第九話 絡まる糸 case1

「他人のことなのに、こっちまで落ち込むとは思わなかったよ」

「でも優しい証拠よ、それって」


 高校からの帰り道、近くの商店街を抜けた先の大通りで、百合ゆりはため息交じりに本心からの答えを返した。長く伸びた二つの影の片方が、悄然と力無い姿を路面に晒している。居残って二人で勉強していたから、少し遅くなってしまった。


 スマートフォンの時計は夕方の五時半を回っている。

 坂本百合さかもとゆりはいつもの通学路を、いつもとは違うメランコリックな気分で歩いている。夕暮れの空を、三羽のカラス達が呑気に鳴きながら飛んでいく。

 ガツガツしているように思える鳥たちなのに、今日は随分と余裕がありそうな態度で、百合ゆりはほんの少し羨ましくなった。それは自分の、いや、自分達の気が重いことも関係しているのかもしれない。


 原因は友人の尾上真子おがみまこの話題のせいだ。別にそれを恨めしく思うわけではない。むしろ同情しているし、本人と同じくらい悩んでいるつもりだった。

 真子まこが困っている原因も、真子自身に何か非があるというわけではない。


 友人の困りごとの内容は少し複雑だ。

 真子には中学受験のために奮闘する弟がいる。名は俊樹としきという。

半年くらい前までは成績の調子が良かったらしいのだが、最近芳かんばしくなく、成績は落ちる一方らしい。


 また、本人の中でも志望校の水準の高さについて思うところがあったのか、このまま、当初の予定通り、第一志望を受けるかどうか迷い、弱気になっているのだという。そして彼は塾に、同じ志望先を持つ友人がいるのだが、弟は志望校のレベルを下げるかもしれないとその友達に伝えたらしい。


 するとそれに反発する友人と軽く喧嘩になってしまったのだという。また、真子としては弟に肩入れしているようなのだが、そのことを弟が家族会議の際に両親に伝えると、両親は六年生で、これからという時になんで、と猛反発したらしい。

 そのことに関する相談、というよりもいわゆる愚痴を聞かされていたというわけだ。


「俊樹の言い分はわかるんだよ……。四年生の頃からずっと頑張ってきてたけど、かなり無理してたみたいだからさ……。やっぱりきついよねって。あたしも今年……じゃない、来年受験じゃない?だから努力の塩梅ってのはわかるんだよね。この分なら、レベル下げたほうがいいな、みたいなのはさ」

「けれどもご両親は納得しないでしょうね……」

「うん。けれど、俊樹からすれば、友達と揉めて、次は親と揉めるわけでしょ。私としては、どうにか庇ってあげたいんだ」

「もう一度説得してみたら?時間をおいてもう一度。俊樹さんも考え方が変わってたりするかも」

「今回の場合、変わることは良いことなのかな……。本人が無理してるし……まあ、時間かけてなんとかしていくしかないか」


 電気屋や、中規模の百貨店が立ち並ぶ通りを抜け、建物の少ない、入り組んだ路地の中を通り抜け始める。

 話が終わる頃には、二人はいつも別れる住宅地の道路に差し掛かっていた。

 そろそろお別れの時間が近づいていた。

 百合の自宅があるのも、もう少し先だ。いつも、真子が途中まで送っている形になる。


 今日は真子とSNSアプリで会話しない方がいいかもしれない、という思考が、ぽつりと百合の中に浮かんだ。

 なんとなく、今日はそっとしておいてあげた方がいいような気がした。


「それじゃあね」


 かけられた声に我に帰ると、いつもの分かれ道のところに到着していた。どうやらぼうっとしていたらしい。ここはもう、百合の家が見えるくらいの距離だ。


「うん、それじゃ、元気出してね」

「ありがと!また明日!」


 振り返って真子が手を振る。真子は細面の顔に笑顔を湛えていた。柔らかそうな愛嬌を感じる、ちょっと賢そうな顔。こちらも笑顔で手を振る。

 こちらに背を向け、真子が歩き出し、しばらくして、道路の角を曲がって姿が見えなくなった。

 百合は自分の家に向かって歩き出しながら、携帯端末をいじってゲームを起動した。すると、


「わ?!う?、ああああああああ!」


 微かに、けれど、かなり大きな声で悲鳴が聞こえてきた。叫びの残滓ざんしが長く糸を引く。

 それがつい先ほど別れたばかりの友人の声だと気がつくや否や、百合は端末を握ったまま走り出した。

 真子のもとに辿り着いて、どうするかは決めていなかった。ただただ夢中で走る。 

 友人と別れた道路の角を、疾走して曲がり、その先へ。ふと空を仰いだ時、毒々しく赤い夕暮れの空が目に入った。


 真子の家までのルートを思い浮かべながら、歩道を走る。やがて、とあるマンション近くのゴミ置き場まで差し掛かると、少し先の路上に、茶色の学生カバンが放り出されていた。駆け寄って鞄の前に屈みこむ。ストラップのように取り付けられたお守りには、確かに見覚えがあった。


『家内安全』


「真子……」


 百合はお守りを見つめながら、ただ呆然とそう呟いた。

 ポケットの携帯端末がアプリゲームの通知音を鳴らした。

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