第十話 絡まる糸 case12
夜の闇の中に、自分達のかすかな息遣いの気配だけが吸い込まれていく。
翠達が鬱蒼とした雑木林を抜けると、目の前に急な石の階段が現れた。舗装路は手入れされておらず、雑草が生い茂っていた。
弱い風で草木が揺れる。翠は後ろの三人に向けて頷くと、舗装路を素早く抜け、石段に足をかけた。立ち止まることなく、素早く登りきる。
古びた木の門を越えて敷地内に入り込むと、最奥にはろくに手入れされていない様子の、小さな寺院が佇んでいた。
もうとっくに廃墟と化しているその建物は、丑三つ時に人が立ち寄る場所ではない。もっと早く到着したかったのだが、東京の隣である神奈川県とはいえ、入り組んだところにあるこの場所を特定するにはかなり時間がかかった。
「窓から入った方がいいでしょうか」
「いいえ、正面から行きましょう。物音を立てるのはまずいわ」
「はい、行きます」
正面にある観音開きの扉に片手をかけ、そっとそのまま開いた。木材が軋む音と共に、扉が開く。わずかにできた隙間から、白翅を先頭に、椿姫と茶花が入り、翠が周りの様子を伺ってから中に入った。
目の前に長い木の廊下が続いている。左右に二つずつ、障子のある部屋が並んでいた。
いつでも敵に向けられるように、P226の銃口を上に向け、目線をフロントサイトに合わせて構えた。
翠は再び先頭に移動すると、物音を立てないように、足音を極限まで殺して進んでいった。建物自体がかなり古く、埃の匂いがそこら
廊下を半分ほど進んだところで、不意に生臭い匂いが鼻をついた。嫌な予感がする。
「翠、どうする?」
「順番に行くしかないわね」
「では茶花達は左側を」
言うが早いか、茶花が一番手前の左側の障子を拳銃を持っていない方の手でそっと開けた。
「……うあ。当たりです。それも嫌な」
「ほんと……?」
「ウソでしょ⁉︎」
鼓動が
畳も何もない、埃だらけの硬い木の床の上に、五人が転がされていた。近くにはなぜか千切れた雑草が散らばっている。部屋の隅には空のペットボトルが何本も転がっていた。
そして、部屋の奥の柱の側に何かがうずくまっていた。翠は咄嗟に、タクティカルライトをそちらに向けて、息を呑んだ。
……長い髪を無造作に垂らした女性が柱に縛り付けられていた。長く白い紐のようなものが全身に纏わりつき、躰を柱ごとぐるぐる巻きにされている。
室内を更に照らすと、他の五人にもそれぞれ同じような紐で拘束されている。口も塞がれていた。
「この人って……」
椿姫が近寄ると、首に手を当てて脈を確認する。その人物が、ゆっくりと顔を上げた。
「……?よお……なんだ……エリートの刑事さんじゃん……」
女性は、蚊の鳴くような声を絞り出す。顔は土気色になっていて、呼吸も弱々しい。誘拐されてから二日あまりで、酷く衰弱している。食事もとっていない様子だった。
髪を結んでいないが、間違いない。行方不明になった高澤礼だった。一番最初に椿姫が聞き込みをした相手だったはずだ。
「大丈夫ですか、高澤さん……何が……」
「ダメだ、手足、動かない」
「私がやります!くっ、なにこれ……硬い……」
素手で身体に巻きつく紐を外そうと力を込めて引っ張る。まるで手に食い込んでくるかのようだ。いっこうに外れない。
「……暴れたら折られた……素手で……くそ、どうなって……あいつ、なんで、あんなふうに、なっちまったんだ……」
「誰がこんなことを……」
「……こんなことになるんなら、タバコ、やめとくんだった……クソッ」
強い繊維で編み込まれた紐……というよりまるで糸の束のようだ。服の上から躰に食い込んで、見ているだけでも痛くて苦しそうだ。翠は軍用ナイフを取り出し、力を込めて糸束を切断していく。
「翠……」
「白翅さん、どうしたの……」
後ろからかけられた声はやけに遠くから聞こえた。振り返ると、茶花と共に五人の具合を確かめていた白翅がこちらを凝視していた。白い顔が更に青ざめている。
「この子……息……してない……」
頭の中が真っ白になった。
「ウソだろ……なんでだ……」
高澤が更に掠れた声で呟いた。翠は、白翅が呼吸を確かめていた一人に素早く近寄り、顔を覗き込む。
一番最初に誘拐された、邦画研究会会長の中里だった。その瞳は濁り、目の焦点は合っていない。念のため、耳を口元に近づけるが、呼吸音はまったく聞こえなかった。
唐突に、頭の片隅を強い違和感が襲った。何かが急速に近づいて来ている。この廃寺に、異誕が姿を現そうとしている。白翅の肩がびくっと動いた時、翠は聞き覚えのある羽音を知覚した。不快感を煽るその音は、かつて狙撃地点で聞いた音と同じものだった。気配と共に、異音が近づいて来る。
「全員戦闘準備!」
椿姫が指示を飛ばす。観音開きの扉が開き、大きな音を立ててなにかが廊下を走ってくる。
不意に障子が吹き飛び、廊下に向かって倒れた。もうもうと舞い上がる埃の中、闇の中に赤い小さな光がいくつも現れ、ギラギラと獰猛な輝きを放つ。翠はP226を闇に向けて構えた。四人が一斉に攻撃を開始する。激しい銃声と爆発音が鳴り響き、魔術の炎とマズルフラッシュが、闇に閉ざされた空間を明るく照らし出した。
『グぐぐギグぎ!』
金切り声を上げて、銃弾と炎に身を焼かれたソレが、体中から紫色の
そいつは、牛ほどの大きさの巨大な蜘蛛だった。頭についた単眼は全てが真っ赤に光っている。再び、部屋には夜の帳が下りると同時に、大蜘蛛の死体を飛び越えるようにして、小柄な影が姿を現した。
『高澤あ、わたしの事、喋ったなあ』
「やっぱ、テメエか……生徒が教師呼び捨てにすんじゃねえ……」
椿姫が糸束を外した高澤が呻いた。
「やっぱりあなただったんだ。洲波優実」
翠は油断無く銃を構えながら相手を睨みつけた。
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