第十話 絡まる糸 case9

 カーテンを全開にした明るいキッチンに、軽やかに調理の音を響かせ、翠は朝食作りにいそしんでいた。

 今日の食事当番は翠なので、白翅より早く起きなければならなかった。昨日は一緒のベッドで寝てしまったから、ぐっすりと眠っている白翅を起こさないように、寝室を出るのに苦労した。ニュースアプリを料理の合間に眺めてみたが、あまりいいニュースは無いようだった。


 東京近郊で起こった通り魔事件は幸いにもすぐに犯人が捕まったらしい。

 隣県で起こったドラッグストアでの連続強盗事件。戸締りした後、重機で窓を壊して商品を奪っていくのだという。防犯カメラも壊されていたのだとか。窃盗団の仕業かもしれないと推測されている。

 北海道で起こった、住宅街の住人を狙った連続殺人事件。容疑者の目星はついたが、依然として逃走中。警察の対応の遅さが非難されていた。

 関西を騒がせている地元の暴力団と、日本に流入してきた中華系犯罪組織による銃の発砲事件。凶悪な二つの組織の抗争が散発的に続いている。


 翠はため息を吐こうとして止めた。気持ちを切り替えたかった。ため息はせっかく前向きになってきた気分に対して良くないだろう。

 だいぶ疲労が抜けていて、気持ちが軽くなっている。これもたくさん泣いたせいなのだろうか。数日は学校にも通えるだろう。由香や雫にも会える。自分達を心配しているだろうか。とにかく、できるだけ楽しもう。


(うう……)


 それにしても、昨日は恥ずかしかった。思い出しただけで、顔がかあっと熱くなる。沢山泣いてしまって、白翅を困らせてしまった。本当に恥ずかしい。同い年の子に抱きついてしまうなんて。

 まるで甘えてるみたいだ。自分は、これでも仕事の上では白翅の先輩なのに。

 不意に、昨夜の記憶が蘇る。真っ暗な中で、二人で抱き合った時、薄手のキャミソールを通して伝わってくる低い体温や、きめの細かい白い肌の感触をはっきりと思い出してしまい、心が熱くなった。 


 自分とは、全然違う質の肌。私なんかよりも、ずっと女の子らしい体の感触。

 抱きしめ合う寸前、顔が近くなって、長い睫毛が自分の目の前に近づいたことを思い出す。そして、身体が触れ合った時に感じた柔らかな感触が蘇ってきた。


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~」


 また両頬が熱くなる。近くの鏡を確認すると、白翅ほどではないものの、色白な両頬が真っ赤になっていた。

 思わず、キッチンの棚の近くに置いた本をとり、それを読んでるふりをしながら、ちらっと白翅の様子を伺った。自分が考えていることを白翅に見透かされているのではないかという気持ちになったからだ。


 白翅は昨日と同じ部屋着のままで、机の上をじっと見つめるようにして、料理ができあがるのを待っていた。いつのまにか二人分のハーブティーのカップが置かれている。自分が料理を作っている間に準備しておいてくれたのだろう。

 やや癖のあるグレーの髪を、細い指先で整えている。


「……?」


 こちらの視線に白翅が気付く前に、慌てて視線をそらした。

 じゅうじゅうとコンロに置いたフライパンが音を立てた。妙に香ばしい匂いがする。


「わわ、焦げちゃう……」


 火をかけすぎてしまったせいで、スクランブルエッグは表面が茶色くなっていた。仕方ない、これは自分用にしよう。翠はそれでも気を落とすことなく、手早く調理をすませ、二人分の皿に料理を移し終える。


「いただきます」

「……いただきます」


 フレッシュなハムやバターロールにサラダを付けた、翠の好きなメニューで、最初はコーンフレークなどのあっさりめな食事が好きな白翅の口に合うか、少し心配だったものの、白翅は美味しそうに食べてくれている。



 一人暮らししていた頃と比べて、二人で暮らすと、作り甲斐があって美味しいだけじゃなくて、楽しい気分になる。

 捜査中の事件はまだ進展していない。朝食の準備を始める前、不破から電話があった。今後の方針に関するものだった。


 ビジネスホテルに移した水崎家は、今度はまた別の民宿に移ったのだという。警備には分室のスタッフだけでなく、捜査一課がSIT捜査一課特殊班を導入して、きわめて厳重に行われているという。

 SITは凶悪犯の捜査や、誘拐事件にも対応する特別チームだ。おまけに、戦力も充実しているため、不測の事態にも対応しやすい。不破は上手く捜査本部と調整を行ってくれたらしい。

 今も捜索は行われており、合同捜査本部はてんやわんやなのだそうだ。不破からも、しばらくは捜査を休止して、学校に行くように伝えられていた。


「もっとちゃんと休ませてやりたいんだがな。空いている日は一日中休む、と学校に通うのを繰り返すといい」


 それでも渋る翠達に不破がこれ以上さぼらせたら、『理事会』にも怒られてしまうと苦笑していた。文部科学省の事務次官も理事会のネットワークのメンバーにいるそうだ。教育をないがしろにしているような部署には欠陥がある、と指摘されたら問題だとも言っていた。その言葉に甘えることにした。


 支度を終えて、学校指定のブレザーに着替える。白翅は新しい制服に慣れておらず、少し手間取った様子だったが、やがて鞄を持って玄関に姿を現した。


「……行こう」

「うん!」


 白翅は昨日の事には触れてこなかった。だから、自分も暗い気持ちは引きずらないことにした。


 その日は、何事もなかったかのように生活が続いた。学校で久しぶりに椿姫達と過ごせるのも、事件の時とは違ってまた楽しかった。


「なんか、ブレザーの椿姫さんたちって新鮮ですね」

「なによそれ、っていうかこっちも本業でしょう」

「茶花たちは学生バイトではなかったのですね」

「学生バイトってのは学生をバイトでやることじゃないから」


 椿姫は苦笑している。昼休みに、一緒に学校の中庭で四人集まって談笑することもできた。黒い良質の生地を使ったブレザーに、同色の短めのスカート。校章の刺繍が入ったソックスを身につけた翠達は、紛れもなく私立城山女子学院の生徒だった。

 まだ五月の頭だというのに気温が高い。太陽が眩しく、半袖でもいいくらいの気候だ。


「茶花なんか、しばらく来てないせいで中等部の場所を忘れてしまいました」


 神妙な顔つきで茶花が続けた。


「もう、さすがに冗談きついよ。茶花さん、クラスの子たちと仲良くできてる?」

「翠は冗談が通じない人ですね」


ムスー、と茶花がむくれた。が、すぐに表情を緩めて


「それなりに大事にされてます。茶花は立ち回りも器用な鎌ですので」


と得意げに答えてきた。


「……お友達、たくさんできるといいね」

「むふー。もちろんです。いずれ、茶花にお菓子を恵んでくれる人がもっと増えるといいのですが」

「既にたかってんの?ほどほどにしときなさいよ。あたしまで悪い噂が立つじゃない」


 椿姫はやれやれといった調子だ。どこ吹く風といった調子で茶花はハムハムと持参した弁当を熱心に食べている。

 おとなしい白翅も、この集まりには少しずつ慣れていっているのか、口数が多くなった気がする。

 この時間は本当に貴重で、ありがたい。もしこんな時間がいつまでも続けば、もっと毎日が楽しいだろう。今の自分たちは、本当に今の時間を楽しめている。そんな気がした。


† † † †


 事態が動いたのは四日目の金曜日のことだった。

 教室で昼休憩の最中に、白翅と共に由香と雫を交えて談笑していると、スカートのポケットの中で、スマートフォンが通知音を立てた。


「ちょっとごめんね、みんな」


 一声かけて、翠は慌てて教室を出て、廊下の隅で不破からの通信に応答する。

 その内容を聞いた動揺を押し殺しながら、戻ってきてすぐに白翅の肩を二回軽く叩いた。

 事前に決めておいた合図だった。事件が起こったのだ。分室が担当しなくてはいけないような事件が。


「急用ができちゃった。早退するね」

「え、マジで!お昼はこれからじゃん!」

「そろそろランチタイム終わりよ」

「コーヒーブレイクは?」


 雫が突っ込みを入れながら、外していた眼鏡を鼻にかけた。

 白翅も、持参した食事を片付けながら席を立つ。


「そっかあ、特に白翅ちゃんは引越してきたばっかだから……何かと入用だもんね?あたしも紹介してもらおうかな。でもブラックそうだしな……」

「身寄りがあるでしょう、由香」


 雫が由香をいさめた。

 椿姫の家はこの都市ではかなりの力を持っている。だからこそ、多少無理も効く。    

 そういうふれこみだった。身寄りのない子や、学費生活費が足りない子に、螢陽ほたるび家が、負担が少なく身入りのいい仕事を、パートタイムでやってもらうという企画を主催しているということになっている。


「……言ってみただけだって!行ってらっしゃい!」


 由香が力強く手を振りながら送り出してくれた。

 友人の明るさに負けないように、翠も大きな声で返事する。


「行ってきます!」

「……行ってくる」


 その声にかき消されそうな小声で白翅も返答した。あわただしく教室を二人は飛び出した。好奇の視線が集中するのを背中に感じながら、翠は心を研ぎ澄ませた。




 不破からもたらされた情報は驚くべきものだった。


『単刀直入に言おう。高澤礼が失踪した。誘拐の線で捜査を行っている。今は東K町署の捜査員たちが捜査本部と合流している』


 一瞬内容に困惑した。が、翠はすぐに記憶を辿って、その名前を思い出す。確か今回の件で誘拐された、邦画研究会のメンバー達が通う学校に在籍している先生だ。


「なんで、ですか。どうして、研究会の人達じゃなくて……」

『わからない。だからこそ、捜査本部も色めき立ってる。同一犯ならターゲットの条件を変えたことになるが』

「そもそも、本当に失踪なんでしょうか?」


別件、もしくはたまたま連絡がとれなくなっているわけではないのだろうか。


『状況的にほぼ間違いない。失踪直前の足取りを、分室の捜査官が聞き込みして調べてくれた。それによると、彼女は自宅近くのコンビニに寄った後、近くの空き地に車を停めていたんだが、そのまま車両を放置していなくなっている。現場に手がかりはなかった。近くに煙草の箱が落ちていたところを見ると、一服しようとしていたのかもしれん』


 そうして事件現場近隣の捜索と、ブリーフィングを終えると、不破の車に乗せられ、とある場所に分室の制圧部隊一同は移動していた。


「ここに来て、水崎ではなく、高澤が狙われたのはなぜだ?」


 不破が表情を厳しくしながら、頭を振った。不破のランドクルーザーは、今、東K町中学校の側を抜けて、どんどん中心部から離れた静かな場所へと移動している。


 椿姫が綺麗な眉をひそめた。隣の茶花は大きく首を傾げている。白翅は黙ったままだ。時おり、バックミラーに視線を送っている。


「今までの子たちとなにか関係があるのかしら?水崎さんは無事なのに」


 あれから、水崎家が犯人に襲われることは無かった。敵も、警察が張っているのを警戒しているのかもしれない。そうすると、今度は研究会と関係の無い人が誘拐された。


「ああ。しかし、共通点はある。注目するポイントを変えるんだ」


 ハンドルを上手に操り、不破が細い路地を曲がった。


「誘拐されたメンバーは顧問の円城先生と仲が良かった。水崎さんに尋ねたところ、あまり社交的ではなかったらしいが、メンバー達も似たような性格だったからか……この言い方は失礼になるか。とにかく、うまくやっていたらしい。そして、高澤先生は円城先生を気にかけていた」

「それは、そうですけれども……ってことは、犯人が誘拐しているのは、円城先生と関わった人……」

「そうだ。だから、話を聞きに行く。彼女が犯人とかかわりがあるにしろ、無いにしろ、本人の周りでもなにかが起こっているかもしれないからな。円城先生にしか気づかないことがあるかもしれん」

「この事件は円城先生が中心になってる……」


 確信に近い感情が、翠の中に産まれた。もしそうだとすれば、犯人は何者で、どういう意図があって今回の事件を起こしたのだろう。

 遠くでカラスが鳴いている。夕日の奥からこっちに渡ってこようとするように、小さな鳥たちの影が何羽もこちらに近づいて来ていた。


 不破の紺色のランドクルーザーはやがて、大田区の古い住宅地の一角にたどり着いた。路肩に車を寄せ、静かに停車する。

 翠達は車を降り、不破のすぐ後ろにつく。不破が端末に表示された地図を頼りに、入り組んだ路地を進んでいった。

 古い塀に囲まれた、長屋のような造りのアパートや、木目の見える壁のある似たようなデザインの木造住宅が多く立ち並ぶ中の一つが、円城家だった。こちらも古びてはいるが、二階建ての普通の建売住宅だ。


「話を聞いて来る。君達は待機してなさい」

「了解」


 黒い長身のパンツスーツの後ろ姿を翠達は見送る。不破が身分証を取り出し、チャイムを鳴らした。夕闇の色が急に濃くなり、住宅地を薄闇が染めた。



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