第九話 絡まる糸 case2

『暴力を振るうのに悪意なんて必要無い。解放を望む意志さえ、ほんの少し有ればいい』   —————発信者不詳




 遠くから、微かにウミネコの鳴き声が聞こえてくる。

 灰色のコンクリートの壁で囲まれた室内は、五月の初旬だというのに寒々とした空気に包まれていた。


 室内は殺風景を極めていた。

 存在する備品は、スチール製の硬い机と、不破が腰かけているパイプ椅子。そして、真向いに設置されている、特殊な椅子だけだ。窓には鉄格子が嵌められており、手狭なのも相まってひどい閉塞感だった。

 この場所で暮らす者達、そして暮らすことを強制された者達は、往々にして外の世界の季節とは無縁の生活を送ることになる。

 ここは、東京都管轄の、絶海の孤島に存在する収容施設だ。三十年ほど前には小さな村があったが、そこが廃村になってからは国有地となり、その後に今の建物が造られた。


 用途は通常とは異なり、刑が確定した者の更生を目的としておらず、何らかの事情があって、普通の収容施設に収監することのできない収監者達を住まわせている。

裁判を経た者も、そうでない者も。この施設は、国家が「外に出すべきではない」と判断した者達を、閉じ込めておくためだけの場所だ。



 不破の向かい側には、『顔裂かおさき』連続殺人事件の犯人である、森下麻衣もりしたまいが座っていた。

 森下麻衣は、拘束ベルトのついた大きな椅子に、両手と両足を拘束され、疲れたように項垂れている。


 四月に起こった、三件の猟奇的殺人事件。異端対策特務分室のメンバー達の奮闘のおかげで、生きたまま被疑者を拘束することができたのは、取り調べに当たるスタッフ達にとって幸運だった。

 なぜなら、初めて『認識票タグ』を使用する犯罪者から自白を引き出す機会を得られたのだから。


 特務分室の遭遇した、複数の犯罪者が使用する認識票タグ

 それは、原理は不明だが、使用者を人ならざる化物、「異誕いたん」に一時的に変化させるという機能を持つことが判明している。開発者は現在のところ不明。

そして不明ということは、いつか誰かが解明しなくてはならないということだ。


『妊婦殺し』の「楠原芽衣くすはらめい」、「リヨン」、「ミミ」、「リリーナ」。そして目の前に座る『顔裂き』、「森下麻衣」。


 現在のところ、分室が把握している『タグ』の使用者はこの五人だけだ。

 三月の末、分室のメンバー達が遭遇した事件で、初めて認識票タグは特務分室にその存在を知られることとなった。

 妊婦連続殺害事件の犯人である楠原が、逮捕前の凶行をエスカレートさせて、再び起こした殺人事件。

 病院から逃亡した楠原は、今度は逮捕されず、敵の私兵が使うグレネードで殺害された。おそらく、口封じされたのだろう。楠原を生かしておく価値が低いと思うのは不破も同じだが、それは楠原が自白した後のことだと思っていた。


 認識票タグについての情報を、少しでも掴んでおきたかったからだ。

 しかし、その後に現れた刺客達が逃走したため、事件の手がかりはそれ以降途絶えたかに思われていた。が、その一方で、白翅、そして分室のメンバー達を襲った敵は、必ず再びやってくると不破を含む全員が確信していた。


 当時の状況から考えて、用意周到に準備を整えていた敵たちが、この一回で諦めるとは思えなかったからだ。


 第一目標であった筈の白翅を、敵は確保できていない。

 それに加えて、刺客の一人、『リヨン』を翠に殺されている。

 分室のメンバー達は重要なメンバーである盾冬怜理たてふゆれいりを失った以上、手を下した者達をそのままにしておくつもりは無い。しかし、それは敵も同じ気持ちのはずだ。 

 仲間を殺された以上、奴らは引き下がれない筈だ。

 必ず、近いうちに向こうも次の手を打つに違いない。そう考えていた。


 そして、その次の一手が麻衣の起こした事件だったのだろう。だが、不可解なことに、今回は他にタグを使用する刺客達は姿を現さなかった。

 以前、楠原が潜伏していた廃工場に分室が突入した際は、しばらくすると武装した刺客達が、私兵集団を伴って現れた。楠原は分室のメンバーを誘き出すためのおとりだったと推測できる。


 しかし、今回はノータッチ。どうして敵の増援が来なかったのだろう。囮で無いのなら、なぜ森下に事件を起こさせたのか。敵の意図がどうにも読めなかった。

 だからこそ、この取調べは、その背景を探るためのものだった。

 向かい側に座る麻衣の両目はどんよりと濁っている。眼球の白目の部分は血走り、赤い毛細血管が浮き出していた。艶の失われた髪には脂が浮き、明らかに消耗しているように見える。


 逮捕された当初、警察病院に移された後、精密な検査を受けた麻衣は、しばらく特殊病棟で拘束された状態で治療を受けた後、即座にこの収容施設に移された。

 今回の事件が非常に特殊なものであるからだ。

 治療の一環で不自然な点も散見されたが、その点についての追求は後回しにし、今はとにかく情報を得ることに専念する方針を不破はとっていた。


 いざという時のために用意していた自白剤を使うという手もあったが、これ以上、森下の脳にダメージを与えたくはなかった。森下麻衣の身を気遣っている訳では無い。ただ、効き目が強すぎて、正確な自白が得られなくなるのでは本末転倒だからだ。

 今は取り調べ三日目。細かく内容を分けて、そのテーマに沿って取り調べを行っている。


「さて、森下麻衣。今日の質問は特殊だ」

「……はい?」


 相変わらずどんよりと疲れた目を不破に向けて、麻衣は返事をした。

 ここ数日で、非協力的な態度をとっても、損しかしないことはたっぷりと教え込んだ。そろそろ、一番聞きたいことを聞くタイミングだ。


「お前は何者から認識票を受け取った?」


 鋭利な強い眼で、目の前に座る殺人犯に問いかける。


「睨むような目つきが気に入らない」と何度か様々な者に言われてきたが、そんなセリフを吐いた相手は、全員後悔させてきた。

 海外の暴力団員を取調室で泣かせ、時代遅れの過激派のメンバーは、交戦になった時に銃で穴だらけにして血の海に沈めた。公安時代のダメな見本の先輩は、他国のスパイのハニートラップにまんまと引っかかっていたところをリークして、信用できないとして更迭させた。


 人は単純なことにこだわるものだ。目の前の森下麻衣のように。

 彼女だって、自分と似た顔が気に入らないというただそれだけで三人を殺害した。  

 森下を気に掛けていた友人を含めて。


 長い沈黙の後、麻衣は話し出した。


「顔はよくわからない。名前も言ってなかった」

「直接受け取ったんだな?」


 僅かに頷く。

 それは、一番目の犠牲者となる牧村洋子と、日曜日に遊びに出かけた日の帰りだったという。このあたりから洋子との付き合いにはうんざりしていたのか、経緯を話す  

 麻衣の口調は疲れたような響きが感じられた。不破は正確に、二人が辿ったルートをメモし、タブレット上のマップに印を付けていく。後でウラをとるためだ。 

 やがて、話は目黒の繁華街で二人が別れ、商店街付近のビル街を歩いているところにまで差し掛かった。


『そんなに彼女が憎いか?』


 夕闇に沈みかけた、路地裏近くの道で、森下は不意にそんな声を耳にした。あたりを見渡すが、だれもいない。


『おまえの眼の中に憎しみが見える。深く深く……強い憎しみだ』


「空耳かと思った。どこから聞こえてきたのかわからないような声だったから。けど、違ってた」

「声は?男か女か?歳はどのくらいに聞こえた?」

「女だった。歳はわからない。お婆さんではないと思う。ううん。おばあさんかも。あれは魔女だったかもしれない。幽霊かも。だって姿が……」


 不破が立ち上がり、スチール製の机を靴で蹴り飛ばした。衝撃を受けた机が、動けない森下麻衣の胴体を直撃する。森下がうめき声を上げた。


「おい三人殺し。はぐらかさずに真面目に答えろ。主張を次の瞬間にひっくり返すな」


 机を戻しながら不破は吐き捨てる。


「お、ばあさ、ん、じゃなかった……」


 苦しみながら、森下が訂正した。

 少しでもいい加減な返答を許すとこうなる。取調べは一度甘い顔をすると、証言の内容はどこまでも曖昧になる。主導権を握っているのはこちらだ。


「話をそらす自由を与えた覚えはないぞ。さっさと続きを話せ」


 机を戻さず、不破は続ける。ここに入る以上、弁護士は呼べない。だから、多少の無茶は許されている。


 突然かけられた声の主を探していた森下は、ビル街の路地裏の暗がりに足を踏み入れた。その時、突然後ろから何かが音を立てて足元に転がってきた。

 そこだけ夜が早くやってきたかのような、暗い闇の中で目を凝らすと、それは真鍮色の認識票タグだった。


『おまえはいい手駒になってくれそうだ』


 声がまた聞こえてきた。その声はあちこちに反響して、いったい相手がどこにいるのかわからない。周りまたぐるぐると見渡そうとすると、急に近くで声がした。そう、森下麻衣の背中のすぐ後ろから。


『そのままで聞け』


 後ろを振り向いてはいけない。そう感じた。本能的に。振り向いてはいけないものがそこにいる。まるで、振り向いた瞬間に勝手に首が千切れてしまうのではないか。 

 思わずそんな考えが浮かぶほどのすさまじい圧迫感が急に森下の身に押し寄せてきた。


『それを使いたいと強く心に望むだけだ。それだけで、お前は解放される』


『憎いんだろう?彼女が。なら、それを使って、したいようにすると良い』


 そして、声が消えた。麻衣は、力が抜けて、その場に膝を付く。

 急に、左手が冷たいものに触れた。それは、道に転がっていたタグだった。


「手駒?」


 不破が尋ね返した。


「はい。手駒だって。意味はわからなかったけれど、憎しみがどうとか、なにか言ってた」

「怪しいとは思わなかったのか?」

「怪しいのはわかってた。けど、あの時は本当に、あの人がなんとかしてくれるって思ってた。だって、私のことを見抜いたんだから。私があいつを憎んでいることを」


 森下が顔を上げた。血走った眼は、ギラギラとした光を取り戻しつつあった。


「誰にもバレないように隠していたのに。見抜いたから。洋子は知らなかった。私がもう洋子の事を恨んでるってことを。好きでもなんでも無くなってることを。本当は洋子から逃げたかったのに。できなかった。けど、あれをくれた人のおかげでやっとできたんだ。ようやく、スッキリした気分になれると思ったのに。なれなかったよ。私は苦しみから解放されたかった。大嫌いになった洋子からも。大嫌いな自分からも。ざまあないよ、殺してやったんだ。大きなお世話だったんだ。洋子は私をイラつかせるために出て来たんだから死ねばいい」


 ぼそぼそと言葉を続ける。洋子の名前を出すたびに、森下麻衣の顔は、様々な感情を滲ませて歪む。


(可哀そうにな)


 不破は心の中で、洋子を哀れんだ。彼女は知らない間に地雷原に飛び込んだ。親切に声をかけただけなのに。今の世の中は、良い人間ばかりが逆恨みされる。


 そして、洋子を殺した後、しばらくは普通の生活が続いた。しかし、途中から、なぜか森下の精神状態は再び悪化した。同じように母の浮気相手と同じ顔である自分を葬り、同じような顔をした人を殺したくて仕方がなくなった。そうでないと自分の顔を抉ってしまいそうだったからだ。が、そうするよりは、似たような他人の顔を引き裂く方がマシであることもよく分かっていた。だからそうしたのだ。


 そして、一週間後、普通郵便で森下宛てに封筒に入った書類が送られてきた。

 中には、自分と似た特徴を持つ女性たちの顔写真や、その生活パターン、居住する地域などの個人情報が記された書類が入っていた。数は全部で九人分。

 更に、変装に必要なグッズまで。

 送り主は、「さあ、もっと殺せ」と森下を促しているかのようだった。楽になるために、森下は次の犠牲者を殺した。けれど、数日後にはまた発作を起こしたかのように殺したくなった。


「我慢できなくなったの、前よりも、ずっと強く、そう感じるようになった」


 更に質問を続ける。それ以降は、非協力的な態度をとることなく、森下は供述を続けた。やがて一時間が経ち、話を不破は締めくくった。


「また来るかもしれない。その際は協力するように。拒否権は与えてないぞ」

「ねえ、刑事さん」


 椅子から立ち上がろうとする不破を、森下の、疲弊してぼんやりとした声が呼び止めた。


「私はいつになったらここから出られるの?裁判は?弁護士は?なんて言ってるの?おじさん達は?」

「君は失踪したことになっている」


 キョトンとした表情を浮かべる。しかし、事実なのだから仕方ない。おじさんたち、というのは森下の後見人となっていた親戚たちの事だ。


「失踪?」

「言葉を繰り返しても現実は変わらんぞ。そうだ、失踪だ。扱いに困った、表沙汰にできない犯罪者はそうすることになっているんだ。上層部の決定でね。君はそのうちの一人だ。ちなみに、おじさん達はあまり心配していない様子だった。良かったな。これ以上、誰にも迷惑をかけないで」

「……そっか」


 森下麻衣は少し俯いた。長いため息が聞こえた。


「最近、夢に洋子が出てくるの」

「聞いてもいないことを話さなくていいぞ」

「夢の中に出てくるそこは、広い平野みたいなところで、こっちを向いて離れたところから、洋子がずっとこっちを見ているの。それでしばらくすると、両手を」


 その動作を再現するかのように、森下は両手を下げたまま横に広げてみせた。


「こんなふうにするの。そしたらその両側に、二人が、私が殺した二人の女の人が洋子の両手を掴むの。洋子はずっと悲しそう。それでなにも言わない。ずっとずっとこっちを見ているの」


 脳に残ったまだ癒えぬダメージのためか、それともショックのためか、森下は幼児退行したように拙い口調で、たどたどしく喋り続ける。


「こっちをずっと見ているの。悲しそうに。ずっと見て、何も言わないの。私はそこから動けない。ずっと動けない。そのまま朝になるまでずっと……」


 暗鬱な口調で吐き出していた悪夢の話を、麻衣は締め括った。不破は、自業自得だ、と言いたくなるのを懸命に堪えた。強い副作用があるとはいえ、そんな得体の知れないものに、強制された訳でもないのに手を出したとわかった時点で、不破は同情する気を無くしていた。


「私じゃなくてカウンセラーにでも言いたまえ。私がまた来たら、手配することができるかもしれない」


 半分は気休めだった。これ以上、麻衣から聞き出せる情報は無い。治療が終わっても釈放は絶望的だ。社会復帰するには彼女は人を殺しすぎている。

 自分のヒールが立てる音を聞きながら、退出し、ドアを閉める。

 ドアの近くには、青い制服を着た体格のいい職員が三人、短機関銃MP5Kを持肩に掛けて立っていた。三人は警察が管轄する、この収容施設に所属する職員であり、警備部から派遣されてきた当番の職員だ。収監者が暴れた時のために、それを取り押さえるための訓練も受けている。


「終わりましたか」

「ええ」


 固い表情だ。取り調べの過酷さがドア越しにも伝わっていたらしい。

 二人がそこに残り、もう一人が不破を出口まで案内する。迎えの船が来るまでは、まだ時間がかかるだろう。

 ガタン、と。背後のドアの向こう側で何かが倒れる音がした。


「洋子お、洋子お、嫌だよ、出て行け!出て行けよお!私の頭から出て行けよおおおおおおおおおおおおおお!住み着くな、住み着くなああああああああああああああああああぎゃあああああああああああああああああああああああ!呼ばない、助けなんて呼んでやらない、呼ばないからああ、ごめんなさい、ごめんなさい、救急車呼ぶから、携帯を貸して!誰か携帯を貸してよお!洋子、洋子、ごめんなさいごめんなさい!、いやだ、死んじゃえ、そのまま死ねよ!私を見るなああああああああ!」


 凄まじい絶叫が聞こえ、がんがんと激しい物音がした。

 音の鈍さからして、スチールの机に頭をぶつけまくっているのだろうか。そういえば、机を元の位置に戻していなかったな、と不破は思い出した。蹴とばしたままにしていたか。

 簡単に死ぬことはないはずだった。自分がやらなくても、職員が止めるだろう。

 それに、謝るのなら牧村洋子だけではなく、他の二人にも謝らなくてはならないのに、どうやら麻衣はそれを忘れているようだった。随分と身勝手な話だ。自分に甘い人間を、不破は軽蔑していた。

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