第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case26
扉に手をかけると、微かなざわめきが伝わってきた。
ガラン、と音を立てて教室の引き戸を引く。自分がさっきまで動かしていた足と同じ速度で。ゆっくり、ゆっくりとした動きで。
髪の薄くなりかかった額の広い顔がこちらを向いた。
教壇の前に立つ教師は、一瞬、驚いたような呆れたような顔つきになって、こちらを見返してくる。
今は帰りのホームルームの時間だ。時計を見たわけではないが、教室の様子からそれが理解できた。見渡すまでもなく、教室の前の入り口からは、座る生徒全員が視界に入った。
教室の中は水を打ったようにただ静まり返っていた。
怪訝そうな表情を浮かべる者、しばらく反応を見せなかったが、急に不快そうに眉をひそめる者、ひどく興味なさげに、関心をろくに払おうとしないもの。
そして、真ん中の二列目とその斜め後ろ。一番後ろの席の左側。出口に近いところ。見知った顔の少年たちが、座っている。全部で三人。腕組みして睨みつけて、半笑いで、頭を手の後ろで組んで座って、そして、眼鏡の奥の目を不快そうに細めて。
なんで来たんだよ。そう言っているように聞こえた。三人が三人とも、三人の言い方で。浩一が学校に来れなくなった、主な原因が弧の三人だった。三者三様のやり方で自分を痛めつけたせいで、自分はさらに痛い目にあうことになったのだ。叔母に付け入る隙を与えてしまうことになったのだ。
頭の中が熱い。ぐつぐつと頭の奥からマグマが湧き出してくるように、熱くて痛い。
数学を担当する担任教師は、への字に近い口の形をして、そこから声を発した。
「坂白、か……?なんで今来たんだ……?何考えてんだいったい」
浩一は数学教師の顔を凝視する。彼はひどく不快げだった。それも当然かもしれない。担任が見て見ぬふりをしたいのは、複数いるいじめっ子よりも、単数のいじめられっ子のはずだからだ。
「…………ぼくが」
ようやく声を絞り出す。頭の中が熱くなっていく。燃えるように熱くなっていく。
「…………ぼくがいなくなったと思ってるんでしょう?」
ざらざらに乾燥した声が喉の奥から流れ出す。あ、だめだ。
「いるよ、いるよここにいるよ」
視界がゆがんでいく、真っ赤になっていく。目に映る大人と、子供たちの姿がぎゅるぎゅると歪みだす。
左右のこめかみを、掌で抑えた。
「き、きききっききききききききききき」
どこからか奇妙な声がする。それは自分の耳のすぐ近くで鳴っていた。
視界がブラックアウトする。足元から、何かがべりべりと音を立てて突き出してくるのが、見ないでも分かった。教室の窓に近い端から、戸惑ったような叫びが上がった。
獣のような咆哮が、浩一の喉を突き破らんばかりの衝撃で飛び出した。
全身の筋肉が引きつり、頭痛が頭の先から全身を駆け巡った。その痛みにせかされるかのように、浩一は飛び上がり、頭の奥の熱に従って、教壇に向かって踊りかかった。
奇妙なことに、自分が上げた声そっくりの咆哮があちこちから上がり始めた。頭の先から、生暖かい何かが降り注ぎ、それらの感触が彼に奇妙な高揚感をもたらした。
力の限り手足を振りまわし、骨が砕ける感触を、そして、自らが手足を使わなくとも、勝手に弾けていく、飛び散る肉の感触を、顔や手足の感触で味わった。
叫び声以外の声が聞こえた気がして、目を開けた。おそるおそる、ゆっくりと。教室の中は、目を閉じる前と同じく。真っ赤だった。どたばたと複数人の足音がして、やがてそれが、ふっと消えた。
「え……、なによ、なんなの」
「うそ、……!」
「う、ううううううううううう!」
口々に様々な叫びが、頼みもしていないのに耳に入ってくる。
浩一は首を後ろに回して、赤くない視界を目に入れた。
「尾本家の団地のドア、および窓の隙間から、砂状の道路堆積物が見つかった。廃ビルやショッピングセンターの下手人と、同一犯と考えて間違いない」
慌ただしい口調で、後部座席ごしに不破が鑑識結果を伝えてくる。
嫌な予感がする。背中に滲んだ冷たい汗が、緊張した空気でより一層冷たくなった。
通信が無線機にひっきりなしに飛び込んできていた。不破の新しいSUV車は翠達を乗せて、百キロ近い速度で高速道路を飛ばし、並走する車をどんどんと後方に追いやっていく。やや蛇行しながら進むオートバイをさらに大きな動きで躱し、不破がアクセルを踏み込んでスピードメーターをさらに跳ね上げた。
「電話、かけ続けていますが、やっぱり出ません!」
「交戦に備えました!」
「……わたしも」
「右二人に同じなのです」
翠の叫びような応答に、白翅と茶花が共鳴する。容疑者の所在が分からない状態で、この状況は何かがあったと考えるには充分だった。
というのも、翠の経験上、職員室に人が一人もいなかったことは無かったからだ。
休校でもない限り、教師は居なくても、事務員はいるはずだった。椿姫コールしては切り、を繰り返すこと十五分。未だに電話を取るものはいない。
団地前から、最短距離のルートを辿ってSUVは道を急いでいた。
『こちら分室。清水です』
分室専属のスタッフである、清水巡査部長の声が車内に割り込む。努めて平静を装っている、そんな調子の声だった。再び、不破以外は無線に遠慮したかのように沈黙した。
「不破だ、どうした」
『通信指令本部からです。複数の一一〇番通報が入っています。時間はすべて三分以内。場所は……』
その先の答えが、聞かなくても分かる気がした。
『尾本……
血まみれ、という言葉に誰も無言で反応した。無線の向こうの慌ただしさが、より一層大きくなり、緊迫した状況がより鮮明になって伝わってくる。
バックミラーが、不破の険しい眼差しを映し出し、舌打ちをこらえるように唇を噛みしめるのが見えた。
やがて、車は高速を降り、住宅や小さなビルの立ち並ぶ区画へと、エンジンを走らせた。
「敵の能力はまだ判然としていない。思わぬ形で不意を突かれるかもしれん」
バックミラーに映る切れ長の目が、一瞬SUVの後方に向けられる。
「できるだけ多くの装備を詰めてきた。現場についたら即時行動に移るんだ、いいな」
「了解」
敵は……板白浩一はおそらく異誕生物としての能力を使える。自分たちと同じように、超常のスペックと人の身を併せ持つ。
ただし、自分たちとは違って、おそらく、何者かから、悪意を持った何者かから与えられる形で。
現場まで、もう三キロメートルも離れていない。自分たちのスペックを持ってしても、
その距離をショートカットすることすらできないのがひどくもどかしかった。
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