第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case24
頭上から、荒々しい日光が降り注ぐ。歩く歩道には、緑の陰が落ちていた。
正気が遠のいていく。どんどん頭の中がぐちゃぐちゃになり、狂気が渦を巻いていく。寝不足になったように、気分が悪い。徹夜した時ではない。
二、三時間だけ睡眠をとって、そして眠るための場所がないからいつまでも不快な気分が付き纏ったまま。そんなイメージだ。ずっとずっと、無意味に苦しい。
住宅地と、商店街を抜けた先にある、広い歩道。板白浩一にとっては久しぶりに歩く道だった。今の彼は何ももっていないはずだった。家族写真も本も、破かれて捨てられてしまった。実家から持っていけたものは何もない。失意のあまり、自分の私物にはほとんど興味を無くしてしまっていた。
それなのにやはり、体がひどく重い。
どうして、こんなことになってしまったんだろうと、浩一は考える。
両親が失踪してから、彼は叔母とその母親の家に引き取られた。
当時、彼の扱いはよくも悪くもなかった。むしろ、叔母の澄子は機嫌よさげにしていたように思える。当時、彼女は新しい業種に転職を果たしたばかりで、未来に対して希望を持っていた。
その母親である信代との会話から、彼女はあまり要領は良くないが、まじめな人のように感じられた。浩一も、両親を失った苦しみを忘れられるような気さえしていた。しかし、そんな日々は長く続かなかった。
澄子は三度目の転職先を解雇されて以来、すっかり働く気力を無くしてしまったようだった。その後は役所の援助を食い潰している。
そして、ハローワークに通っても一向に改善しない状況に対する苛立ちはすべて浩一に向けられるようになった。彼は、家庭の中で一番弱いものだったからだ。
些細な事で暴力を振るわれる日常が続いた。浩一は突然向けられた悪意にただただ戸惑うばかりだった。
『こんなことするなら……どうして僕のことを引き取ったの?』
そして、そんな浩一に澄子は言い放ったのだ。彼を引き取った本当の理由を。
『決まってるだろ。あのバカ姉の息子が、どれだけみじめったらしくなってんのか、毎日見てやりたかっただけだよ』
『いつもいっつも金持ち自慢してきやがって。ムカついてんだよこっちは」
『そしたら、勝手に失敗していなくなってやんの。今頃どこで首吊ってんだろうね。とんだセレブ様だよ』
激しい怒りに駆られて、殴られた頬が痛むのも構わず立ち上がろうとすると、腹に前蹴りを食らわてきた。
『何しようとした!何しようとした今!お前は今……』
何度も何度も頭を踵で蹴られる。意識が遠のいていく。
『誰のおかげで……この家に住めてると思ってるんだ!』
受けた痛みが鮮明に蘇ってきた。一気に。まるで嫌な感情をすべて取り立てようとするかのように。
マンションに挟まれたひどく狭い道を抜けていくと、急に既視感に囚われた。
自分はこの道を知っている。
住宅地に突然現れたようなところどころ窪みのある坂道。ゆっくりゆっくりと昇っていく。
集団に所属する者は、自分たちと違う者を敏感に嗅ぎつける。そして、そいつが弱いと気が付くと、嘲笑と迫害が始まる。
引き取られた後は、当然学校も変わった。新しい公立中学校には初めからあまり馴染めなかった。前と環境が違いすぎるからだ。そして、状況は彼が虐待を受け始めた時から、もっとひどくなった。
周囲はあちこちに痣や擦り傷を作り、いつも何かにおびえている浩一を嘲笑するようになった。
体育の授業中に、叔母に強く脛を蹴とばされたせいで、痣になっている箇所を見られたこともあった。
『どうしたんだよ、それ』
『えっと……』
答えられずにいる浩一に、学年で成績のいい子が半笑いで寄ってきた。彼は、入学直後の期末テストで、浩一に成績を負かされていた。
『まあ、授業出れてんだから大した事ないだろ』
そして、痣の所を強く蹴とばされた。膝を抱えてあまりの痛みにうずくまると、その様子がおかしかったのか周囲で笑い声が上がった。
『あのさあ、大げさにするなよ。毎日しょぼくれたツラしてさあ。俺たちも暗い気分になるんだよ。そんなことくらい想像つかねーの?バカなのか?』
『同情して欲しいんだろ。だってこいつボッチだもん』
また、学校に行かなくてはならないのだろうか。嘲笑と悪意しか待ってない場所で。そう思って、学校には行かなくなった。
坂道を登っていく。クラスの子たちは今、何をしてるのかな。
ただただ憎らしくなっただけだった。自分が苦しんでいる間も楽しく笑って。自分が空きっ腹を抱えている間は、楽しくご飯が食べれている子達が。自分のことも楽しく笑っているのかな。そっか。そっか。
良いわけがないだろう。思い知らせてやる。自分がどれほど苦しかったのか。自分達が見向きもしなかった僕がどれほど苦しかったのか。全部全部思い知れば良いんだ。
死にたく無い。死んでしまえばいい。自分がこんなに悲しくならなければいけない世界にいる事が悲しかった。自分がいる世界がこんなにも悲しい物になってしまったことが悲しくて悲しくてたまらなかった。
校門の前に到達する。コンクリートの塀の近くには、初老の痩せた警備員が立っていた。彼の後ろの門の奥には、砂色の校庭が広がっていた。
「おんやあ、君!久しぶりだなあ!」
笑顔で挨拶された。おはようございます、と掠れた声で挨拶した。
彼には見覚えがあった。何度も朝挨拶した事がある。初めてこの学校に来た時も、「見ない顔だなあ。転校生かい?」と声をかけてくれた。
「もう昼だけどなあ、かはは。どうした、今日は遅刻か?体調悪いのか?」
「はい。……そんな感じです。そろそろ、通おうと思って。……風邪も治ったし」
「そっかそっか!いやあ、最近見ないから、てっきりまた転校したのかのかと思っとたよ!先生も、今度の転校生は真面目だって言っとったからなあ!治ったから、途中で来たのかい?」
「……はい」
「なんだ、なんだ。やっぱり真面目な子だ!よし、気を付けていきなさい!」
校門のカギを開け、初老の警備員は浩一を送り出すように手を差し出した。
一礼し、すたすたと足早に校庭に脚を踏み入れる。早く先に進みたいのに、相変わらず足取りは重かった。
「気をつけてな!きっと、クラスの子たちも心配しとるよ!」
返事はしなかった。そして、振り返ることも無かった。
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