第十二話 在りし日の花 case13

『ソレ』は闇を知覚した。視点が、宙に浮いている。まるで暗闇に目だけが浮かんでるような、不可思議な感覚だけが、暗色の空間に生まれる。


 周りから、悲鳴や喘ぎの合唱がわずかに聞こえ、それがどんどん大きくなり、四方八方から迫ってくる。


『うううう……』


 耳を塞ぐための腕が欲しかった。あるはずのない耳を塞ぐ手が欲しかった。懸命にあるはずのない部位を引き延ばす。


 次は切り落とされる首を幻視する。何度も何度も幻視する。目を閉じてもそれは浮かんでくる。ぼとり、ぼとり、と目の前に首が落ちてくる。目の前にいくつも転がってくる。兜のようなものを被った男の首。その後から続けて、老若男女様々な首が血の痕を残しながら、こちらに転がってきた。



 気が付けば血の湖に、ぷかぷかと浮かんでいた。

『ソレ』は気づく。

 ああ、これはきっと、自分の周りで流された血なのだ。溢れかえった血が行き場をなくして流れ込み、の姿を、どこか遠くへ押し流してしまったのだ。だから、体躯からだ全体が無くなってしまったかのような喪失感が消えてくれないのだ。裸の皮膚に血が絡みつき、紋様のような跡をのこす。近づいてきた悲鳴はますます迫ってくる。


 堪えきれず、ただただそれをやり過ごすために身体を丸め、うつむこうとした。視線を落とすと、赤黒い血の池に顔が一つ浮かんでいた。


 鳶色の眼をした、白い顔の皮。

 馴染みのないそれをもっとよく見ようと自分の視点を近づける。身体に張り付いた血が、抵抗を試みるかのようにざわつき、皮膚を僅かに引きつらせた。その感触はあまりに不快で、全身を冷たい戦慄が駆け巡った。からだ全体がひどく重たかった。全身が血を吸い込んで重たくなってしまったからだろうか。



 不意に胸が焼けつくように熱くなる。だが、それは焦がし、爛れさせるための熱ではなく、たぎらせ、包み込むような、戦慄を和らげる力強い熱だった。


『………………!』


「あんた達にくれてやる血肉なんて一片たりともありはしないわ。分をわきまえなさい!」



 悲鳴に混じって声が聞こえる。力強い声。悲鳴以外の何かを叫んでいる。なぜだが、とても心強い。張りのある、美しい声。

 その熱が皮膚の上を跋扈ばっこする血痕を融解させ、四肢の感覚が「産み出された」。

 それは感覚と共に生えてきた。


 屈み込むのをやめて血の湖の中を棒立ちになる。視線を僅かに落とすとそれに合わせて浮かんだ顔も血の表面から遠ざかっていた。そして自身の裸の半身も。そうか。これは……

 ああ、なんだ。その姿を見て、ついに悟る。


 これは自分だ。


 新しい感覚が身体の表面に生まれた。

 いつのまにか生え揃っていた腕をそろりそろりと伸ばしていく。自分にはちゃんと腕が生え揃っている。血の水面上を両腕は遅々とした前進を続ける。


 やがて、そこに浮かぶ顔に到達した。小指と小指を合わせ、そして両手の平をつなぎあわせ、顔を血とともに救い上げる。それを見つめ続ける。いつのまにか悲鳴は止んでいた。顔は妙に済ました表情だった。顔にところどころ血がシミを作っている。ああ、これは……これこそやはり……

 答えを得た。あまりにも自然な仕草で、「彼女」は両手を持ち上げ、てのひらの中身を自分の頭に浴びせかけた。


 これが自分の顔だ。


 全身が火傷しそうなほど熱くなる。


 両手の間から溢れた血が口の中にまで入り込み彼女はそれを飲み干した。口の中に鉄の味が広がり、味わうのを拒むかのように喉から音を立てながら一気に飲み干した。

 いやな感覚だった。美味しくなかったからだ。


 気がつけば、二本の脚で立っていた。


 ここはどこだろう。周りを見渡す。赤い模様がたくさんついた壁紙に囲まれた広い部屋。

そこらじゅうにガラス片が散らばり、引き裂かれた絵や折れた何かの道具が転がっている。どれもこれも見ても意味不明なものばかりだ。

自分の立っている場所に視線を落とすと、周り一面血だらけで、足元から部屋の中央までは血でできた河が流れていた。

部屋の真ん中には、折り重なるようにして、山のような死体が積まれている。老若男女、その身体はあちこちがねじ曲がり、とても歪だ。


「……う?」


 片手を持ち上げる。頭の中がうるさくなってきた。先ほどの闇の中で聞こえたような叫び声がまた響いている。聞いているうちに、なんだかすごく胸の中がぐちゃぐちゃになってきた。悔しいのか、怒りたいのか、悲しいのか。


 傷つけたいのか。そうだ。この感情を生み出した大元を、自分はころしたい。そうじゃなきゃ、苦しいままだ。


「む……」


 片手の先の空間が歪んだ。掌に冷たい感触が生まれた。

 そこには、元からそこにあったかのように自然に。


 身の丈ほどの大鎌が握られていた。


 頭の中がどんどんうるさくなっていった。

 この感情をどうにかしたい。


 その思いだけを原動力に、『ソレ』は行動を開始した。

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