第八話 常人には向かない職業 case9
「ふう。やっと終わったあ」
新居の居間で額に滲んだ汗を拳の裏で拭い、翠は一息ついた。
「うん。これで全部」
玄関近くに解体されて立てかけられている段ボールを見つめていた白翅がその声に応えた。
春休みの事件の後、二人は、新宿にある警察庁が借り上げている官舎に引っ越すことになった。
白翅が謎の敵勢力に狙われている以上、一人暮らしさせるわけにはいかない。
また、特務分室に所属した以上、目の行き届く都内にいてくれた方が都合が良い。
それに、白翅には護衛兼パートナーが必要だ。
そんな理由から、二人は同じ家に住むことになった。翠の以前使っていた官舎はマンションだが、二人で住むにはやや手狭だ。
新しい家は三角の破風を持つ、洋風の小さな住宅で、狭いながらも芝生の生い茂る庭が付いていた。
レンガタイルを模した塀のある、適度に可愛らしいデザインだ。
光を入れるために、翠は居間の長方形の上げ下げ窓に近づく。大きな窓ガラスに、翠の姿が映りこんだ。
ブルーのタートルネックに、かなり短めのコットンパンツ。翠の基本的な部屋着だ。このまま外出もできる。
窓を開けると、白い陽光が室内を照らし出す。穏やかな陽気と共に、春の匂いが心地良く香る。
日当たりも良く、翠はこの物件には大満足だった。
白翅が実家から持ってきた荷物はとても少なかった。現地の警察に回収されていたものが返ってきたらしいが、使えるものだけを持ってきたらしい。共用で使う家具はある程度初めからついていたため、白翅に金銭的負担をかけることが無いことが分かり、翠は安心した。
翠は広めのキッチンに入ると、遅めの昼食を作ろうと、前の家から冷蔵庫ごと持ってきた食材を吟味し始める。引っ越しの
「ごめんね、白翅さん。お腹空いたでしょ?今、何か作るね」
「……それなら、わたしが」
部屋着に着替えた白翅がそれに応える。スレンダーな体型を燕脂色のキャミソールで包み、細い茶色のショートパンツを身につけている。実家から持ってきて、無事だった服だそうだ。
「いいのいいの。自分の食材のことはいちばん私がよくわかってるし」
笑顔で手を振る。
「なにか苦手なものがあったら言ってね。好きなものでいっぱいの食事の方が素敵に決まってるんだから」
「……ないよ。わたしの好きなものばっかりだと、栄養偏っちゃいそう」
「そっかあ。白翅さんは何が好きなの?」
「…………クッキー、あとはラスク」
ぼそっと、白翅が告げる。料理というよりかはお菓子のようだが……。甘いものが好きなのだろうか。それなら、翠も乳製品で甘いものが好きだ。今度、白翅のリクエストに応えてみるのもいいかもしれない。
「アレルギーは?」
白翅は首を横に振る。
「ない。…………私が風邪ひかないのと同じ、かも」
白翅の肉体の特異性によるものなのだろうか。いずれにしろ、好き嫌いが無いと色んなものを食べやすいということだから、それは喜ばしいことだ。
「じゃあ、すぐに作っちゃうね。お楽しみに!」
「…………なにか手伝う?」
「ううん。大丈夫」
白翅はなにか言いたげにしていたが、やがてゆっくりとキッチンのテーブルについた。
翠は鍋に火をかけると、調理を開始した。以前の電気調理器が一つ置かれているだけの猫の額ほどの台所と比べると、自由に身体を動かせる空間は快適だった。多様な料理が作れるというのもまたいい。
賞味期限の近い鶏肉に胡椒をふりかけ、その後から塩を振りかける。小麦粉をまぶしたのち、あらかじめ熱しておいたフライパンにバターを溶かし、両面に焼き色がつくまでじっくりと炒めると、それを取り出して別の皿にうつす。次に、フライパンにそのまま刻んだマッシュルームを投下した。
サワークリームに牛乳、少量の白ワインを加えて、それをオーブンで焼く。
三十分ほどして、鶏とマッシュルームのクリーム煮ができあがった。
最後に赤いパプリカを切って、自分と白翅の二人分の食器の上から振りかけて仕上げは終わりだ。
「完成!」
料理をしばらく見つめていた白翅が目を丸くしている。
テーブルには、近所のスーパーで買ってきた二Lのお茶がいつの間にか置かれていた。白翅がそれを二人分のコップにそれを移す。
「……上手だね」
「それほどでも。食べて食べて」
いただきます、と二人で手を合わせて口に運ぶ。まろやかな風味とコクのあるマッシュルームが口内に広がった。
「うん。上出来」
「……おいしい」
白翅が目を閉じて、ゆっくりと味わいながら感想を述べる。
「でしょ?私、これの舌触りが好きなんだ」
「……うちは和食が多かったから、こういうのは新鮮」
聞くところによると、白翅の料理のレパートリーはそこまで多くないようだった。そのへんのお店で買ってきた安い弁当や、魚を焼いて食べる程度だったらしい。あまりこってりしたものは好きではないそうだ。
「朝は、よくコーンフレーク食べてた」
「好きなの?」
「うん。サクサクしていて、甘いから」
そういうものなのだろうか。翠は朝はしっかり自炊する方だった。父が朝食をよく抜く人だったので、翠は心配したものだった。母の料理を真似て作ってあげたこともあったが、朝からとてもこんなに沢山食べられないと困った顔をされてしまった。
怜理に迷惑をかけたくなかった。急に転がりこんでしまい、慣れない事をたくさんさせてしまったものだ。だからせめて、手を煩わせないように、食事くらいは自分でなんとかしようと思って身に着けた技術だった。
怜理が一人で過ごすのが好きなことはなんとなく察していた。
だから、何もかも面倒を見てもらっているのは申し訳なく思っていた。
相棒や先輩としてだけでなく、親としての負担まで与えてしまったことを。
自分の世話は自分でできるという事を示さなくては、きっと彼女は安心してくれないだろう。そう思ったから、慣れない家事を積極的に覚えた。それを怜理がどう思っていたのかは分からない。怜理は家事が苦手だったそうだから、少しでも助けになっていただろうか。
「朝ご飯、私が作ったら食べれそう?」
「うん。大丈夫」
二人で、食事当番のシフトをどうするかをしばらく話し合う。結論として、決められた予算の中で自炊もしくは店屋ものでやりくりすることに決定する。
生活費も二人の給料から同じ額だして賄うことにした。
時折会話を挟みながら、食事は進んでいく。明日はいよいよ学校だ。自分たちが入学式に出席することのできなかった。
翠は自分が奇妙な感覚に囚われていることに気が付いた。
────なんだろう。
不思議だ。一人で暮らしていた時よりも、ずっともの寂しい気がする。どうしてだろう。白翅と二人で生活を始めていくはずなのに。
それを表に出さず、翠は笑顔を絶やさずに、会話を続ける。
────どうして…………
ああ、そうか。翠は一人で納得した。
一緒に暮らしていなくても、怜理がもう居ないからだ。一人居なくなって、もう一人が増えても、減った分は無くならないからだ。
ずっとずっと、減ったまま。ただ、それだけの簡単なことだった。
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