第九話 絡まる糸 case6
沈みかけの夕日が放つ閃光が、翠の澄んだ瞳の視界を横切った。
空は夕焼けが暗雲にところどころ覆い隠され、濁ったような橙色になっている。青紫色の小さなちぎれ雲がまばらになって浮かんでいた。
「こちら翠。異常ありません」
『椿姫よ。こちらも無し』
『異常なしです』
『……うん。何も来てない』
翠は、水崎家が入居しているマンションの屋上の床に右膝を立て、
構えるのは、特殊部隊からのニーズが高い、七・六二ミリ弾を使用するHK417
警戒という任務に、最適なポジションは狙撃手だ。だからこそ、翠達は訓練された技量を充分に発揮できる装備を与えられていた。
前方の少し離れた場所には、高さ四十センチほどのコンクリート壁が屋上一帯を囲んで張られていた。
フェンスの先の前方三百メートル先には、左右に向けて階層が上がるほど、部屋数が少なくなるように作られた八階建てのマンションがそびえている。右方向には、屋根にソーラーパネルを取り付けたクリーム色の壁を持つ低層の集合住宅群が並び、屋上に被さるように大きな影を落としていた。
この区画は最寄の鉄道の駅から離れた所に位置しており、奥に続く道の間を線路が長く横切って伸びていた。
右方向からの建物の影は、ライフルを運ぶために使ったツールケースと、翠の身体もすっぽりと覆い隠しており、ちょうどいい潜伏地点となっていた。
「警備のゆるい時に狙われなくて、本当に良かったです」
『茶花だったら好機とばかりに襲ってますね。ごはんは邪魔されないのが一番です』
『ほんとに、なんでかしらね』
『……警戒してる、から?』
「あり得るかもね」
六人目の部員である水崎玲菜は、現在の所、ただ一人サークルの中で誘拐の被害にあっていない女子生徒だ。
五人目の尾上真子が誘拐されたことが明らかになった段階で、警察の警戒態勢は厳重になり、自宅周辺にも覆面車両が捜査本部の手によって張り込まされていた。
水崎は今、自宅待機中だ。
マンションの周辺にも張り込みが行われている。この地区は警邏の警官の数も増員されていた。
そのため、敵が近づきにくくなっているのかもしれない。知能の無い異誕なら、気にも留めないだろうが、もし今回の犯人が『タグ』を使用しているだけの人間だったとすれば、警察官が多くいる場所で自分の痕跡を残すことを恐れるだろう。
迂闊に顔を見られれば、指名手配されるかもしれないからだ。
周辺に移動する不審な影は見当たらない。
時おり、見下ろす道を通り過ぎる人たちも、おかしな動きはしていなかった。狙撃
当然交替要員はいない。そのため、右足はつま先立ちのままでその上にヒップを乗せて座る、という姿勢で何時間も過ごしていたが、あまり苦にならなかった。
集中力は昔からある方だったからだ。変化してきた風速に合わせて、またライフルを調整した。生ぬるい風が翠の頬を撫でていく。
「……!」
急に翠の頭の片隅を違和感が襲った。本当に弱い感覚だが、間違いなくそれは異誕の気配だった。
思わず、本能的に目標の方角にライフルと自分の眼を向けた。ズームスコープに夕日の筋が一本斜めに横切った。
翠から見て十時方向。前方に見えるマンションと同じようなデザインの十階建てのマンション。そのかなり奥にそびえ立つ二十階建て近い高層住宅の建物の陰から、黒い点が二つの建物の間を縫い、ふわりと浮かび上がるかのような動きで姿を現した。
それは少しずつ大きくなっていく。
黒い何かが飛来してくる。鳥類などではない。あんなに大きいはずがない。距離から推測すると、明らかに軽自動車くらいのサイズはある。ストックの下を支える親指と人差し指に力が
「翠です!十時方向!五百メートル!何かが飛んできます!」
『……!』
無線の奥で全員が息を飲んだのが分かった。
ズームスコープが相手の姿を完全に補足する。
飛び出したような黄色い複眼。口元のギザギザのサメのような歯。脂ぎった毛の生えた大きな翼。全部で八本ある、太い木の根のような節くれだった脚。二メートル半ほどの大きさを持つ巨大なハエのような姿だった。地球ではなく、どこか別の星からやってきた虫と呼んだ方が適切な異形の姿。
それがこちらを見据える。目が合った。なんの感情も読み取れない、不気味な無機質さだった。呼吸を調整し、息を止めた。
翠は引き寄せるように、素早く、そして静かに引鉄を絞る。サイレンサー越しの押し殺したような銃声がHK417から放たれた。
PB合金で加工された七・六二ミリ弾が秒速七八〇メートルで空気を切り裂いて飛んでいく。
複眼めがけて襲い来る弾丸を、異形は体を前に倒すようにして避け、銃弾は虚空を突き抜けてあっという間に見えなくなる。
立て続けに四度、引鉄を絞る。対象はものすごい勢いで左右に揺れてそれを避け、こちらへと向かってきた。
(私が敵だって気づいてる……!)
狙いが水崎家にあるのかは分からないが、注意を自分に引き付けることはできたらしい。
翠はゆっくりと息を吐きながら、セレクタースイッチを三点バーストに切り替えた。片手でライフルから二脚のボルトを取り外し、地面に転がす。
バースト射撃で胴体の中央部分を狙って追撃する。押し殺した銃声が続き、銃身をコントロールしながら、敵の不規則な動きを追いかけるかのように銃弾を放ち続けた。
『シイイイイイ!』
口元の牙の間から糸を引く粘液をまき散らし、上下に素早く動いて、弾丸を回避。
脂ぎった翅の表面に、まるでできもののように何かが浮き上がっていく。そこから茶色の硬化した飛来物が飛び出した。
翠はとっさに大きく横に跳んで避けながらも、反撃を続行。弾丸の火線が空中に走り、翅めがけて集中する。翅を弾丸が
跳んで躱した足元に、茶色の尖ったものが突き刺さり、コンクリートの表面が砕け散る。
『今そっちに行ってる』
「ありがとう。持ち堪える!」
後方に連続で飛び退り、空調設備の陰に飛び込み、銃身だけ突き出してフルオート射撃で牽制する。
あっという間に弾切れになるも、片手で銃を保持しながら、P226を取り出し、利き手と反対の手で撃ち続けた。激しい銃声が市街地に轟き、空気を震わせる。
牽制によって生まれた隙をついて、HK417をリロードし、空調設備の側面に銃身を押し付けながら、銃撃を再開する。
視覚が多少制限されていても、異誕のエネルギーの流れである気配を追えば、ほぼ近い位置に弾幕を張ることはできる。
ガンガンガンガン!という激しい音ともに、空調設備が狂ったような異音を立てて唸った。敵が飛び道具を使ったのだ。
「くっ!」
反撃するうちに、
セミオートの片手撃ちを行いながら、翠は物陰から飛び出した。細い肩に鋭い反動が伝わってくる。スカートの左のポケットを探り、敵が飛ばした飛来物を身を低くして避けた。
口元に咥えた拳銃のマガジンキャッチャーに弾倉を押し込んだ。装填完了。
両方の翅から高速で飛来物が放たれた。両手の銃撃でそれを迎え撃つ。硬い音と共にそれが弾かれ、一瞬視界が塞がった。すぐそばに、耳障りな翅音が近づいて来る。
翠はとっさに拳銃をしまい、その場で頭から前転した。身を低くして巨大な虫の身体の下を潜り抜け、そのまま地面を滑って身体を横に回すようにして方向転換する。
空気が振動する感触が伝わってくる。そのまま伏せた体勢で銃身を持ち上げてライフル弾を連射した。回避が間に合わず、虫の胴体にPB加工を受けた7.62ミリ弾が突き刺さった。紫色の
その時、不意に羽音が大きくなったような気がした。立ち上がり、身を低くしたまま横に走る。さっきまで自分がいたところに茶色の飛来物が突き刺さった。横に転がり、飛んできた方向に狙いをつける。
背後の低いフェンスの上に、もう一体の虫が翅を鳴らして上下に動いていた。その近くでは、さっき追い詰めた一体が、紫色の体液を噴き出したまま、今にも屋上の床に落ちそうになっている。
敵の増援だ。この虫は一体だけではなく、何体もいる。負傷した一体が苦し紛れに、脚を振り回しながら、もう一度攻撃を放ってきた。
茶色の先が尖った飛来物が二つの方向から翠に迫った。フルオートで迎え撃つ。弾丸とぶつかった飛来物が床に散った。
視界の隅で撃ち落とせなかった攻撃が迫ってくる。翠の顔の近くに迫ってくる。とっさに首を横に曲げて回避した。コンクリートに飛来物が突き刺さる。片手を突いて横に転がり、反転する視界の中で銃身を横薙ぎに動かして連射で迎え撃つ。
一発、二発と続く弾丸が飛来する二連の飛来物を弾く。三発目の銃弾が、追撃を放つ直前の虫の眼前に音速を凌駕して迫った。一体の左目の複眼が貫抜かれ、体液が飛び散る。
(今!)
翠は拳銃をブレザーのポケットから抜くと、弱っている一体目の虫の頭部に空になるまで銃弾を撃ち込んだ。頭を完全に破壊し、再び後ろに跳び退って距離をとる。
『到着したわ』
「椿姫さん…⁉︎」
『茶花ここに推参』
『間に合った……?』
翠から見て右の低いフェンスの先、トタン屋根の建物を挟んで一つ離れた二階分ほど高い屋根の上。そこで白翅がグランドパワーK100を構えて立っていた。スリング付きのHK417はお腹のあたりに下げたままだ。そして、すぐ左の建物の屋上には椿姫が陣取り、十時方向のやや離れた建物の昇降口に、茶花がふわりと降り立つ。
全員、到着を早めるために、建物から建物へ飛び移り、最短距離を移動してきたのだろう。魔術士、特異体質、人外故の高い身体能力に裏打ちされた技量のなせる業だ。
もう一体の虫はすぐに攻撃に出ることなく、高く飛んでから感情のない複眼でこちらの出方を伺っている。そして……
「あっ」
『……ん』
虫は大きな体を空中に浮かび上がらせたかと思うと、その姿が空間ごと歪み、そのまま消え失せた。
それと同時に、翠が蜂の巣にした一体も、どろどろと身体が崩れていき、屋上の汚れた床に液体の塊となって、滴り落ちた。そして輪郭がどんどん薄くなり、やがて消えた。
「逃げた……?」
翠は奥歯を強く噛んだ。これでもう追跡は不可能だ。
屋根から間の建物を飛び越え、白翅がフェンスの上に降り立った。
そのまま、とんっ、とコンクリートの床の上に軽やかに着地する。拳銃は右手に握ったままだ。
「……消えちゃった」
「うん……白翅さん、大丈夫?」
「……大丈夫。翠はどう?」
白翅の抑揚のない声には心配が入り混じっていた。
「大丈夫だよ」
笑いかけると、白翅も口元を緩めた。目元が優しい雰囲気になる。くるり、と振り返り足元を確認すると地面に散らばった汚い茶色の飛来物の破片が目に入った。見ているだけで気分が悪くなりそうなそれは、夕陽を浴びて脂ぎった光を放っている。石のように硬かったそれは今はブヨブヨとしなびたように柔らかくなっていた。
「なんだろう、これ?皮膚?」
翠は無線で指揮車両に連絡を取り、やむを得ず敵の捕獲に失敗したことを不破に伝えた。
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