第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case19

 興味もないような本を読むのは苦痛だった。それでもなんで読んでいるかというと、好きな本を読んでも少しも楽しくなかったからだ。

 楽しくないのと反対の事をすれば面白くなるかと思っていた。けれど、実際は違っていた。

 板白浩一は、書店の新で時間を潰していた。新生活を始める上で必要なライフハックについての本だった。耳障りのいいことばかりが書いてあって、これを書いている人は苦労したことがないとしか思えなかった。


 楽しくないのに、おそらく自分にはなんの必要もないのに読み続けた。

 こめかみの辺りがひどくきな臭く、強く掴まれているかのように、ひどく頭の後ろが苦しかった。何かに集中しなければならないような気がしていた。焦りばかりが募るけれど、何もできない。


「あー!」


 不意に後ろからかけられた声に思わず飛び上がりそうになる。

 いつの間にか、声の主は隣に移動していた。少し日焼けした、元気そうな女の子。サクランボの髪飾り。


「この前のお兄ちゃん!」


 思い出した。この前、ショッピングセンターを出ようとした時にぶつかった女の子だ。手には一冊の児童書を持っていた。フリルついたアニメタッチの女の子と、探偵帽子を被った女性が描かれている。


「ああ……うん。久しぶりだね」

「うん!お兄ちゃん、なにかご本買うの?」

「いや、どうかな……」


 なんと答えたものかと迷っていると、その子の後ろから軽装の女性がゆっくりと歩み寄ってくる。その女性にも見覚えがあった。あの時、女の子と一緒にいた。


(あの時、っていつのことだったっけ?)


 頭の中がひどくぼんやりする。女の子は、急に黙ってしまった浩一を不思議そうに見つめ、小動物のようにきょとんとした様子だ。


「美佳、買う本決まった?あ……この前はごめんなさい」

「いいえ……」

「お兄ちゃんも、ここで何か買うんだって!」

「あら、そう。ところで、美佳の本はそれでいいの?」

「うん!これがいい!」

「三巻、って書いてあるけど……」

「いいの!この絵が気に入ったの!」


 表紙を得意げに指差して、女の子は弾けるように笑った。

 ふと。胸がひどく苦しくなったような気がして、けれどその原因が分からなくて、浩一は思わず両手で頭を抱えた。そして、そのまま足早に歩き去る。視界の端に。怪訝そうな母親の姿が映った。


 不思議だ。まるで、何かとても大事なことをやり残しているような気がする。忘れていてはいけないことを忘れたまま、その中身をあえてずっと見ないようにしているかのような。その奇妙な気持ちの悪い感覚のせいで、息が詰まりそうだ。

 浩一はトイレの個室に駆け込んでロックをかけた。まるで、胸の真ん中だけ血の巡りが悪くなったかのように息苦しい。自分の呼吸を苦しめているものを吐き出そうと懸命に深呼吸する。個室を出て、楽になっても、自分は何の得もしない。

 この先、嫌なことしか待っていない。また帰ったら殴られるだろう。でも、それがなんだというのだろう。だって、たかが殴られるだけじゃないか。だから、大丈夫さ。

 浩一は思わず、首を斜めにした。

 ……どうして、たかが、なんて思ったんだろう。それはとても辛いことだったんじゃないか?そう、つい最近まで。

 体感時間で三十分ほど経過したころ、ようやくトイレを出た。

 広いフロアを突っ切って、足早に広いフロアを横切り、入り口に向かう。


 限界だった。深呼吸しても、少しも楽にならず、どんどんと息苦しさが強くなっていった。外に出れば、少しでも呼吸がしやすくなると気がしていた。二階までエスカレーターを乗り継いで、到達する。

 二階は園芸品売り場になっており、一階の玄関近くまで、外に向けて張り出したエスカレーターで降りれるようになっていた。

 時刻はまだ昼間だった。平日のこの時間帯だというのに、意外に家族連れが多かった。さっきの女の子は、小学校か幼稚園がお休みなのだろうか。

 ふと、下に視線を向けた。浩一の視線は、そのまま動きを止めた。

 サクランボの髪飾りの女の子が、その母親と談笑していた。そして、女の子のすぐ傍らでは、日焼けした背の高い男性が白い歯を見せて何かを答えている。

 何を喋っているのだろう。ここからでは離れているせいで聞こえない。けれど、きっとすごぐ楽しいことなのだろう。ふと、浩一は自分がさっきよりもずっと息苦しくなっていることに気がついた。どうしてだろう。何が自分はそんなに嫌なんだろう。


 つい最近も、こんなことあったな。いや、違う。もっとずっと前だ。僕がここに来るずっと前。

 まだ浩一の両親が彼を大切にしてくれていた頃。家族で服を買いに百貨店に行った。嫌なことなんて一つも起こらなかった。

 食堂のランチを食べて、新発売のゲームを買う約束をして、それから……ただただ楽しくて、浩一はずっと笑っていた。帰りに美味しいソフトクリームを買った。二つ。浩一と、母の分。父は買わなかった。

 父は経営していた会社での仕事が落ち着いてきたから、あまり出歩く必要が無くなり、体重が増えていたため、甘いものが苦手になっていたらしい。


『ん-!でもおいしいよ、ほら、パパも!』

『いいよ、それにこの年でそれは恥ずかしい』


 母はまるで、若いカップルがするように、プラスチックのスプーンでアイスを掬って、父に差し出した父は照れたように笑ってそれを遮る。

 その様子が面白くて、浩一はふざけて、「じゃあ、僕のをあげる」

 と同じようにスプーンを父に向けた。父がそれを口先で咥え、髪をくしゃくしゃと撫でてきた。


『ちょっとー!なんで浩ちゃんはいいの?』

『男同士の方が恥ずかしくないもんな!浩一!』

『うん!だよね!』


 そして、三人で笑い合う。明日の学校で、家族の話ができるのが、楽しみで仕方がなかった。


 目の前の三人が笑い合う。自分の家族と同じように笑っている。

 もういない、浩一の家族。目の前の三人と、今はたった一人でいる自分自身が否応なしに彼の欠落を浮き彫りにする。


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