第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case31
足元の砂を踏みしめ、ずっしりと重い疲労を抱えた小さな体を懸命に動かし、ようやく翠は校内の敷地へと帰還した。事件現場となった学校のグラウンドには、黒いクジラを思わせる指揮車両が、路肩のパトカーから意図的に距離をとって停められていた。
背後を白翅が、僅かに遅れて付いてきている。
少し立ち止まり、彼女が横に並ぶのを待ってからサイドドアを三回ノックすると、中から返事があった。
「お疲れ。これで揃ったわね」
「お疲れ様です!」
車内に入り、狭い通路を抜けると、中央の座席に不破が座っていた。そのまま通路を挟んで向かいあう席に座っている椿姫が片手を上げた。その近くの座席では、茶花が、二つのツールケースを、自分のタイツに包まれた脚で挟んでいた。二人の狙撃用ライフルが入っていたものだ。
「成果ゼロだ」
「検問に引っかからなかったんですね」
力なく首を振りながら、不破が立ち上がった。そして、運転席のすぐ後ろにある広いスペースに移動した。手でさっきまで自分が座っていた椅子を示し、二人を座らせた。狭いスペースに、翠と白翅が隣り合って腰かけた。
「そうだ。半死半生の状態のはずなんだが。どうやって、検問をすり抜けたんだ?」
それは翠も疑問に思っていたところだった。
翠達が板白浩一を取り逃がした後、落ち着くの待たずに追跡が始まった。
逃亡に使ったルート付近を虱潰しにあたり、特務分室のスタッフたちが通信指令センターを介して、緊急配備の要請を行った。
それに基づき、現在も、多摩区を中心に複数の管内に所轄署の警官達や、機動捜査隊員たちが一斉に武装して捜索したが、車内の無線から入る報せはどれも芳しいものではなかった。翠達の攻撃によって負傷した体で遠くまでいけるはずがないのだが。
「一息つきましょう」
「ありがと」
茶花がすぐ後ろの座席に置いてあったリュックサックから、チェーン店のマークが描かれたカフェラテを取り出し、椿姫に渡した。
翠と白翅にはカフェインレスコーヒーを二つ両手にもって差し出した。翠は礼を言って受け取ると、ストローを突き刺した。茶花はどうするのかと思えば、コンビニ限定のコーヒーアイスに噛り付いている。近くに店舗に寄ったのだろうか。
「狙撃ポイントからずっと見てたんだけど、裏門……つまり、あたしが待機している側から出てきたのは確認できたんだけど……建物の陰になるところを移動してて
結局見失ったわ」
「私たちだって手分けして、一緒に調べたんですから椿姫さんだけのせいじゃないですよ」
珍しく消沈した様子の椿姫に、翠はねぎらいの言葉をかける。
「ありがと。こうなったら、次の犠牲者をゼロにして、ミスを帳消しにするしかなわね」
そう言いながらも、椿姫は翠と白翅に気遣わしげな視線を送った。
翠はなんとなく目を合わせていられなくなり、徐に窓の外を目線をそらした。
目を合わせたくてもできなかったのは、椿姫に自分の気持ちを気取られるのが嫌だったからだろう。そらした翡翠色の目の先には、遮光フィルムに覆われた車窓があった。見えなくても、その先にある校舎を思い描くことができた。
建物に入らなくとも凄惨な惨状を物語る傷ついた無人のコンクリートの学び舎。
もう被害者たちの遺体は全て運び出されてしまったのだろう。
自分たちが戦闘の際に使用した弾丸が、敵の能力に阻まれていたとはいえ、無関係な人々の遺体を傷つけたということが、ひどく
霊安室で、彼らに対面することになる遺族たちはどう思うだろう。丁寧に縫い合わせているとはいえ、死んだ後も、更に傷つけられた。
厳重な検査を経て、隠蔽されるのは確実だ。けれども、遺族たちが知ることになれば。
もし翠ならば、仕方ないと割り切れるだろうか。許せない、と思ってしまう可能性が無いとは言い切れなかった。
それは翠自身が、大切な人々の骸を傷つけた者に対する憎悪を捨てきれていない証拠だった。
翠の両親を、ただ自分を誘拐するに邪魔だったというだけで、引き裂いて殺した闇ブローカーの異誕生物、ガラド。
殺すだけでは飽き足らず、異端生物の血を引く自分を産んだ母親の頭をぐちゃぐちゃに潰していった。
自分が、ガラドと同類か、それ以下の怪物になったような気がした。
いや、もしかしたら……嫌な想像を払いきれず、頭はネガティブな感情を呼び起こした。
もうなっているのかもしれない。少なくとも、自分は、つい最近も人を殺したのだから。関西でも、ここでも。
もう自分が憎んでいる異誕生物よりも、多くの人々を屠っているのではないだろうか。
しかし、自分がその事実を気にする素振りを見せたくなかった。白翅にまで、強く罪悪感を植え付けることになってしまう。
「休憩は終わりだ」
やや声を張って不破が宣言した。思考の糸が切れる。翠にはそれがありがたかった。
事件資料と写真が張り付けられたホワイトボードの前に立った不破が、咳払いしてから声を張った。
「現在も、板白浩一は逃亡中だ。そこで奴の居場所を特定するために、現在判明している情報を繋ぎ合わせてみよう」
「逃げるためには、ある程度、近辺の地理に詳しい必要がありますよね」
翠が挙手しつつ、思考を切り替える。
「板白君は、親戚に引き取られていたんですよね。引き取られてから、どのくらいなんですか」
「二年だ。正確には、一年と十か月。だが、活動範囲はけっして広くはない。学校と家の往復。出歩く場所も近所に限られていた。旅行にすら行っていない」
「それなら、この近辺だと、すぐには移動できないかもしれませんね」
「ああ。だが、現に奴はいない。そこで、もう少し掘り下げて調べてみた」
不破が腕組みし、切れ長の目を光らせた。
「板白は、もともと名古屋にあるベンチャー企業を経営していた夫妻の息子だった。しかし、事業に失敗してから、両親は蒸発。あちこちに問い合わせたが、見つかっていない。どこかに逃げたか……最悪、心中してる可能性がある」
まるで、自分の事のように失意を感じながら、翠はさらに問いかける。
「亡くなった引き取り先の近所の人達の評判は良くなかったらしいですね」
「はっきり言って悪い。殺害された母子の娘の方……特に娘の方は、失業中でかなり情緒不安定だったらしい。近隣住民に挨拶はしないし、部屋からはしょっちゅう怒鳴り声や物音が聞こえていたようだ。それを注意すると、狂ったように激高して食ってかかったそうだ。最近は、もはや誰も関わろうとしなかったそうだ」
「誰も警察を呼ばなかったんですか?そんなことになって」
「近隣住民が多少うるさいだけで警察はそいつを逮捕することはできんしな。基本、民事不介入だ」
椿姫のため息交じりの声に、不破が同じテンションで応じた。
「そんな……」
「もちろん、家庭内であっても事件性のある犯罪が起こっていれば話は別だ。虐待なんかはその最たる例だ」
「だったら……」
「しかし、それには警察や児童相談所に訴える人間が必要だ。たまにひどい怒鳴り声がする程度の事で、誰も刑事事件の証人になったり、頭のおかしくなりかかった女の恨みを買うリスクを背負う気はなれなかったということだ」
翠は想像のつかない劣悪な環境に思いを馳せ、唖然とする。
「大した労力ではないでしょう」
茶花が能天気さすら感じる声で言った。
「とは言い切れない。法執行機関の人間でもない限り、大した労力なんだ。毎日必死になって働いて、帰ってきて自分のことをこなして、自分の家族の面倒を見て寝るのが精一杯。別にそれが悪いというわけではない。だが、そこから他所の家庭内で起こってるかもしれない厄介事の対処法を考えなくてはならん。なかなかに難しいぞ」
更に、不破は衝撃的な事実を告げた。実は、一年ほど前に警察に板白が身を寄せていた尾本家で暴力沙汰が起こっているのではないかと、通報した近隣住民がいたのだという。通報は匿名だった。そして、警察官が口実をつけて家庭を訪問したが、特に異常は見当たらなかった。
外見上、軽い聞き込みを受けた浩一の身体に、目立った傷は見当たらなかったからだ。そこで、様子見は終わった。つい先ほど、当時調査に赴いた警官から、分室のスタッフが直接話を聞いたのだという。
「しかし、それは外見上の話だ。板白を裸にするわけにはいかなかったからな。おそらく、見えない箇所を傷つけられていたんだろう」
翠は頬が引きつるのを自覚した。翠が被害者にこれほどまでの不快感を感じたのは初めてのことだった。不破が話を始めた時と比べて、指揮車両の中の空気は格段に重くなっていた。一方で、若き特務分室の指揮官は、あえて事務的な口調を意識しているかのように、淡々と続けた。
「そして、その後が大変だった。虐待の嫌疑をかけられた尾本澄子……浩一の叔母だな……。とにかく、そいつはすぐに報復に出た。彼女の主観で、自分を嫌っていると思しき隣人達に、「警察にチクったのはお前か」と尋ねて回った。今のはかなり柔らかく言ったぞ。しまいには、団地の共用掲示板に手書きで抗議文を貼り付けた。もう管理人が剥がしたそうだが、ひどい悪筆で「これ以上自分の名誉を傷つける真似をするなら、弁護士を立ててそれ相応の慰謝料を請求する」とのことだった」
「ソイツが怖くて、誰も板白に関わらなかったってことですか。で、ここまで大事になったってわけ?誰も、厄介者に関わるのはもう御免だった。だから、その問題は放置された」
椿姫が苛ただしげに話の先をまとめた。
「どうして、逃げ出さなかった、のかな」
ずっと押し黙っていた白翅が俯いたまま、問いかけた。
「すごく怖いなら、誰かに言えば良かったのに……」
「恐ろしすぎると、委縮してしまう人間もいるんだ。当然、そうでない人間もな」
「それってもしかして……逃げ出したらもっとひどい目に遭うからってことですか?」
「おそらくそうだ。尾本家の二人は板白浩一を恐怖で支配していた。彼の筆箱が団地の部屋で見つかったが、中からボロボロのカードが見つかった。それは虐待の相談窓口のホットラインのカードだった。そこにも問い合わせたが、彼がコンタクトをとった様子は無かった」
翠は耳を塞ぎたくなった。これ以上、悲惨な状況を聞き続けたら、自分がどうにかなってしまう気がした。怖くて使えない番号を、彼はずっと持っていたのだ。ボロボロになるまで。そこには、彼の涙が滲み込んだのだろうか。
「動機は?」
話題を変えるかのように、椿姫が切り返した。その声がまるで救いの手のように翠には感じられた。
「今回の学校の件……そして、一件目に殺されたチンピラ。二件目の親子。彼らはどう関係してくるのかしら?」
「判明しているものから述べよう。一件目。現場となったフロアの血液反応を、更に詳細に調べたところ、被害者たち以外の血液反応が出た。薬中どもの血と混ざって、ざっと調べただけでは分からなかったんだ。血を拭き取った清掃用品まで徹底的に調べた。そして、かろうじてとれたDNAと、椿姫ペアが奪った板白の腕のDNAを照合したところ一致した。一件目で彼は出血している」
「チンピラどもに何かされたのね」
「ああ。それが動機だろう。板白はその時点で認識票を持っていて、反撃のために使用した。それが最初だったんだ」
「二件目は?女の子たちは……」
「全く不明だ。親子連れとの接点は見当たらない。これは考えても無駄だ。そのため次に行くぞ」
「三件目。自宅。なぜ最初に殺さなかったのでしょう」
ふむー、と首を傾げながら茶花が後を引き継いだ。不破が即答する。
「今まで恐怖に打ち勝てなかったからだ」
「はい?」
「さっき言った気がするが、シリアルキラーの中には、自分を苦しめているやつをいきなり殺しにいかないことがある。例えば、米国では母親から不当に支配されていると感じた男は、最初に赤の他人を何人も殺してから母親を殺害した。はっきりとした動機は不明だが、おそらくそれで自信をつけたんだ。だから、板白も家族連れを殺した次に自分を苛め抜いたやつらに復讐した」
「憎い人を殺すための予行演習?」
だとすれば、二件目の被害者たちはただ本当に行いたい殺人の前座として殺されたのだろうか。だとすれば、あまりにも不憫すぎる。もしそうだとすれば、自分は。
尾本親子も、板白浩一もどちらも許す事ができないだろう。
「そのあたりは本人に聞くしかないわね。学校の殺人は?」
「こちらも不明。ただ、自分のクラスの人間を重点的に殺しているところを鑑みて、なにか揉め事があったのだろう。他クラスの人間も巻きこまれたがな」
事件が発生した後、他クラスや学年の生徒、教職員たちは何が起こっているのか把握できないまま逃げだしたらしい。そのせいか、事情聴取での証言は悉く食い違っていた。不審者が校内に乱入したと思っている者もいれば、防犯訓練だと思っている者もいた。わけもわからず、つられて逃げた者もいた。当然、浩一の存在を把握していない者が大半だった。
不破のダークスーツの胸元が振動した。不破が、捜査用のスマートフォンを取り出して、受け答えしている。
「板白浩一の両親がかつて住んでいた家を、地元警察と協力して調べてもらった。今のところ、誰かが立ち寄った形跡は無い」
「板白君は、そこに帰りたいのかもしれません……。だから、今はまだ帰ってきていないだけなのかも」
「ああ。引き続き張り込んでもらってる。また、近隣に狙撃手を配置した。奴が土地勘があるのは、東京よりも名古屋だ。潜伏しやすいだろう。念のため、愛知県警の警備部長にも話を通してみる。SATが呼べるかもしれない」
ブリーフィングを終えて、不破を除く一同は、車外に出た。気分転換のつもりだった。
パトランプを消した警察車両の側で、背広姿の分室スタッフたちが、私服警官達としきりに何かやりとりしている。
一口目以降、全く口をつけていなかったカフェラテに小さな唇をつけた。
「今、どのへんにいるのかしらね」
椿姫が誰にともなく、そう呟いた。
陽が沈んだ西の空を見上げた。
闇に包まれた空に一際大きく輝く星の真下で、小さな星が静かな光を放っていた。赤と緑の人工的なライトが、二つの星に向かっていく。衝突防止灯を灯した航空機だ。やがてそれは、星々の間を、割り込むように通り抜けた。
「一番、帰りたい場所だと思います」
「……誰にも見つかる心配がない場所」
「自分がもっとも好きな場所です」
「見事に割れたわね」
「本当に、割れてるんでしょうか?」
「どういう意味?」
聞き返す椿姫に、翠は自分の答えを返す。
「その全部かも」
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