第八話 常人には向かない職業 case11

† † † †

埼玉県 JR三須架みすか駅付近 某所


 緩やかな振動が心地いい。

 快速電車の座席のシートに身をゆだねながら、川西優一かわにしゆういちは手にした文庫本のページをめくっていた。


 川西は今年大学生になったばかりだ。受かっているわけないと思っていた偏差値の高い国立大学に運よく現役合格を果たしたのだ。一方で、なぜか滑り止めには落ちていた。

 しかし、成果がどうであれ自分の努力の甲斐あってのことと納得した。

高校時代、自分を誘惑していたスマートフォンを両親に預け、無駄な時間を過ごすことなく、脇目も振らずに勉強したのだ。


 が、受験に合格した後は、彼はスマートフォンが提供する多くのコンテンツに興味を失っていた。流れてくるネットニュースや無料のWEBコンテンツがどれもつまらなく思えてきた。

 仮想現実で手に入るものはほとんど無かったし、せいぜいソーシャルゲームで多くの時間と、乏しい小遣いを無くした程度のことだった。


 その上、受験が終わる頃には、川西が夢中になっていたゲームは既にサービス終了していた。

多少落胆したが、今更夢中になれるような新しいコンテンツを探す気にはなれなかった。ただ面倒だったからだ。だが、彼は良い暇潰しを探す必要があった。なぜなら、彼の通う大学は東京都外であり、キャンパスに着くまで実家から片道二時間はかかったからだ。


 いきなり下宿暮らしは自分にはハードルが高い。まだ気分は高校生とさほど変わらない。現に今着ている私服も、高校一年生の頃から使っているものだ。身長は当時の百七十センチジャスト以降変化していない。

 川西は時間を無駄にしたくなかった。そして新たに見つけたのが読書という趣味だった。

 何度も試しているうちに、新しい情報を取り入れるのが心地良くなり始めていた。

 やはり紙の本が一番だ。手触りが良く、目に優しい。

 特に朝に講義が無い日は、こうしてのんびりと昼近くから登校できる。心持ちがとても優雅になった。


 今読んでいるのは、サニー・シェリーの「星散るハイウェイ」。

 元検察官が強盗団を組織して、警察の名刑事と渡り合う知能戦を描いたサスペンス。引き込まれる展開に思わず時間を忘れた。


 まったく、この著者のせいで、何度電車を乗り過ごしたか分からない。

 けれど、恨む気はない。むしろ時間を忘れさせてくれることには脱帽さえした。

それに、川西は自分が学習する生き物であると信じている。だからこそ、たまに本から顔を上げて、窓の外を確認している。

 快速電車の車窓の外の風景に変化は少ない。乗客の数も、時間帯のためかまばらだった。埼玉県の中心地から外れたビルが立ち並ぶ地域に、電車が差し掛かるが、それもすぐに後ろへと流れていく。川西は再び本の世界に戻ろうと、開いたページに目を戻した。

 次の瞬間、激しく足元が揺れた。

 抗いがたい力に引っ張られ、持っていた本ごと、横に引き倒され、隣の誰も座っていない座席にぶつかるようにして叩きつけられた。ゴトン、という音と共に、文庫本が手から飛び、床を転がって滑っていく。


「いっつ!なんだよ……」


 ぶつけた頭をさすりながらその場に思わず立ち上がった。電車が急停止したのだ。

 線路に人でも立ち入ったのか。アナウンスを待っているが、何も流れてこない。


「ーーーーーーーーーーー!」


 突然、はるか前方からものすごい叫び声が聞こえてきた。運転席がある辺りだ。更に大きな振動が川西たちを襲った。


「なんだ!なんなんだよ!」


 他の乗客たちも慌てている。さっきの衝撃で倒れてしまい、なかなか起き上がれないでいる者もいた。

 何人かが立ちあがり、携帯電話を取り出したはいいものの、握ったまま呆然としている。

 優一もポケットに思わず手を入れ、あまり触れたくなかった。スマートフォンを取り出した。どこに電話をかければいいかは分からないが、念のためだ。

 そして、取り落とした本が踏みつけられる前に回収しようと、電車の通路を歩き出した。

 そんな中、優一と同じ年頃の若い女性、おそらく大学生くらいだろうが……その女性が優一と視線が合った瞬間に固まった。


「え?」


 優一がきょとんとしながら言葉を発すると、女性が目を大きく見開いた。視線の向きからすると、自分からは少しずれた場所を見ているようだ。口が何かを訴えるように大きく開く。


「きゃあああああああああああ!」


 そして、絶叫した。

 驚きながらも、振り返り、そのままフリーズした。

 停車している電車の窓のすぐ近くに、真っ黒な肌を持つ何かが間近に迫っていた。  

 それは、巨大な身体を屈めると、その中央が真っ赤になった。中には白い杭のようなものがずらりと並んでいる。

 それは透明な糸を引いて、赤色がどんどん広がっていった。

 赤いものの正体は、巨大な口だった。そして白い杭のようなものは、口の持ち主の牙だった。

 窓ガラスが破られる。電車の壁が砕かれ、ガラス片と共に巨大な何かが侵入してきた。身体が意思に反して激しく震えだす。


 震える躰は動くのに、足だけがその場に縫い付けられてように動かない。周りの音が聞こえない。周囲の人々が何を叫んでいるのか理解できない。

 とにかく、怖いとしか感じることができなかった。

 ようやく、身体が命令を聞いた。背中を窓に向けて、ひどく緩慢な動きで車内に身体と入ってくるそれから逃れようとする。

 そして急に。下半身に力が入らなくなり、車内の中ほどまで行ったところで倒れた。


「ぐっ、」


 身体が床に叩きつけられる。手からスマートフォンが離れてどこかへ飛んでいく。

 頭が痛い。意識がひどく朦朧とする。車内で人が逃げ惑い、狂ったように非常停止ボタンを押したり、叫びながら窓から外に出ようと悪戦苦闘する人々が見える。それもすぐにぼやけていった。


 おかしいな。どうしてこんなにふらふらするんだろう。おれの身体はどうなった?

 何人かの乗客が自分を見て何かを叫んでいる。誰も手を差し伸べてはくれない。


「ね、ねえ。動けないんだ、だれ、かーーーー」


 通路の先に、見覚えのあるものが落ちていた。使い古したブックカバーの文庫本。何度か踏みつけられてしまったのか、表紙にかかっていたカバーには靴跡がつき、剥がれかかっていた。


────ひどいこと、するな……


 早く、立たなきゃ。取りに行かなきゃ。

身を起こそうとしたが、足腰が立たなかった。横に身体に力を入れて転がってなんとか仰向けになった。


────え…………


 無い。視線の先に、あるべき筈のものが無い。自分の膝から先が無い。

 膝の下はぶよぶよとした赤い肉片になっていて、そこから先には真っ赤な血の池が出来ていた。


「う、うわあああああああああああああ!」


 ようやく、声が出た。情けない叫び声が。無くなった脚のことだけではない。

 仰向けになったことで見えてきたもの。広い車内に大きな顔を突っ込んで、こちらにギラギラと光る牙を見せているものが、川西に悲鳴を上げさせたのだ。

 そいつは、口をくちゃくちゃと動かしている。巨大な口の端から見える色褪せたデニムには見覚えがあった。


────おれの、あし……


「やめて、」


 白濁したような大きな目が、ギラリとこちらを見据える。返り血に染まった顔が大きくあたりを見渡した。やがて、そいつは車内に大きく進み出た。

 大きな口が。真っ赤な口が迫ってくる。肩口に杭のような牙が突き立ち、力ずくで引っ張られた。ぶちぶちと何かが千切れる音が響き渡る。それに他の乗客たちの悲鳴が混ざった。吹き出した血が、車内の天井に、壁をペンキのように濡らしていく。


「ああああああああああああああ!手だけは!手は!てだけはやめてくれええええええええええええええええええええ!かえして、おれのあし返してええええええええええええええええええええええ!助けてくれえええええええええええええええええええ」


 泣き叫びながら、懇願する。再び床に投げ出され、視界が完全にブラックアウトした。

 なんだよこれ?なんなんだよこれは?どうして?せっかくツイてると思っていたのに。どうしてこんな目に。受かりさえしなければ。俺が第一志望に受かりさえしなければ。そうすれば、この電車に乗ることも無かったのに。


 そうだ、きっとここは夢の中なんだ。おれは途中で寝ちゃってて、しばらくしたらまた起き上がるんだ。そうに決まってる。

 サスペンス小説ばかり読んでるからこんな夢を見ることになるんだ。

 早く覚めてほしいな。大学に到着したら、友達にもこのことを話そう。きっと笑ってくれるだろう。そして、講義を受けよう。

 そういえば、サークルはどこに入ろう。楽しみだな。まあ、ゆっくり決めればいいか。目が覚めたら、ゆっくりと。


  川西優一の視界が真っ赤に染まった。

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