第六話 名も無き末裔 case33

 窓の外から見える桜の木が、そよぐ風で揺れている。

 翠は病室の中で、身支度を整えていた。


 いつものカーディガンに、太腿が見える丈のスカートを下着ショーツの上から身につける。脚の付け根近くにはうっすらと、まだ癒えぬ傷跡が残っていた。

 包帯の巻かれた左手で、スカートの裾を引っ張り、太腿の外側の傷跡に被せ、服装をしっかりと整えた。


「よし」


 個室のドアを開ける。それから、病室の中へ向き直り、お辞儀をした。


「お世話になりました」


 翠は広い廊下を歩き出した。

 ここは、都内の救急病院だ。

 敵にマークされている可能性を考えて、今回は警察病院ではなく、別の病院を使う事になったのだ。自分たちの身体の特異性については固く口止めしてもらっているらしい。


 昼下がりだからか、院内はかなり賑っている。

 椿姫はまだ入院中だ。茶花もそれに付き添っている。さっき様子を見てきたが、体調は少しずつ回復をしているらしい。

 翠が入院している間に、もう高校の入学式の日付は過ぎてしまっていた。残念ながら、入学式に出られなかった。


 このあと数日は、警察庁が手配してくれたホテルに泊まることになっている。

 退院したのち、しばらく襲撃を警戒するため、分室のメンバー達は単独で自宅に帰ることを禁じられていた。


 廊下をようやく抜け、正面玄関を出る。白い陽春の光が、眩しく目を差してくる。

 舗装された道を、一人で翠は歩いていく。

 広い駐車場を抜けると、門柱の近くに誰かが立っているのが見えた。


「退院……」


 細く澄んだ声がかけられた。間に何かを言おうとしたのか、不自然に言葉が繋がれる。


「………できたんだね」

「うん。私も丈夫にできてるから」


 軽く胸を叩く。少し痛い。


「良かった…………」


 白翅は安心したように、表情を和らげた。紺色のワンピースを着て、手には小さな鞄を下げていた。


 彼女は翠よりも数日早く退院していた。異誕である翠達よりも早く回復したという事実を、翠は病室で聞いて驚いたものだ。

 翠も笑いかけた。なんだか、この子の安らいだ表情を見ると、こちらも気持ちが緩んだ。


「迎えが来るまでもう少しかかるって」

「…………そっか」


 これから二人は、早速手配された宿泊先に向かう予定だった。今日、メールで不破から連絡が来たのだ。


「ちょっと待ってようか」

「うん…………」


 病院の屋外の休憩スペースに二人は移動すると、二人は、自販機でジュースを買い、腰かけた。

 降り注ぐ春の陽光はあまりにうららかで、変わったものなんて何も無いかのように感じられた。


 それでも、確かに変わってしまったのだ。

 だって、こんな時にはいつも怜理がそばに居てくれたのに。

 今はいないのだから。


 ミルクセーキの缶のふちに口をつける。ひんやり、と冷たい感触が唇に伝わった。

 冷たくて、甘い。けれど、いつもの方がもっと甘かった気がする。

 二人は黙ったまま、ベンチに腰掛けていた。周りには誰もいない。

 桜の木が桃色の花びらを散らしている。散った花びらが数枚、風に吹かれてどこかへ飛んでいく。


「……ごめんなさい」

「え……?」


 思わず隣を向くと、白翅は俯き加減でジュースの缶を、膝の隣に置いていた。

 やっとのことで絞り出すような声で、白翅は言葉を継いだ。


「謝っても許してもらえないと思うけど」

「白翅さんが謝る事なんて……何もないよ」


 翠は懸命に言葉を紡いだ。


「ちがうの……わたしのせいで……わたしが巻きこまれたせいで……」


 彼女の細く身体が小刻みに震えている。


「わたしに関わったせいで、こんな事に……私が一人で逃げていれば……」


 そう言って、白翅は言葉を切った。うつむいた頬に涙が光っていた。翠の胸は、痛いほど締め付けられる。


「わたしが……捕まってたら……怜理さん、も…………生きてた……」

「……それは違うよ」


 怜理が亡くなったことを、絶対に彼女のせいにしたくなかった。

 そのことで、傷ついて欲しくなかった。怜理を殺したのは、白翅ではないのだから。


「あの人達はわたしを狙ってやってきた…………わたしがいなければ」

「違うよ!」


 泣かないで欲しかった。この子の涙を見ていると、翠まで悲しみで押し潰されてしまいそうだった。

 翠が今、一番感じている気持ちを。それが少しでも救いになって欲しいと思いながら、言葉を紡いだ。


「私なら、大丈夫だから」


 翠は笑って見せた。できる限りの笑顔で。


「だからそんなに傷つかないで」


 白翅が、ゆっくりと顔を上げる。


「わたしは……今、あなたにどう言葉をかけたらいいかわからない」


 私もだよ、もっと、うまく言葉にできればいのに。


「……でも、はっきりわかることがあるの」

「……なに?」


 言葉を待つ。白翅が、涙に濡れた紫の目を拭う。


「敵を止めないと、倒さないとどんどん状況が酷くなる。きっと、また狙ってくるはずだから。……だから、わたしに協力させて」


 あの後、逃亡した敵の刺客達は、ついに捕まらなかった。

 混乱した指揮系統では検問を行う余裕が無かった。だから逃亡を許してしまった。

 現在も捜査中だが、行方はいまだに分かっていない。


 しかし、敵が白翅をこのままにしておくとは思えなかった。

 おそらく、また戻ってくる。

 今度こそ、目的を果たすために。

 そして、白翅は、そうさせないために戦おうとしている。


 白翅はそういうことができる子だ。だからこそ、自分たちを助けるために、戦いにやってきた。


「私達に協力したら……もう引き返せなくなっちゃうんだよ?」


 戦えば白翅は、これからももっと傷つくだろう。敵が次にどんな手段に訴えてくるかわからない。それを、翠は最も案じていた。


「もう……決めたことだから」

「……危険だよ?ほんとうに……危険な事なんだよ?」


 活発さの消えた声で翠は告げた。分かりきった事実を、ただそのまま伝える。


「……構わない。自分だけ安全なところにいて、不安になるのはもういや……。

 それはいやなの。自分が何もできないせいで人が傷つくのも……。でも私一人じゃきっとなにもできない……だから……お願い。……私も闘わせて」


 抑揚に乏しいながらも、はっきりとした声で白翅がそう告げる。


「それに……自分を助けるために頑張ってくれている人達の脚を引っ張りたくない」


 どうしてか涙がこぼれそうになって、翠はしばらく言葉に詰まった。

 やがて、やっとのことで言葉を絞り出す。


「……うん。わかった。白翅さん」


 この子を否定しても、この子が辛くなるだけだろう。本当は自分達だけでなんとかしなくてはいけない問題のはずだ。それなのに、白翅が力を貸してくれることが嬉しかった。


「ありがとう……」


 それっきり黙ってしまう。どう続ければ分からないようだった。


「……よろしくね、これから」


 小さな手を、翠は差し出した。包帯の巻かれていない、右手を。そうして、また微笑んだ。

 白翅は、感情に乏しい表情で、唇を固く結んだ。そして、またいつもの表情にすぐ戻ってしまった。白翅の白く冷たい手が、翠の右手を包み込んだ。


 この子はきっと、自分で自分に課した責任から逃れられない。未熟な翠が何もできなかったせいで。怜理が亡くなり、この子は戦いに身を投じる事になった。

 きっと、翠が必死に止めても、この子は気持ちを変えないだろう。

 だったら、自分にできる事は。


「あいつらを倒して、あなたを助ける」


 翠はそう宣言する。今までで一番強い思いを乗せて。


「あなたを助けて、あの人達を倒す」


 白翅は、それに応えた。

 自分にできるのは、この子と共に戦うことだけだ。

 包帯の巻かれたてのひらの傷が、切なく痛んだ。

 翠にはそれがまるで、涙が染み込んだかのように思えた。

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