第十四話 西部戦線異誕アリ case12

 本の内容が全然頭に入ってこない。文の内容が理解できなくなったわけではなく、その内容を消化することができなかった。

 壬織翠みおりすいは、座り込んでいた冷たい階段から立ち上がった。文庫版を左手でルームウェアのポケットに入れかけて、サイズがどうにも合わないことに気が付いてすぐにやめた。何気なく振りかえる。


非常階段であることを示す緑の人型のプレートが、廊下の人工的な光の中で輝いている。

翠は、人気のない廊下を歩き出した。コツコツ、と靴音が反響する。


 かれこれ一時間は本を読みかけては中断するのを繰り返している。これ以上はきっと時間の無駄だろうし、本を書いた人にも失礼だろう。


 G・Kチェスタトンのブラウン神父シリーズのうちの一つで、翠が最近続けて読んでいたものだ。しかし、今は全く続きが気にならなかった。読んでも少しも気持ちよくなれない。こんなことは以前にもあったことだ。それは事実だし、そう思い込むこともできた。けれど、そのたびに、もう二度とこんな気持ちにはなりたくないと思っていた。今もそう思っている。


 自分の部屋にたどり着く。無機質な白いドア。部屋には「401」とプレートがかかってる。捜査本部から三キロメートルほど離れた場所にあるビジネスホテル。建物自体は改築したばかりで外見は綺麗なものだったが、あまり流行っていないらしく、宿泊客は少なかった。すぐ下の階のは椿姫達が泊っている。関西の魔術士のコンビは別の場所に泊っている。日中も連絡を取っていたが、とくに異常は無いようだ。


 そっと鍵を開けて中に入る。ノブに手をかけると、肩の先がわずかに痛んだ。部屋の中はドア以上に無機質で、殺風景だった。綺麗に掃除が行き届いており、 窓の近くに黒い金属製の大きめのサイズのベッドが二つ並んでいる。そして部屋の右側の壁の近くに置かれた鏡台の下に、備え付けられた小型の金庫。貴重品はあえてそこにしまわず、翠達はいつも持ち歩いていた。


 部屋の中はほとんど真っ暗だ。ただ、鏡台の反対側の壁の近くにあるデスクの上が光っていた。

 白翅が小型のラップトップを開いて、画面をのぞき込んでいる。身体を少し前に傾けていて椅子の上で膝を小さく抱え込んでいた。


「……お帰り」

「ただいま。白翅さん、夜更かししてたんだ」

「……うん」


 白翅はこちらを向いて、答えると、また画面に目を戻してしまった。

「それは翠もでしょう」という答えは返ってこなかった。翠が部屋を出ていくときには、白翅はベッドの中で眠っていたはずだ。自分が部屋を出ていった後に起き出したのだろう。自分が起こしてしまったのだろうか。だとしたら申し訳ない。


「してた」

「何見てるの?」


 後ろから画面をのぞき込んだ。

 内容には見覚えがあった。今回の事件の報告書だ。今白翅が読んでいるのは翠の分だ。ただし、翠は直接文章を書いていない。


 不破が翠の口述した内容を忠実に記載したものだ。翠が書けなかった理由は翠の負傷によるものだった。すぐに捜査本部と分室で共有すべき内容だったはずだが、その日の夜になると、薬品で応急処置した箇所が酷く痛み始め、文字をタイプする事すら難しくなった。そのため仕方なく代筆してもらった。


 負傷は事件後、四日経った今も完治していない。鎮痛剤も増やしている。まだ軍用ガーゼを当てている箇所は赤く爛れたようになっている。破けた皮膚はまだそのままで、肉が剥き出しになっていた。これでもマシになった方で、負傷した日は肉が削れたようになっていた。


不破が言うには、敵が放った酸は非常に強力なもので、濃度から推測すると、一滴肌に浴びただけでも普通の人間なら、親指がずぼっと入るくらいの穴が空くほどのものだったらしい。自分の場合なら、小指がちょっと入る程度で済んではいたが。


「…………どうして読んでるの」

「……わからない。なにか、分かると思ったんだけど。書いてることだけしか、わからない」


 白翅は無表情に返してくる。その表情からは何の感情も読み取ることが出来ない。けれど、目つきは真剣だった。


 ブルーライトを浴びて、白い薄手のキャミソールからのぞく肌が白く光っている。

周囲が真っ暗なせいか、それは妙に艶めかしく感じられた。ショートパンツから伸びる脚には傷一つ無い。


もう治ってしまったからだ。先日の事件現場で飛び散ったガラス片などで、知らない間にかすり傷を彼女も負っていたが、すぐにそれは消えてしまった。

 急に自分の傷跡が強く血の匂いを発したような気がして、翠は思わずうつむいた。

 鼻に溶解液の異臭が蘇って、喉の奥が気持ち悪くなる。


 夜ごとにひりひりと傷跡が痛み、ベッドの中で声が漏れそうになった。脇腹はまるで錐を差し込まれているようだ。必死で声を我慢した。隣のベッドで寝ている白翅に自分の弱さを知られるようで嫌だったからだ。

 気にしてしまったせいで、痛みが余計に酷くなった気がした。


「早く寝た方がいいよ。明日がどうなるかもわからないんだから」

「……うん。もう寝る」

「私が言えることじゃないけどねっ!」


 明るく言うだけでは足りない気がして、笑顔でそう付け加えた。

 ゆっくりと、白翅が振り返った。じっと、しばらく紫の瞳で翠を見つめた。

 薄い唇が小さく開いた。何か言いかけたようだ。けれど、言葉は出てこなかった。しばらくして、 白翅が椅子から脚を下ろした。


「……おやすみなさい」

「うん、おやすみ」


 頭につけたヘアピンを髪から抜き、枕元に置くと、自分のベッドに入り、翠は目を閉じた。なかなか睡魔は訪れなかった。いろいろな考えが頭の中をぐるぐると回っていた。

隣のベッドに白翅が横たわる気配がする。

 なぜ自分は、白翅を置いていってしまったのだろう。どうして一人で向かって行ってしまったのだろう。


あそこには結局新たな敵が現れた。応援がなんとか間に合ったから良かったものの、そうでなければ、白翅は初見の敵を二体も相手する事になっていた。


現場に到着した椿姫によると、魔力の反応から敵の増援は魔術士だったのだという。

もし自分があのまま負けていたら、白翅も殺されることになっていただろう。

 それは一番恐れる事態だった。


『泣く、な……って……じゃなきゃ、あたしも、泣いちゃうよ……』


 怜理の声がすぐそばでした気がした。空耳に違いない。毛布をさらにかぶった。

 もし、白翅がビルに先に突入していたら、彼女が今の翠と同じく苦しんでいたかもしれない。


 白翅の真っ白な肩と、同じくらい白くしなやかな脚が瞼の裏にちらついた。

そして、次は赤く爛れた傷跡が。ガーゼの下の自分の肌。その下の肉。喉の奥がまた苦しくなる。

 それなら、自分の判断は間違っていなかったのだろうか?自分は怪我をしたかもしれないが、白翅に傷はほとんどつかなかった。自分が苦しむだけですむならまだマシだろう。


けれど、そんなのはただの結果論だ。

 自分なら、先にあの中国の魔術士を倒せた?本当にそうだろうか?自分だって無様に負傷したのに?白翅はほとんど怪我してないのに?どうすれば正しかった?

 考えをまとめようとした。けれど、無理だった。瞼を強引に閉じる。

おやすみなさい、白翅さん。心の中でそっと呟く。



その晩、夢を見た。血だらけの上海の組織の構成員たちが銃を持って自分を取り囲んでいた。頭から血をあふれ出させて、理解できない言葉で喚いていた。夢の中でも、意味の分からない言葉を理解しようとして頭を働かせて、いつまでも右手に持った銃の引金が引けなかった。自分は今だけじゃなくて、その前もずっと前にも人を殺していたことを思い出した。


翠が初めて人を殺したのは、日本の新宿でだった。

警察の手入れに対して魔術士の用心棒が反撃し、多数の殉職者を出した。それに対して、分室が鎮圧に向かったのだ。武装した暴力団員を拳銃で初めて撃ち殺した。四人も。

人を殺したという実感はすぐにはやってこなかった。

それは嵐のように一瞬で過ぎ去った死だったからだ。

けれど、そのまま、残り続けるものもあるのだ。今のように。

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