第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case28
正面玄関を突破し、翠と白翅は静かに校内に脚を踏み入れた。防犯性の低そうな開けっ放しの扉を抜けるとすぐに、生徒用の下駄箱がずらりと並んでいる。驚いたこと、蓋が開けっ放しになり、中の靴が残ったままになっているものいくつもある。
「逃げ切れた、よね?」
問いかけるでもなく翠がそう呟くと、白翅が小さく首を傾げた。わからない、と言いたいらしい。あまりに急な事態に、靴も履く余裕すら無かったのだろうか。
ふと視線を落とすと、木製のすのこの所々に、赤い飛沫がかかっていた。逃げる負傷者たちの血ではないことを祈りながら、両手で保持した
人の気配が全く感じられなかった。
「一階、誰もいません」
『わかった。一一〇番通報が複数入ってきているところを見ると、生徒も教職員もめいめい勝手に退避したのかもしれないな」
「そういえば、椿姫さんが学校にかけた電話って、繋がりませんでしたけど……」
二階に続く階段の近くまで移動し、声の大きさを気にしながら、翠は続けた。
「職員室も無人でした。誰も残っていません」
『……今しがた、交番から情報が入った。凶行が行われた教室に様子を見に行った生徒が巻き込まれた件だが……その子は三年生だ。教室は三階にある。昇っていけば、途中で犯人と鉢合わせするかもしれんな」
「ありがとうございます。捜索を続行します」
「……確保したら、その後はどうすればいいですか」
白翅が質問する。
「拘束して、我々が来るまで待っていろ。気絶させていい」
「……はい」
返事と同時に、翠と共に、再び動き出した。二階に到達する。ここも一階と状態だった。
「何も感じない?」
「……なにも。殺意も、敵意も……。まるで、誰も、いないみたい……」
もしかしたら、犯人は既に逃げ出してしまったのだろうか。散らかったままの勉強道具、倒れたままの椅子や机が転がる教室を、順に外から覗きながら、翠はその可能性を考えた。もし、逃げだしたのなら。後続の白翅に視線を送る。
(次はどこに行くつもりなんだろう……)
三階に続く階段を登り始めた時、鼻につく鉄の匂いを翠は感じ取った。首筋にぞわり、とした感覚が生まれる。後方に向けて、ハンドサインを出し、階段を登り切る。右横の緑色のペンキで染められた鉄製の非常扉に姿勢を低くして背中を預けた。
そして、革靴の爪先が、非常扉の端を中心に弧を描くように移動し、体の露出を最小限にしながら、銃口を廊下の先に突き出した。拳銃を左手に持ち替えた白翅が同時に、翠と同じ方向に銃身を向ける。
昼下がりの陽が射し込む廊下を、中ほどまで進んだ場所に、人が何人も折り重なるようにして横倒しになって倒れていた。数は七人。
右手で握るグリップに思わず力がこもった。濃い緑色の廊下には、三人の体から流れ出した血が鮮やかに流れて広がっている。遠目に見てももはや、息をしていないのは明らかだった。
それくらい、犠牲者たちの体は、無残に引き裂かれ、無造作に転がされていた。怒りよりも、悲愴な気持ちに突き動かされながら、翠は足早に前進する。
だんだんと、転がる身体と距離が縮まり、ついに死体の一つが壁に頭を持たせかける教室の戸口に到達した。室内に踏み込んだ翠の隣に、跳躍するような動きで飛び込んだ白翅が銃を構えて肩を並べた。
壊れかけの人形のように、あらぬ方向に捻じれ、千切れかかった死体の山が血の匂いが充満する中、木の床に転がっていた。
教壇が前のめりにひっくり返り、近くには黒板に張り付いていたらしい、マグネット付きのストップウォッチが転がっている。黒板の隣にべたべたと貼られた職業体験のチラシは、見出しのフォント以外が赤黒く血で染められていた。
生者の気配の消え去った教室の奥の壁に一人の少年がもたれかかっていた。
微動だにしないその姿は、彼自身もまた死体の一つであるかのようだ。
しかし、真深く被ったキャップ帽の下から覗く目は、死者には持てない輝きを放っていた。
その目には混じり気なしの憎悪が滲んでいる。
「板白浩一くん?」
翠は問いかける。引鉄に指をかけたまま、目を背けたくなるような惨状と向かい合う。
「キミがやったの?」
学生証の写真で見た顔の口元がにたあ、と笑った。その上にある黒い瞳は全く笑っていない。瞳の中の表情は空っぽだった。そしてその笑顔もやはり空っぽだった。
「ピス……トル……?ぼくを殺したければ、殺せば良い」
ぶつぶつとつぶやく言葉の半分も、翠は理解することができなかった。
彼の後ろ頭の先にはちょうど窓があり、そこからはグラウンドが見渡せた。
この位置から、確認しようと思えば翠達と共にやってきた、移動中のパトカーを見ることができただろう。今は、南西の青空の下に影を投げかける別棟の死角に車両は移動している。
彼は警察の存在に気付いていたのだろうか。それとも、気づかないほど、この教室で殺戮に集中していたのだろうか。
「邪魔するなよ。邪魔するなと言ってるんだ。誰なの?こいつらをあんた達、助けに来たの?こいつらを!助けに来たのか! 」
急に浩一はなにかに憑かれたかのように、歯を剝いて激昂する。
「落ちついて」
翠は言葉を絞り出し、懸命に落ち着かせようとする。
今までも同じようなパターンはあった。けれど、今回はまだ情状酌量の余地がある。
「お願い、投降して。もう充分でしょう」
そうだ。充分のはずだった。なぜならもう遅いのだから。少年は全てを破壊してしまったのだから。自分と深く関わらなかったけれど、害意をぶつけてきた理不尽な他人。
それ以上に理不尽な叔母親子。
そして、彼に何もしなかったはずのショッピングセンターの親子。そしてクラスメイト達。交番での聞き取りによると、翠たちがいる、三年C組は、板白浩一が在籍しているクラスだった。
これ以上にないくらいのオーバーキル。少年の行った凶行の苛烈さから、どれほどの怒りを彼が溜め込んできたのかが伝わってくる。が、それは彼だけの力ではない。黒幕である何者かから与えられた暴力だ。それさえなければ。
「解除して。もらったんでしょ……?タグを」
「充分……?」
じゅうぶん、じゅうぶん、と少年が呟く。何度も何度も。
「そうだね……殺したい人はいないんだ……だってだってみんないなくなっちゃったんだから」
外見より幼い調子の声がやがて返ってきた。
どことなく、涙声のようにも感じられる。
「けどね、なんでかなあ。ぼくは、捕まっていいと思ってたはずなのに。なんでかなあ」
俯いていた顔があげられた。そこには憤怒がはりついている。歯噛みした唇に、怒りに燃えた黒い瞳。大きなどんぐり眼には憎悪しか映っていない。
「頭がずきずきするんだ!痛くて痛くてたまらないんだよ!」
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