第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case23

 新たな事件の現場となったのは、二件目の現場からそう離れていない集合団地だった。郊外近くだからか、近くには緑も多く、空は青い。

 しかし、それが風景に彩りを与えているようには感じられなかった。

 滑るように走る、不破のランドクルーザーは、広さの割にはがらがらに空いている駐車場に乗り入れ、消防活動用の空きスペースでタイヤを止めた。


 目の前の団地は六階建てで、全体的にくすんだような印象が拭えない。

 そして、背後には九階建ての比較的新しい別棟が建っていた。

 広めの駐車場を挟むようにして、翠達の前後に遮蔽があるため、急に日当たりが悪くなり、それが不吉なムードを加速させているかのようだ。

 まるでこのあたりの建物全体がツキに見放されたかのようにも思える。


 正面玄関から入館すると、すぐ横の壁に設置された大きな掲示板が目に入る。


 自治会から回答や広報集金日の薄汚れた張り紙に交じって、夜間工事のお知らせの紙だけが新しかった。


「何よこれ?これじゃ乗れないじゃない」


 すぐ隣にあるエレベーターはとても小さく、二人が乗るのがやっとといった広さだ。

 茶花が人差し指を突き出すと、胴体を突いて、椿姫の注意を引く。


「あっち向いてホイ」


 椿姫が髪を揺らして、左を向いた。茶花の指は上を指している。


「むー。茶花の負けです。翠達と分室長はこちらへどうぞ」

「ありがとう。って、私たちの代わりに今、椿姫さんが勝負したの?」

「私はいいよ。階段で行く」


 唇を尖らせながら、茶花はエレベーターの方へ手を差し出す。

 翠は控えめに苦笑して、白翅を招いた。


「勝手に権利を賭けないでよね」

「さあ、階段へダッシュダッシュ」


 仲間達の声を尻目に、エレベーターで五階を目指す。

 中は本当にきつく、翠は小さな体を、懸命に縮こまらせた。白翅とはほぼ全身が密着している。文句一つ言わず、白翅は壁にもたれている。埃まみれでろくに手入れもされていない息苦しい空気に、微かな違和感の匂いが紛れ込む。


 異誕生物となった人間が残した気配が上に行くに従って濃くなっていった。

 廊下を降りて、すぐの角部屋のドアが開いており、正面から張られた『尾本』と記されたネームプレートが見えた。

 歩いてすぐのコンクリート製の共用通路には、血が滴った痕跡がまだら模様となって残っていた。漂う匂いも酷い。


 靴に持参したカバーを付けて、入り口から室内に踏み入った。廊下の床にも現場保存用の保護シートが敷き詰められている

 三和土には、女性ものの古びたスニーカーが脱ぎ飛ばされたように転がっていた。

 焚かれたカメラフラッシュが、ひどく細い廊下に反射し、室内の鑑識課員の存在を告げている。

「……?」


 翠達がいる三和土から、四メートルほど先にある居間にはドアがついておらず、板の間に何かが破片をまき散らして転がっていた。進んでいくと、その正体が分かった。長方形のテレビ。その後ろにある扇風機は白い本体が真っ赤に染まっていた。


 角を右に曲がると、翠は思わず息を飲んだ。居間中の家具という家具が、めちゃくちゃにぶちまけられている。

 まるで、この部屋を中心に爆発でも起こったかのようだった。

 扇風機と窓に掛かる半開きのカーテンだけがたまたま攻撃を逃れたらしい。

 曲がった角の先に、横倒しにされた椅子の下敷きになった遺体一つ、目に入った。遺体はまだ運び出されていなかったのだ。

 顔は見えないが、伸ばされた手の皮膚の皺から、初老には差し掛かった女性だろうと見当をつけた。

 千切れた椅子の脚を、白翅が飛び越えて器用に避けた。


「奥にもう一人いる。見るのはおススメしないが」


 反対側の壁に背を持たせかけるようにして、ごま塩頭の刑事が忠告してくれた。

 翠は彼に見覚えがあった。確か本庁の矢島という係長だ。不破と捜査活動を何度か共同で行っていた。


「お疲れ様です」

「こんにちわ……」


 頭を下げると、矢島は見慣れないものを見るような目を白翅に向けた。

 戸口のあたりから、押し殺した足音共に、不破を先頭に、茶花と椿姫が臨場してきた。


「被害者はこの家に住む尾本信代と、娘の尾本澄子。父親はとうに離婚していません」

「聞き込みの結果を聞いたのですが、この家族もう一人いるそうですね」

「ええ、まあね。ですが、今は行方知らずです」

「連絡がつかないんですか?」


 尋ねる翠に、矢島が首を横に振る。


「突然いなくなっちまったってのが正しいかな。家中探したが、写真が一枚も出てこねえ。板白浩一っていう男の子らしい」

「苗字が違うんですか?」

「親戚だよ。尾本澄子の兄貴の子供。ただ、父母に不幸があって、ここに引き取られてらしい。これは役所の情報だけどな」


「この二人は……?お母さんとお婆さんじゃないの?」

白翅が声に驚きを滲ませた。


「……さらわれたんでしょうか」


 口をついて、思わずそんな言葉が出た。別室に続く部屋の奥をじっと見つめていた白翅が、静かに振り返った。

 それには答えず、矢島は顎を小さく搔いた。しばし沈黙した後、どうかな、と小さく漏らす。


「翠、おそらくそうじゃないだろう。矢島さん、かなり問題のある家庭だったらしいですね。ここは」

「そうなんですよ。近所の連中の証言では、日頃からうるさいのなんのって……」

「どういうことですか?」

「詳しくはもう少し調べてからだ」

「今まで殺すだけだった犯人が急に一人だけ攫うっていうのも変な話ね」


椿姫がそう言った直後、薄い壁を伝って、複数の人の気配がフロアに入ってきた。

 やがて、担架とカバーを抱えた隊員たちが入室し、鑑識員の指示を聞きながら、二手に分かれて、遺体の収容作業を開始した。


 検証を一通り終え、翠たちは再び共用通路へ出る。早く検証結果が聞きたかった。そして、奇妙に歯切れの悪い不破たちの態度に嫌な想像が翠の中で膨らんでいた。

 通路の手すりの上からは、団地の他の棟が並び立つのが見えている。水色の空には、さっきと比べて雲が増えていた。


 消防活動用空地の地面に記されたスペースに止まった白いバンの中に、隊員たちが担架を運び込んでいる。

 敷地の外にも中にも、パトランプを点滅させた車両が点在し、異常事態が起こってることを告げていた。


「あ、」


 正面に立つ、九階建ての団地。そのすぐ左の塀の向こうにいくつも道路を隔てて、見覚えのあるショッピングセンターが目に入った。

 二件目の現場となった場所だった。そして、その駐車場も。立ち入り禁止のテープはもう外されたらしく、駐車スペースには多くの自家用車が停められている。


「あんなに近いんだ」


 誰にとも言わずにそう呟いた。

この家から見える位置にある場所に、重要参考人となった『キャップ帽』も頻繁に通っていたのだ。


「……この家に住んでたら」


 白翅が隣で景色を眺めながら言葉を紡いだ。


「……毎日通えるね」

「……うん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る