第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case32

  陽炎の立つ路面に、蝉がうつ伏せになっている。浩一が背にする路地の壁の曲がり角のひなたで、ずっとぴくりとも動かない。死んでいるんだろうな、と浩一はぼんやりと考えた。

 がくん、と急に首が折れそうになって、慌てて頭を上げようとした。視界が上がらず、彼の動きに逆らうかのように腰から地面に崩れた。


 学校から逃げ出してから、がむしゃらに走り続けてここにたどり着いた。自分を案内してくれる人も、地図アプリも存在しないため、ここがどこなのかも分からなかった。首筋からの発汗が止まらない。心臓の鼓動は落ち着く気配を見せず、今にも飛び出して目の前に落ちてきそうだ。

 汗を拭おうとして、右腕を上げて、首の後ろに手を持って行った。


「……あれ、あれ」


 手が言うことを聞かない。手ごたえがなくて、何度も空を切る。


(頭がなくなっちゃったのかなあ)


 そうか、だから頭の中がぐちゃぐちゃなんだ。頭の中がぐちゃぐちゃだと、部屋が汚くなっちゃうよ、って誰かが言ってたっけなあ。誰だっけ。学校の先生?……違うような気がする。だって、先生は僕の事をあんまり心配してなかったから。

 じゃあ、誰だろう。浩一の意識はますます朦朧としていく。

 力の入らなくなった腕を下ろした。


 右腕は関節から先が無くなっていた。傷口は無理やり千切られたようになっていて、割れた肉の隙間からは白い骨が覗いている。


 ひゅっ、と唇の隙間から悲鳴の代わりに息が漏れた。そうか、思い出した。

 思い出す。面の前で、飛び散る岩石に当たって、頭が潰れて死んでいく同級生たち。泣きながら足にすがってくる男の子が邪魔で、脚を振り回したら、そのまま面白いくらい飛んで行った。けらけら、けらと。喉の奥が鳴る。


 ああ、そうだ。そして、そこからの光景はひどく不鮮明だ。制服のようなブレザーをまとった小さな女の子が、突然教室に入ってきて、ピストルを浩一に向けて撃ち始めた。小さな口が動いて懸命に何かを叫んでいた。


『どうして殺したの』


 知ってるんだ。そう思った。あの時、自分が教室に入る前に。学校に再び来る前にも、もっともっと殺したことを知っているんだ。どうしてかは分からないけれど。


 逃げなくちゃいけない。そう思った時、後ろから、すごく肌の白い女の子が自分を撃ったのだ。紫色の眼が、自分を補足していた。その目は真剣というよりも、まるで自分を補足する方法、そればかりを考えているかのような目だった。その子が自分を許す気が無いことも、理解できた。そしたら、急に、腕が弾けたのだ。何発も、何発も衝撃が加わって、そうして自分が外からも撃たれていることに気が付いたのだ。


 まるで夢みたいに現実感が無かった。違う、あれは現実なんだ。これは現実なんだ。僕がやったことを知ってるんだ。でも、なんで?

 逃げなくては。でも、どうやって。


「どうしよう、どうしよう」


 両手で自分の頭を抱え込む、右のこめかみから流れる汗に、傷口から流れる血が混ざりこんだ。


「あ……なんだ…………へ、へへ、へへ」


 なんだ。血がどろどろと頬を垂れていく。僕の頭、ちゃんとついてるじゃないか。

 胃が痙攣する。心臓の音はずっと鳴りやまない。視界が狭くなる。


「まだ見つからないわ。近い……みたいね。あ、茶花は追いついた?」


 眼が見えにくくなった代わりに、異様に鋭敏になった聴覚が異音を捉えた。

 ひと気のない路地に通じる、通りを挟んだ集合住宅群の建物に挟まれた歩道のあたりから聞こえてくる声。若い女の声だ。歩きながら会話しているのか、声が少しずつ近づいてきている。


「緊急配備、包囲体制はもう完成済み。分かった。できたらすぐ来て。今にも見つかるかもしれない」


 奇妙だった。声は小さく聞こえてくるのに、足音が全く聞こえてこない。

 どうしたいい。今の自分を見られたら、どうしたら……

 その時、体が急に後ろに下がった。腰が砕けたまま、なすすべもなく、浩一はそのまま路地の奥に引きずられていく。声をあげようとしたが、喉の奥が鳴っただけだった。


 いきなり、手袋を装着した分厚い手が浩一の口を塞いだ。心臓が爆発しそうなほどに音を立て、その後はものすごい空腹感が押し寄せてきた。口を顎が外れそうなほどに開け、上着の内側に入っているものに、強く念じる。僕を助けて。助けて助けて。


「やっぱり、ここまで疲弊したら、連続では使えないみたいだな」


 低い男の声が耳元で響き、腰を掴まれて、路地の奥の陰の中に、転がされる。


「助けてやろうか?」


 中背の男が、目の前に立って浩一を見下ろしている。路地の薄暗さと、疲労と出血のあまり曇る視界のせいで、顔がよく見えない。


「助けて助けて、ってずっと言ってるぞ、お前」

「だ、れ」

「誰?誰、か……」


 男は小さく指で顎を搔いた。


「タクシードライバーだよ。どこに行きたいんだお前」

「…………」


 路地に男以外の気配はない。先ほどの声を発した女性は、もうどこかに行ってしまったらしい。


「こいつに、見覚えがあるだろ」


 男が背広の内ポケットから、何かを取り出した。闇の中で鈍色の認識票がぼんやりと光った。顎髭を持つ男の顔が微かに笑う。

 胸に手を当てた。小さな手が、浩一の持つ認識票の硬い感触に触れる。


「この前にくれた……人と違う」

「ああ。ソイツは今いない。で、どうする。時間がない。そろそろ近いぞ」


 何が近いのか、危機感に埋め尽くされた本能が察した。男は相当小さい声でしゃべっているのに、はっきりと声が聞こえる。それと同じだ。

 さっきの若い女の声は追手で。ひどく遠くの声を、異常に研ぎ澄まされた聴覚が認識しただけだということに。このままではすぐにでも追いつかれるということに。

 呪文のように、浩一はとある住所を口にした。彼が知りえる、数少ない安息の地の。




* * *



「『知ってるんだ、どうして』って浩一くんは言ってました」


 分室のメンバーを乗せた指揮車内で、翠は口を開いた。

 運転席のすぐ後ろに設置された無線機が、検問の様子を伝えてくる。

 緊急配備に、板白浩一がひっかかる事は無かったらしい。検問をどうにかして彼は抜けたのだろうか。


「自分の犯行がばれてるって気づいてるなら、調べたらすぐにわかるところに、あの子はいないかもしれません。だから、昔住んでいる家にもいない」

「警察だ、とかは言わなかったのよね?」

「言いませんでした」

「なら、どこでしょう」


 翠の右横で、白翅がしばらく考え込んだ後、口を開いた。


「大丈夫な場所。安心できるところ……家でも無くて、人から分かりにくい場所」

「一見してもうその人のものだと分からない場所かなあ」

「それなら、売却された家もそうでしょう?」

「どうかしら……」


『こちら特別捜査本部より連絡。配置された部隊員に次ぐ』


 一瞬自分たちのことかと翠は身構えたが、どうやら違うらしい。板白家が所有していた名古屋の住宅周辺に張り込んでいる、愛知県警と分室職員宛だった。警視庁の刑事部長が、愛知県警の本部長になんとか話をつけたのだという。


『マル被疑者、十代前半の少年。キャップ帽にポロシャツ風の上着。色は赤と青。緑の半ズボン。姿が近辺で確認された段階で、報告し、そのまま待機せよ。民間人に危害を加える様子が見られた場合、発砲を許可する。繰り返す、発砲を……』


 鬼気迫る内容から、もうすでに現場付近には地元の支部からSATが派遣されているようだ。愛知県は異誕事件が一年近く前に起こった場所で、その際も現場の警備を担当していた。交戦になっても、すぐに対応できるだろう。もっともそれは、犯人が現場に現れればの話だ。

 いま、浩一が考えていることは何だろう?


 見つからない事だ。正体がすでにばれているのだから。ということは、逃げ込める場所だ。捕まらないためには、隠れ場所が見つからない必要がある。そして、今孤立無縁の状態の彼は、なるべく安心を得ようとするはず。

 安心できる場所とは?彼のテリトリーだ。そして、そこは勝手知ったるお気に入りの場所でなければならない。

 自分の身元が分かっている相手に、一見して自分がいるとわからない場所。そして、自分のお気に入りの場所。


「あの子の名前が調べても出にくい場所で……お気に入りの場所、だとしたら」

「少なくとも、板白の実家、もしくは叔母の家周辺には無いでしょうね。東京での彼の活動範囲に、落ち着ける場所があったとは思えないわ」

「ということはなるべく遠く……」


 頭を回転させる。遠く、そして、分かりにくい。彼と縁のある場所。友達の家?いや、これも調べ尽くせば簡単に分かる。それに、彼はどちらかといえば、名古屋でも内気な様子だったらしい。ここまでの状況でかくまってくれる友人は居ないだろう。


「会社……そうだ、板白くんのお父さんが経営してた会社の社屋とか?」

「社名と住所で調べたけど、テナントビルに今別の会社が入ってるわ。それに、名古屋の実家のすぐ近くよ」

「それなら、それ以外の、会社の持ち物になっていた建物はどうでしょう?」



* * *




 光が一つも存在しない吹き抜けの踊り場を渡って、板白浩一は、朽ちかけた手摺に軽く触れながら一階に降りた。

 埃が床一面に堆積していた。もう誰も出入りしない場所。もういなくなってしまった両親のことも、自分のことも歓迎していない場所。

 木目のついた板張りのキッチンに入り、汗まみれの靴下を放り、素足で埃を踏みしめた。

 このコテージには、最低限の家具がいまだに残されていた。誰かが金に困って放り出した物件なんて、事故物件と似たようなものだ。だから、いまだに買い手がつかないのだろう。


『ここでいいだろ?』


自分をここまで送った男はそう確認してから、彼を一キロ近く離れた別の別荘の近くで降ろした。彼は、浩一が立ち寄ろうとするコテージの近くには行きたくないらしかった。もっとも、浩一としても、そこまで付いてきて欲しくないのが本音だったんだが。


 『誰なの?』


 彼の問いかけに、男は半笑いで、もう答えたろ、とだけ残して立ち去った。




 食卓に使われていた小さなテーブルの前に腰かけ、胡乱なまなざしを、庭先に向けた。天井近くまで届く大きな窓。

 そこから、木造りのテラスの先に小さな庭が見えた。ひどく懐かしかった。


 ここにはただ、幸せな思い出だけがあった。両親がいれば、どんな辛い思い出も、幸せなものへと変わっていった。

 彼が小学二年生のころ。ちょうど今のような初夏の匂いのする昼下がりのことだった。

 狭い庭に出た彼は、芝生の植え込み近く奇妙なものを見つけた。

 茶色の何か石のようなものに、まだら模様のロープ状の何かが絡みついている。目を凝らして見つめると、石のようなものは大きな蛙で、巻き付いているのは蛇だった。


 蛙が今にも食べられそうになっているのがかわいそうで、どうにかしてあげたくて、彼は折れた小枝を見つけてきた。そして、大慌てで戻り、蛇を思いっきりつついたのだ。

 蛇はものすごい速さで蛙から離れると、こちらに向かって這い進んできた。

 浩一は背を向けて、泣きながらその場を逃げ出した。家の中に駆け込んでカギを閉めて、しばらくは泣き続けた。幸いにも、蛇は彼には何もしなかった。


 彼の声を聞いて、両親が飛んできた。

 泣きじゃくっている浩一から事情を聞き出した後、父はそっと頭を撫で、

『怖かったなあ。けど、えらいぞ。蛙くんか、蛙ちゃんかは分からないけどさ、きっと感謝してるぞ。そのうち、恩返しに来てくれるかもな。なあ、母さん。なんだっけ、そんな童話あったよな?』


 と笑っていた。


『そうねえ。でも、蛇は幸運の印って言うから……追い出しちゃいけなかったかもねえ。庭にいたら、家が栄えるっていうじゃない』


 苦笑して、母が続ける。「そんなあ……」と泣き声を出す浩一に父は、「幸運の印?浩一を泣かす幸運なんていらないさ」と励してくれたのだ。


 『蛇なんていなくても大丈夫さ。あいつが俺たちの貯金を増やしていたって?バカな』


 それから二年もしないうちに、会社の業績が悪化して、父はコテージを手放した。

 あの時と違って、今は芝生が伸び放題になった庭は荒れ放題だ。どうして、今になってこんなことを思いだすんだろう。


 もしかしたら、あのことがケチのつけはじめだったのかもしれない。あの蛇を追い出さなければ、こんなことにはならなかったのではないか。蛇も蛙も、もうそこにはいなかった。


 浩一が苦しい時に、蛙が恩返しに来ることは無かった。

 ふと、あることに思い至った。蛙は居なくても、蛇は居たのではないか。彼は半ズボンのポケットから、何も書かれていない、のっぺらぼうの認識票を引っ張り出す。


 東京に移り住んで、しばらく経った頃だった。叔母が三度目の職場も上手くいかず、毎日不機嫌に過ごしていたある日、浩一はひどく痛めつけられた。高校の頃の叔母の同級生が、結婚したことを報告してきたらしく、それがひどく癪に障った叔母は苛立ちのはけ口に彼を利用したのだ。


 翌日、あまりのストレスに浩一は学校帰りに、通学路の路地裏で嘔吐した。帰るのが嫌で嫌でたまらなかった。帰り道が今の家に続いていなければいいのに、とすら思っていた。


『ひどい有様だな』


 急に後ろから声を掛けられた。えづきながら振り返ると、すすけた壁に挟まれた通路に音もなく人影が立っていた。


『誰……』

『さあ……?誰、なんだろうな』


 感情の読み取れない声で相手は答えた。低く、けれど、大人の男の声ほどは高くない、不思議な声だった。片手を伸ばして、相手は浩一の足元に何かを放った。


『お前は良い手駒になるかな?』


 足元に音を立てて転がる認識票に目を落とすと、次に顔を上げた時、相手はもういなくなっていた。


 あの時に暗がりに佇んでいた人影の、光を孕んだ目つきが記憶の奥底から浮かび上がってきた。

 あの鋭い目つき。どうして、今まで忘れていたんだろう。認識票に助けを求めてから、自分はいろんなことを急に忘れるようになった。


 あの目つきは、まるで蛇みたいだったな、と浩一は思った。


「はは、はは」


 そうか。そうだったんだ。


「あの人が蛇だったんだ」


浩一は、自分の右肩から下を見つめた。正確には、彼の右腕があった場所、だ。

腕の代わりに、曲がった太い棒きれに、ささくれた五指を無理やり取り付けたような物体が、切断面に張り付いていた。傷口を、土を操って固めて塞ぎ、泥を硬化させた腕を無理やり取り付けたのだ。強度を試すためにも、これで入り口のドアのカギを壊して来た。

 あの人から認識票これをもらって。たくさんたくさん人を殺してしまった僕も、あの人と同じく蛇になってしまったんだ。蛙を食べるみたいに、人を殺したんだ。合点がいった。


「ふふ、ふふ、ふふ。きっとそうだ、蛇なんだ。怖くて、長くて、逃げられない……」


 笑って、笑って、泣き続けた。

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