第十話 絡まる糸 case8
遠くから、大きな音が聞こえて来た。
心臓がトクンと跳ねるのを感じながら、ベッドの上で白翅は身を起こした。
さっきの音はなんだろう。そんな疑問が浮かぶと同時に、よく聞きなれた声が微かに耳に届いた。
突然訪れた正体不明の異常に、気持ちがはやるのを抑えられない。
「……なんだろう」
白翅は急いでベッドから降りる。枕元に置いた拳銃を掴み、部屋の外に走り出る。
前にも夜中に跳ね起きた事があった。けれど、その時はあの二本足の巨大な獣に強襲された時だった。
あの時のように生命の危機が迫っているわけではない。
なのに、どうして自分はこんなに慌てているんだろう。どうして、自分のことみたいに緊張しているの?今の白翅はただ翠が心配だった。
真っ暗な廊下を抜けていく。新しいカーペットを素足が踏みしめた。
二階のフロアの日当たりのいい部屋。そこが翠の寝室だった。
『うう、っぐ』
頑丈な木のドアの向こうから、翠の声が聞こえて来た。泣き声。とても苦しそうで、悲しそうだった。
翠が泣いてる?どうして?少なくとも、敵に襲われたわけではないらしい。もしそうなら、自分はその敵意や殺意を感じているはずだ。それに、翠が立ち向かわないはずがない。なら、今の状況は?何が翠をそんなに悲しませているのだろう?
白翅はドアを強くノックする。いてもたってもいられなかった。
「翠?だいじょうぶ?」
『あっ』
部屋の中でなにかが動く気配があった。白翅は銃を左手で持ち、腰の後ろに隠す。ドアノブを強く掴み、寝室の中に入る。
室内のベッドの上で翠がこちらに小さな顔を向けた。
毛布を両手でつかんでいる。
まるで全身を凍らされてしまったかのように、身体を固くして、白翅を見つめていた。
「すごく、大きな声が聞こえたから……」
闇の中で、翠の鮮やかな緑の瞳が涙に濡れて光っていた。
泣いている。翠が。滅多に涙を見せることのない翠が。あの時のように。廃工場の事件の時のように。彼女が怜理を失ってしまった時のように。自分が辿り着いた時には、もう永遠にいなくなっていて、翠が深く傷ついてしまった時のように。
明るくて、笑顔のとてもきれいな子だと思っていた。自分とは違って活発で、気を遣ってくれる、とてもやさしい女の子。
その子が今は泣いている。悲しい涙の似合わない女の子が。何がこの子をここまで悲しませているのだろう。
「……翠」
戸口に立ったまま、か細い声をかけた。
「しらは、さん」
翠がたどたどしい声で、やっとのことで返事を返してきた。
そして、次の瞬間、はっとなにかに気づいたように、手首で両目をごしごしと拭った。見ていて心配になるほど強く。
「だめ……」
「違う、違うんだよ?えっと……これは、ね……さっきまで読んでた本が悲しくて……それで……」
翠は必死になって泣いていたことを隠そうとしていた。けれど、涙声を隠し切れていない。
白翅にまっすぐに見つめられると、ごまかすことを恥じたかのように押し黙ってしまう。
「悲しいの?」
「……うん」
「……こわい?」
「……わからない」
「なにがあったの?」
「夢を見たの」
また深い緑の両目に涙が溢れた。そのまま、あどけない頬を流れる。
「時々こうやって、嫌な夢に見るんだ。ほんとに、たまにだけなんだけど……」
怯えたような泣き声。
「最近、色々重なったからかな……思い出して、色々な悲しいことが、後から後から押し寄せてくるの」
翠の小さく、細い肩が震え始めた。
白翅は左手の銃を勉強机の上に置いた。卓上ライトに手を伸ばしかけたが、やめた。
「そっちに行っていい?」
「……うん」
そして、翠のベッドにゆっくりと腰掛けた。
翠はためらいがちに夢の内容を話し、途切れ途切れに言葉を繋いでいく。翠らしくない、消え入りそうな声だった。
それから自分の過去を交えながら話した。
白翅は今まで、ずっとなぜ翠が分室で働いているのかを聞かされたことは無かった。
なにか事情がないと今の境遇にはいないだろう。翠はきっとそのことを自分に話したくないのだということには気づいていた。
だから白翅は聞かなかった。翠を傷つけることになると思ったからだ。
そして、白翅の推測通り、翠は重い問題を抱えていた。
「ごめんね、こんな話しちゃって……」
「……ううん。いいの。話してほしいと思ってたから……」
翠は両親を異誕生物に奪われていた。自分と同じく大切な人を亡くしていた。
「泣きたくなかったのに。ダメな先生だ……私。私、白翅さんを守らなきゃいけないのに。白翅さんに傷ついて欲しくないのに」
「……大丈夫。悲しくなるのは仕方ないと思う……」
途中からまた我慢できず、涙をこぼし続ける。そんな翠に、一生懸命白翅は言葉をかけた。ただ、苦しんで欲しくなくて。自分が幻滅してなんかいないと伝えるために。
「わたしもね……時々泣いちゃうから。家に……前の家に、お母さんの遺影があったの」
「……うん」
こくり、と翠が頷いた。毛布がさらに両手で強く握りしめられる。
「ずっと大事に持ってた……今はもう壊れちゃってるけど……それを見てね、時々話しかけて泣いちゃってたの」
だから、おあいこ。そう伝えると、翠はまたうつむいて、大きな瞳から涙を流した。
白翅は右手を伸ばして翠の頬に触れた。
ひんやりとした白翅の手の冷たさが、悲しみで火照った翠の体温を落ち着かせていく。
「……ありがとう」
翠が頬に当てられた手に、自分の手の平を重ねる。
それからもう片方の手を優しく添えた。また、一筋の涙が流れ落ちる。
少しでもその気持ちを和らげたいと思っていることを伝えたくて。
だからこそ、白翅は翠に触れたのだ。まるで、切なさに吸い寄せられるようだった。
翠は白翅に今までずっと弱音を吐くことは無かった。翠は我慢していたからだ。
ただでさえ先行きが心配な白翅を安心させるために。
辛いのを我慢して、それでも元気を出そうとして、気持ちを押し殺して笑ってくれていた。その事がとても切なく白翅の胸に響いた。
「………わたしは口下手だから………上手く言えないけど……………」
うまく言葉を続けられない。この子は自分を責めている。それなら、自分が力になろう。この子の先輩である怜理の仇を討つことができたら、少しは楽になってくれるはずだ。
そして、自分は全ての真相が知りたい。
「翠が悲しくても支えたいの。少しでも、楽になってほしいの……」
ようやく言えた。白翅は口下手だったから、どうしても今まで言うことができなかった。
「……落ち着いた?」
「うん、ごめんね。いっぱい泣いちゃって」
翠がはにかむ。それでも、その表情はまだ悲しそうに見える。
「……いいよ……辛いのをずっと我慢するのは良くない事だと思うから。悲しいことは……いつまでたっても悲しいことだと思うから」
辛い事を無かったことになんかできない。
この子もわたしも、一人で置いていかれる事の辛さを、また大切な人を失うのではないかという怖さを知っている。
その怖さゆえに、元々人付き合いが苦手だった白翅は、母が亡くなってからますます人との関わりを避けるようになった。
大切な人を失った悲しみは和らいではくれない。ある日まるで水面に浮かぶように再び顔を出すのだ。
それは心にさざ波が立ったときだ。翠にとっては、悲しい変化が続いたからだ。
怜理の死も、その後に続いている苦労も。白翅自身、母を失った後、家を失い、今までの生活を失った。そして、今の状況はすぐには好転しない。
けれど、すぐに楽になれないのなら。
今はせめて補い合おう。心の傷を塞ぎあおう。
翠自身のことを話してもらえたのが信頼の証であるように感じて、白翅は少しだけ嬉しくなった。喜ぶべきではないことのはずだったのに。
「でも、わかってほしいの……私、白翅さんの事、本当に恨んでなんかいないから」
「うん。わかってる……」
「絶対に白翅さんのせいじゃないから」
二人で、静かに見つめ合う。翠のほっそりとした体がとても頼りなげに感じて、白翅は翠の小さな体をそっと抱きしめた。温かい感触がパジャマを通して伝わってくる。同時に、背中に手が回され、翠がぎゅっと抱きついてきた。
彼女を一人にしておきたくなくてその日は同じベッドに入って眠った。
翠がそれを拒む事はなかった。
泣き疲れてしまったのか、本人が言うように安心したからなのか、翠はしばらくして寝息を立て始めた。
頬に手を伸ばそうとして、すっかりキャミソールの肩紐がずり落ちてしまっている事に気づき、それを直してから頬に手を伸ばす。微かに熱を持っている頬は、とても柔らかい。
頬にうっすらと涙の跡が残っている。何かで拭ってあげたいと思うが、起こすのもかわいそうだ。
白翅はそっと、華奢な姿を何かから守るように、ずれた毛布をかけ直してあげた。今日は朝が来るまで、彼女には穏やかな眠りに微睡んで欲しかった。
(せめて楽しい夢を、見てくれるといいな)
白翅はそう素直に願った。
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