第十六話 ゆりかごを揺らす刃 case2

『人を切り刻んだり、殺したりする事で利益を得る者。それが私だ』

————————アンドルー・アンダーシャフト





「いくよ……」

「いつでも……」


 昼休みの教室には、緊張した空気が漂っていた。正確には、翠達が座る教室の真ん中近くのスペースだけだ。

 翠に向かいあって座っているのは、薄茶色の円らな瞳の同級生、秋野由香だ。

 その隣には自分たちの友人である佐原雫が、長い黒髪に手をやりながら、困ったような表情を浮かべている。そして、翠のすぐ隣の席に座る天悧白翅は、相変わらず無表情だ。


 全員が、くっつけた各々の机の上にある答案用紙を見つめていた。今は裏返してある。


「「せーのでっ」」


 勢いよく一斉に白い紙がめくられた。その結果は……


「よしっ!」

「なんでよ!」


 翠が胸の近くで小さくガッツポーズすると同時に、由香がガバッと頭を抱え、大きめの声で叫んだ。

 めくられた答案用紙は、英語の小テストだった。小テストといっても、設問の多い抜き打ちテストで、100点満点の者だ。翠が95点。由香が82点。雫が89点。白翅が83点。


「静かにしてよ、由香」

「……あ、負けてる」


 雫がたしなめるのと、白翅が声を出したのははぼ同時だった。


「負けてるって言っても、翠ちゃんにでしょ……」


 恨めしげな視線を、頭の髪飾りの位置を直しながら由香がほかの三人全員に送っている。由香は知り合った頃から、芝居がかったようなリアクションの多い子だ。

 でも演技ではなく、この子の素はだいたいこんな感じなのだということを、翠は良く知っていた。


「このままじゃ、国語の女帝の翠ちゃんに英語でも負けちゃうじゃん」

「もう負けちゃってるじゃない」

「あたしが認めないと敗北になんないの」

「……そうなの?」

「うん、あたしが今決めた」


 由香は机に突っ伏したままだ。翠は国語の成績が良く、何度も満点をとったことがあった。由香も文系科目が非常に得意だが、英語の成績は翠とほぼ互角であることが多かった。現代文、古文で勝てないと悟った由香は、それ以外の科目でよく翠と張り合ったりしていた。別に勝ったから何かが得れるというわけではない。ただ、由香は勝負をよくしたがった。演劇の大会では審査員が点数を付けてくれるのが好きらしい。

 結果が分かりやすく見えるのが彼女は好きなのだろう。なんでもはっきり言う由香らしかった。


「なぜだあ……なぜ、四人の中であたしが最低に……」

「由香さんはいっつも頑張ってるから、今回は、うん、きっと調子が出なかっただけだよ!伸び悩むことってきっとあるから!」

「きっとあるからっていうセリフは……伸び悩んだことのない者のセリフだよ!」


 由香はがばっと起き上がると、翠に飛びつくようにして抱き着いてきた。


「なんでよ!なんでバイト戦士の翠ちゃんがあたしに勝てて、部活戦士のあたしが勝てないのよ!」

「くすぐったいよ、ほっぺすりすりしないで!」

「いや、する!もうこうすることでしかあたしは悔しさを表現することができない!」

「由香、他人に迷惑かけるんなら、表現者やめなさいよね」


 白翅が困ったような顔つきで翠に視線を送っている。翠も困ったように笑ってみせた。

 椅子から立ち上がった雫が、凛とした目を光らせて力ずくで由香を引き放す。


「ああっ、翠ちゃんの養分が吸えなく……」

「気持ち悪いこと言わない!」

「……養分?」

「点数が上がりそうじゃん!分けてもらえば!」

「はいはい!他人のを奪わずに、勉強して滋養をつけましょう!」

「勉強して滋養がつくなら、貧乏な国の人たちは飢えてないわい!学校があっても飢えるものは飢えるんだって!」

「切実な問題だね……」


 あはは、と思わず笑ってしまう。ふと視線を送ると、白翅がつられて口元を緩めていた。

 クラスの子たちとお弁当を食べるのは本当に久しぶりだ。不安なことなんて、何も頭に浮かばない。持参した弁当は白翅が作った焼き魚の弁当だった。卵の味付けは塩だけ使ったあっさりしたもので、飾り気のない味を白翅が好んでいることは翠には最近分かってきていた。


「そういえば、バイトは最近シフトどうなの?」

「分からない。またすぐに入るかも」

「最近ほんと多いよね。お金いるのは分かるけど……ほどほどがいいよ」


 由香の言葉には、隠しようの無い心配が滲んでいた。

 もっともな忠告だった。翠達は六月の現段階で、そこそこの日数休んでいる。

 仕方がないことでもある。

 最近は特務分室の仕事が突然入ってくることが多い。認識票にかかわる事件が増えたから、というのが最大の理由だ。

 直近のものであれば、神戸の事件は久々の長期出張となった。表向き学生の身である翠達にとっては、できれば避けたいケースの一つだった。

 そして、翠達に新たな不安要素を植え付けた事件でもあった。


「バイト、二年の椿姫さんの紹介なんでしょ?あのデュマの小説と同じ名前のお嬢様」

「うん。いつも良くしてもらってるよ。仕事もすごく丁寧だし……」

「丁寧かあ。実際、どんな仕事なの?」

「さ、裁縫とか……だよね!」

「……」


 目で白翅に、話を合わせて、と懇願しながら、かろうじて言い訳を口に出すと、心がちくりと痛んだ。翠は嘘を吐くのが苦手だった。


「あんまり、詳しく言っちゃだめって言われてるの」

「ええ……!ケチ~。よし、由香さんが当ててあげよう!」


 腕組みして、もっともらしく唸った由香はやがて答えを出した。

 とても突飛な答えを。


「椿姫さんのところのメイドさん!」

「ちょっと当たってるかも」

「だ~か~ら~!全貌を教えろって~!」


 カラン、カラーン、と。教会の鐘のような、ミッション系の学校にふさわしい、おしゃれなチャイムが鳴り響いた。

 次の授業を担当する教諭は少し遅れているのか、まだ教室に姿を現さない。


「んっ……」


 翠はブレザーに包まれた上半身で伸びをした。穏やかな時間がまだまだ続くような気がして、気持ちはとても軽やかだった。

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