第十六話 ゆりかごを揺らす刃 case1
星一つ無い夜のカリブ海は、まるで夜空を鏡写しにしたように黒く、水平線の彼方まで闇に包まれていた。
漆黒の海面を二つにかき分けて、一つの輸送艇が姿を現した。
十メートルを超える鋼色の船体は、角ばった巨大な鯨を思わせた。
ざあざあと海水が船体から滑り落ちては、再び海に飲み込まれていく。この地点は沖から遠く離れ、輸送艇の設計にエンジン音を抑制する技術が組み込まれて事もあり、誰も船影を認める者はいなかった。
やがて、流れるような動きで、四つの人影が甲板に姿を現し、手際よく硬質ゴムボートを一隻、海面に降ろす。そして、一人が手にした小型トランシーバーで号令をかけた。
出発準備ができた知らせを受けて、船室のドアが音もなく開いていく。
暗闇の中を現れた複数の黒い影が船から落ちていき、ゴムボートの硬い床に着地した。
甲板の上から、防水袋が人数分投げ落とされ、ゴムボートの乗員たちが荷物をキャッチする。
『海賊はどうやら絶滅したらしいな』
『情報によれば、この辺りは滅多にその手の輩はいない。穴場だからな』
『じゃあ、これはいらないんじゃないのか?』
『念には念を入れている。離れている間に、何がどうなっているかはわからんものだよ』
これ、というのは船体のマウントに搭載された兵器のことだ。
弾丸をフルに装填したM2重機関銃にM60軽機関銃。
今は内部に収納してあるが、万が一不測の事態があれば、即座に相手を射殺できる代物だ。
『それはそうだ。夜明けまで一時間。この距離なら時間通りに着くはずだ』
トランシーバーを介した声がそう告げる。
わずかに中欧訛りのある英語だった。
親しみがあるようで、愛想の欠片もない、事務的な口調。彼自身がそういう人間なのを通話相手も知っている。
『……ああ。この土地も大きく変わった。だが、地軸の傾きは変わらん』
『前にも来たことが?』
『かなり前になるな。このルートは使わなかったが』
『へえ。この辺には俺は詳しくなかったが……それじゃああんたに現地でガイドをやってもらうのもアリかな』
『断る。お前は自分の仕事を忘れているな。お前は雇われている側だ。今はこの私に。それに、私はこの土地がそう好きではないんだ』
『長居はしたくないか。ほんと冗談が通じない人だ。オーケー。じゃあ、ご無事で。迎えの時間、前後するようなら言ってくれ』
じゃあ、どんな土地が好きだっていうんだ?とかすかに呟く声を、通話相手は聞き逃さない。隣にいた小柄な影が、けらけらと笑った。笑い声が海面に酷く不気味に静かに響き渡る。彼女にとって、土地は好きになるものではなかった。
そこに自分がいるために存在しているもの、ただそれだけのものだった。
『調達屋はなんとか準備を終えたとさ。安心してくれ。通信終了』
「信頼している。通信終了。速やかに撤収せよ」
通話を切り、彼女は海よりも暗く深い目でじっと装甲輸送艇を見上げた。
輸送艇はやがて、ディーゼル機関の押し殺した駆動音と共に、再び沖を離れていった。
入れ違いに、ゴムボートが発進する。
「ボクは初めてだなあ」
人懐っこく、それでいて妖艶な笑みを、小柄な影が浮かべた。白い歯が、闇の中に光る。それだけがぼつん、と夜に浮かんでいるかのように。
「どんなところなのさ。メキシコって」
「雑然とした土地だった。今は知らんさ」
つまらない思い出だけが彼女の中にはあった。刺激的ではないが、起こったことは全て覚えていた。つまらないというのは、ただ歯ごたえがなかったからだった。だから好きではない。
「今回も順調にいくかなあ?」
「多少のイレギュラーはあってもいい。どのみち問題にはならん」
「だよねえ。だってボクたち最近はイレギュラーなことばっかりだろ?」
「その通りだ。だがそのたびに乗り越えている」
「だけど、今までとは違うだろ?今回の事業はさ」
小柄な影が、アルミニウムの平底の上で優雅に踊った。バレリーナのような華麗な動き。凹凸は少ないが、スタイルの良い身体は、潜水服の上から首掛け式のライフジャケットを身にまとっていた。
「違うだろ?とってもとっても」
「『刺激的』なんだろう」
「さすが!よく分かってる!」
「そろそろだ。支度しろ」
「いいぜ。そっちはボクが分かってるよ。まったくノリ悪いなあ」
けらけらとまた笑う。長い付き合いだが、相棒の笑いどころは相変わらずよくわからなかった。
海岸が近づいてくる。このまま予定よりも早く着くだろう。
訓練された動きで水中呼吸装置を身に着けると、彼女を先頭に、影が次々に立ち上がった。
夜に冷やされた黒い海へ飛び込んでいく。波間を通り抜け、浜を目指して、泳ぎ始めた。
五つの影を、夜の闇が再び包んだ。
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