第十四話 西部戦線異誕アリ case14

 ガラス窓から見える景色は、夜の闇に沈んでいる。無味乾燥な印象のビジネスホテルは、今の白翅にとってあまり心の休まる場所ではなかった。

 すでに二人は軽い食事をすませ、いつでも出かけれるように準備を整えていた。東京に来てから新調した安物の音楽プレーヤーの電源を切り、静かなピアノ曲を中断する。

 翠は同室でさっきまで本を読んでいたが、今はベッドに腰掛けて、捜査用のスマートフォンでなにかをチェックしていた。


 捜査本部が揃えた人員の出撃の準備はまだまだかかるらしい。分室のメンバーは作戦内容が詳しく決まるまで、各自待機となった。叶と小夜香は近くの漫画喫茶で時間を潰しているらしい。以前は、戦いが近づいている時はもっと気持ちがはやっていた。


でも、今は落ち着いている。気がかりなことは勿論あるのだけれど。二人の装備はとっくに点検をすませ、カモフラージュ用に持参した長細いスポーツバックにしまい、いつでも持って出れるようにしてあった。


 白翅はぼんやりと、今回の事件を反芻する。おそらく、自分が正体不明の勢力に狙われる原因となった『認識票』と関西での騒動は関係ない。ただ、分室が扱うべき事件だったから、翠達が、いや、自分達が介入することになっただけだ。白翅個人に関わることではない。けれど、今の部署に入った以上、無関係ではいられなかった。


自分は確かに、襲ってきた刺客達とその背後にいる黒幕との関係を探らなければならない。そしてその縁で認識票を使う敵たちと戦ってきた。けれど、翠達はその前から異誕たちと戦っている。今回はそのほんの一例なのだろう。


 翠が敵の攻撃で怪我を負った事は知っている。間近で見たからだ。溶解液で身体を傷つけられた自分の同い年の先輩を。自分の、新しくできた友達の。


 あんなに苦しむ出来事があったのに、その上、自分に関わることが原因で、分室のメンバー達の負担を増やしている。それが心苦しかった、だから、今回の事件だって、関わらないわけにはいかなかった。少しでもみんなの負担を減らせればいいと思った。


 異誕の殺し屋たちが撤退した後、確かな足取りで、懸命に倒れないように外に出で行こうとする翠の姿が頭に蘇った。口を真一文字に結んで、痛みをこらえていた。溶解液を上半身のあちこちに浴びたのに。


この子はとても強い。心配しながらも、白翅はそう感心せざるをえなかった。

 けれど、現場の外に出た時、彼女が救急キットを探る手が震えていることに気づいた。手伝うとした矢先、救助活動を手伝っていた椿姫が駆け寄ってきて翠の手からキットを引ったくって、そのまま黒いライトバンの車体の陰に連れて行った。


『ごめんね、白翅さん、少しお話があるから』


 去り際にそう言って翠はにっこりと笑った。今なら分かる。翠は傷ついた自分を見られたくなかったのだ。彼女は本当はもっと痛かったのに、それを堪えていたのだ。


 自分を安心させるために笑ったのだ。

 自分に関係することが原因で、ああなったわけではないことは分かっている。

それでも、翠が痛いのは、胸が苦しかった。自分のせいで、この子が傷ついているわけじゃないのに。敵の異誕が去り際に翠を見つめていた。


ぞっとするほどいやらしい目つきだった。

胸騒ぎがする。翠が傷つけられたことと、相手が殺意の他になにかどす黒い感情を翠に隠し持っていることがたまらなく嫌な気持ちだった。

敵を倒すために、報告書も何度も読み直した。少しでも何かの手がかりがないかと思って。新しい発見はほとんどなかったし、知りたかった敵の情報は不破たちが白翅の知りたかった以上のものを見つけ出してきた。


 翠は大江クリーニングの事件以来、ずっと長袖だ。明らかにガーゼを隠すためだろう。シャワーも別々に浴びているため、その下がどうなっているのかは分からない。


「翠……」


 ようやく、白翅は声に出して翠に呼びかける。


「なあに、白翅さん」


 どうかした?小首をかしげて、翠がちょっと笑った。

 声をかけておいて、何が言いたいのか、言葉が頭に浮かんでこなかった。……どうしよう。

 しばらく黙ったのち、白翅はようやく言うべき言葉を自分の中で作り出した。


「ごはん……」

「?」

「翠のごはん、また食べたい」


 きょとん、とした様子で翠は首をかしげたままだ。


「コンビニのは、味が濃いし、このホテルのは、朝ご飯が味気ないから……だから」


 また、作ってほしいの。わたしも、なにか作ってあげる。

 それだけ、言葉を口にした。

自分の心の中の感情を集めて、出てきたのはたったそれだけの言葉だった。


「白翅さんもしかして、お腹空いてるの?」


 くすくす、とあどけなく、翠が笑った。

 そうかもしれない、とだけ答える。


「そうだねえ。最近、よく体動かしてるもんね。それじゃあ、帰ったらお互いになに作るか決めよっか」

「……うん。そうしよう」


傷ついた翠の、震える手、真一文字に引き結ばれた唇。今の翠は、あの時と同じ痛みを感じているのだろうか。それとも、もう平気になった?

 白翅はふと、自分のすり減ったランニングシューズのことを思い出した。

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