第十話 絡まる糸 case10
不破が玄関口に立つと、殺虫剤の香りがほんのりと漂ってきた。
三和土で靴を脱ぎ、きちんと揃えて置く。目の前には六畳ほどの和室があり、丸いテーブルが中央に置かれている。畳は薄く、年月でほとんど擦り切れてしまっていた。
「どうぞ」
ボソボソとした声で、不破の応対をしてくれた円城が、畳の上に押し入れから出した座布団を敷いて、座るように勧めてくれた。
「どうもありがとうございます。長居はしませんので」
「……」
円城は幼さの残る顔立ちに、特になんの反応も浮かべることなく頷くと、片手を前に出してそのまま部屋から出て行ってしまった。
あまりに自然に部屋から出て行くので止める暇もなかった。
隣にある八畳ほど台所から、円城はすぐに戻ってきた。右手には二Lの大きなコーラのボトルを握っており、それを丸テーブルに置くと、二つのグラスを左手に持ったお盆の上から机に並べた。
「どうぞ」
「どうも」
冷えたコーラが注がれる。すぐには手をつけずに、不破は円城が話し出すのを待った。
円城は頭にかけていたヘッドフォンをとろうとするが、うまくとれず、片方が顔にかかったため、さらに乱暴にむしりとると、それを無造作に足の近くに置いた。その近くにさっき持ってきたお盆も置く。ジャージを着た小柄な円城の姿は、今年二十四歳になる女性の姿とは思えなかった。
「……何回来ても同じですよ」
ようやく円城が口を開く。
「私、何も知りません。他の子達のことも。どこに行ったかさえわからないんです」
コーラに口をつけて円城が言った。
「もちろん、我々もあなたを疑ってなどいません。ただ……今回の一連の事件で何か変わったことはありませんでしたか?たとえば、誰かに見張られたり、後をつけられている気がする、とか。円城さんのことについて過剰に干渉しようとしてくる人がいたとか」
「……いいえ。ありません。私の周りは、いつもと何も変わらず」
疲れたように首を弱々しく振った。
目が赤い。顔色も、資料写真で見た時よりも悪かった。明らかに体調が良くなさそうだった。円城は現在、学校を欠勤している。病み上がりだから、無理できないということなのだろう。
「……変わらないことはありませんね。研究会の子達がいなくなってしまったので」
「円城さんの環境は確かに変わったでしょうね」
円城は重いため息をついた。これが演技ならたいした役者だと不破は思う。彼女がタグの使用者であった場合なら、今の状況は自業自得だが、彼女が今回の事件でメリットを得たとは思えない。
保護者の中では円城を偏見から疑っている者もいるようだし、生徒の中でも彼女と関わったことで誘拐されたのではないか、という噂が流れている。
さらには、学校の裏サイトには、彼女のことを様々な憶測で非難する者もいた。円城がそのことについてどの程度知っているのかは分からないが、本人も悪い噂が立っていることには気づいているのだろう。心が休まらないのも無理はないし、個人的な形とはいえ、捜索にも参加した。そして、体調不良も今の不安定なメンタルが関係しているはずだ。
円城は遠い目で、仏間の方に視線を送った。
そこには、妙齢の女性を写した写真立てが飾られていた。視線を追う不破に、「母です」と伝えてから、ようやくグラスのコーラを飲んだ。不破もつられて口をつける。冷えたコーラは炭酸がほとんど抜けてしまっていて、ただの甘い黒い液体となっていた。
「……なぜ私の周りを?」
ようやく疑問に気づいたように、円城が不破の様子をじっと見つめながら言った。
「何か、あるんですか?」
「高澤先生の事はご存知ですね?」
「高澤先生、まだ見つからないんですか」
円城の目が大きくなる。ここに来てから、円城が初めて明確な反応を見せた。
「いまだに。今回の事件と関係あるかを含めて調べていますが、偶然とは考えられません」
特務分室のスタッフを含む合同捜査本部は、学校側に箝口礼を敷き、今回の事件について教師陣はなるべく口を閉ざすように伝えさせた。
邦画研究会に続いて、他の教師まで行方不明になったとなると、生徒たちがパニックに陥るかもしれないと考えたからだ。
押し黙っている円城に不破は言葉を継いだ。
「かなり親しかったようですね、高澤さんとあなたは」
「……いい先輩でしたよ。私みたいな無愛想なやつの世話を焼いてくれて。何が楽しいのかは分かりませんでしたけど。最初は苦手で、あまり好きじゃなかった。でもいい人なんでしょうね」
「報告によると、生徒たちからの評判もいいようですね。そして、あなたからの評判もいいようだ」
「何がおっしゃりたいんです?」
「今回の事件、同一犯の仕業だとすると、被害者達の共通点は邦画研究会であることじゃない」
不破は言葉を切った。
「あなたと親しいことです。だからあなたの最近の様子を聞いたんですよ。犯人はあなたの身近な人を苦しめたいのかもしれない。そうする事であなたをも苦しめたいのかもしれない。少なくとも、犯人の目的は邦画研究会を廃部にすることではない。そして、犯人はあなたが苦しんでいるのを観察しているのかもしれない。何か心当たりはありませんか?あなたをとても恨んでいる人は?」
「……そんな……」
戸惑った様子で、円城はしばらく口を閉じていた。
「……わかりません。人付き合いが苦手で、親しくしている人もほとんどいないんです。どこかで恨まれてるかもしれないけど……友達もあまりいないし、…………恋愛も……ぜんぜん」
言いにくいことまで話させてしまったらしい。少なくとも本人に心当たりはないようだ。
『あのネクラ女が実は殺人鬼なんじゃね?』
『バカ、誘拐だっての』
『こんだけ出てこなかったら死んでるっしょ』
『いなくなった奴らの名前なんだっけ?』
『わかんね。つか、メンバー誰?陰キャの集団の名前とかいちいち覚えてねっす』
『陰キャグループの顧問まで陰キャってのがクソ笑えるよな』
裏掲示板にはそのような書き込みがされていた。ネット上では盛り上がっていても、書き込んでいる者達がリアルで楽しく生きているとは不破には思えなかった。
それでも、円城の評判は着実に悪化している。無実なら取り返しがつかなくなる前に解決しなければならない。
「円城さん……」
「はい」
「高澤さんがいなくなった時間帯は、どちらに?」
「家でパソコンを……」
念のため、アリバイを確認する。またしても不成立だった。現在のところ、彼女のアリバイは一つも成立していない。仕事が終わるとまっすぐ帰っていたり、深夜帯だったりとタイミングがどれも良くなかった。それから、二、三質問をし、内容をメモ帳に書きとめた。
「また、来るかもしれません」
不破が立ち上がると、円城は目を伏せた。
「……」
「それでは」
「……顧問を勤めたの、高澤先輩に勧められたからなんです」
「はい?」
「私は決めあぐねてたんですけど、とりあえずやってみたら?って。いい経験になるかもって……だからやってみたんです。引き受けたら、お前はいいやつだな、って笑ってました。先輩は私が独断で引き受けたと思ってるみたいだけど、高澤先輩があの時……励ましてくれたからやってみようと思えたんです。できたら、そのことを伝えたい……」
「……」
今度は不破が黙る番だった。そのまま静かに一礼すると、蛍光灯の光だけが照らし出す和室で、メモをしまいながら踵を返した。
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