができるらしい。敵の手数の多さを、翠は戦闘経験に基づく直勘と、持ち前の集中力による狙いの正確さでカバーしていた。


 不意に狙いを切り替え、前に進み出ようとした右脚に三発撃ち込むが、背後にずれた浩一は、動物的な速度で流し台のキャビネットの陰に飛び込んだ。弾倉を交換する暇さえ惜しく、二丁目の拳銃を一丁目を撃ち尽くす直前で取り出して、左手で保持して追撃した。

 四十口径サイズの強化金属製の弾丸が、キャビネットの表面を二度と使い物にならないような有様へと変えていく。


「もう投降して!あなたを殺したくない!」

「いやだ……いやだ!」


 ひどく疲れたようで、ひどく怒りを孕んだ声だった。ぞっとするような、何かが間違いなく狂った情念が伝わってくる。跳弾した弾丸が、浩一の左方向のドアのノブに当たり、跳ね返って宙づりの電灯を破壊した。相手の後ろの窓から、宙を通って、砂がひとりでに流れ込んできていた。

この地帯は、土砂がどこにでもある。ストックが無くなることはないだろう。浩一が自身の体力を全て使い果たさない限り。


 盾にできるものが無い翠は、ただひたすら攻撃を跳躍して避けた。

 土は空中で複数に分かれて集まり、岩石の弾幕を形成した。高速で投げつけられた岩石が丸太の壁を叩き壊して、外へと転がっていく。身を低くして、飛び散る土砂から顔を庇った。

低い姿勢で相手の体の中央付近に、銃弾を収束させる。相手を行動不能にして、この任務を終わらせる。翠の頭の中をその思考だけが占めていた。


「認識票を持ってるなら、解除して捨てて!」

「捨てられない、これを捨てたら僕は……僕は、もう、自分を守れない!これが無いと……」


 相手の動きを牽制するために放っていた銃弾がついに撃ち尽くされ、二丁目のSIG226が弾倉を排出した。それを待っていたかのように、浩一が飛び出してくる。


 ふと、そのシルエットに奇妙な違和感を覚えた。が、それに考えが及ぶ前に、一瞬で浩一が翠に肉薄する。

 明らかにスペック以上の力が出ている。瞬発的な速さは翠と同等だろうか。

 咄嗟に翠は右の踵を浮かせ、左脚を軸に回転した。さっきまで右脚があった場所を、浩一の左手に握られた石英の先端が空振りする。相手が体を引っ込める寸前で、視界の相手に薙ぎ払うような回し蹴りを放った。

 右脚が舞い、浩一のこめかみを革靴の踵がとらえた。はずだった。


「⁉」


 華奢な見た目に似つかわしくない速度で放たれた筈の蹴撃は、宙で静止していた。いつの間にか、木の床を突き破った土と泥が集まり、触手のような形状となって踝に巻きつき、僅かな動きさえも封じている。やがて、見えない力が加わったかのようにその表面が緊張すると、翠の踝をギリギリと音を立てて締め上げ始めた。歯を食いしばって痛みに耐えながら、敵の姿を見つめ、ようやくそこで翠は敵の違和感に気が付いた。

 浩一の右肩は、骨を壊されて大きく下がっていた。PB加工されたライフル弾の二発の直撃は当然のことながら大きく爪痕を残している。

 そしてその先には、無いはずの腕が生えていた。こげ茶色に近い色をした、奇妙な柔軟性を持つ腕。


 それが土砂を能力で固めて作られたものだと気づいた瞬間、偽物の右腕に土の粒子が集まり、ぼこん、と膨れ上がり、翠と浩一の間の床が軋みを上げた。

 危険を直感した翠の手がガンベルトを探り当て、軍用ナイフを引き抜くと、利き手を限界まで伸ばして踝を絡めとる土の触手に叩きつける。渾身の力を込めて、左右に捻って触手を破壊、自由になった足裏を床に叩きつけ、体重を左足に移しながら、背後に跳んだ。


 翠の眼前で、複数の硬化した土の触手が、五本、床を突き破って飛び出した。

 追撃しなくて正解だった、と安心したのも束の間、頭上に強い圧力を感じ、翠はナイフの背に手を沿えて、振ってくる何かを受け止めた。


 能力の使用者の身体には不釣り合いなほど大きな土塊の拳が、ナイフの抜き身と共に翠の身体に叩きつけられた。拳の裏が当たった天井が破られ、木片が降り注ぐ中、両脚を懸命に踏ん張って、翠は圧力に耐えた。


「く、うううううううううううあああああああああ!」


 腹の底から叫びを上げ、力任せに掲げたナイフを少しずつ拳の表面上で左側に滑らせた。抵抗する力に、負けじと、浩一は半身に力を込める。翠が斜めにかけた力に、相手は右半身全体を使って対抗しようとする。が、浩一の身体は傾き、徐々に一回りも小柄な少女に押し負け始めた。耳障りな刃が擦れる音に苦痛の呻きが混じった。


 彼はいま、自らの身体が軋む音を聞いているのだろうか。

 壊れかけの肩が治っていないのならそこに更なる負担をかければいい。土を操る能力を活用して、傷を塞ぎ、無くなった人体の一部を補うことはできても、それ以上の応用は不慣れなようだった。


 壊れかけの右肩が加わる力と重量に耐えきれず、勢いよく床に叩きつけられ、体の下敷きになった。

 拳の一撃を浴びたドアが壁ごと吹き飛ぶ。翠が間髪入れずに疾走する。床を突き破って飛び出す触手を飛び上がって大きく前転して回避、転がるや否や、こちらに向けて伸びている浩一の右脚に斬撃を放った。


刃こぼれしたナイフは斜めに脚の肉を切り裂き、骨に当たる直前まで食い込む。

そのまま捻ろうとすると、左脚が蹴り出され、翠はとっさに左の肘でそれを受けとめる。追撃を回避するために、刃を引き抜きながら、横に転がった。


 だん、と音を立てて、浩一と翠はほぼ同時に立ち上がった。唸り声を上げる浩一の鼻先に、弾倉を交換した拳銃を突きつける。最初に撃ち尽くした拳銃の薬室に、弾丸を一発残しておいたのだ。スライドを引かなくても、指先に少し力を籠めるだけで、顔を吹き飛ばせる。


「お願い、もう止めて……」


聞くだけでは、手負いなのは小柄な少女の方なのではないかと思えるような切羽詰まった声で、翠は投降を促した。

板白浩一の身体の様子はズタズタだった。

もうどうしようもないほどズタズタだった。壊された肩は下がり、もう生えてくる事のない腕の代わりに、先が砂となって零れ落ちる土の腕。がくがくと痙攣する片足からは、動くたびに切り裂かれた傷口が血を噴き出していく。ぎらぎらと光る目はずっと焦点が合わない。

蓄積されたダメージと疲労により、肉体が悲鳴を上げているはずなのに、それでも目の前のを力づくで押しのけようとする。


「ぜったいに、捕まらない……」


浩一の眼が、翠の顔を正面から捉える。汚れた歯がかみ合わされた。翠は銃に両手を添える。

そして、前に出した右脚を、二回続けて踏み鳴らした。







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