第四話 名も無き末裔 case18

 翠は幼い頃、自分の祖父のことを、ただ無邪気に良い人だと信じていた。

 自分が生まれた時には、いつも眉間に皺の寄っている顔を、その日はずっと綻ばせて喜んでくれたのだそうだ。そんな人は良い人に決まっていた。


 だが、彼が喜んでいた本当の意図を知ったのは、かなり後のことだった。

 翠は何代も前に、一族の遺伝から消えた筈の緑色の虹彩を持っていた。

 それは、壬織家の数代前の当主が娶った、とある人型の化物────

 即ち、現在でいうところの、異誕いたん生物せいぶつと同じ色のだった。


 祖父は翠がある程度言葉を喋れるようになると、時々、休日に呼び出され、彼女に質問をする様になった。

 当時の翠は、祖父の思惑など露知らず、彼は忙しく、滅多に家に帰れないから、自分と時間を取りたいのかもしれないと思っていた。


 会うたびに祖父は変わったことはなかったか、とか、最近不思議なことはなかったか、と尋ねるようになった。

 当時の翠は、意味がよく分からないなりにも、母親が料理の腕を上げた事や、父親が仕事の事でよく難しそうな顔をしている事、幼稚園で先生に褒められたことなど他愛もない出来事を記憶から掘り出しては伝えていた。


 そうした答えに、祖父は初めは頷いてくれていたが、途中からは期待が外れたような様子で、話を聞き流していたように思い出せる。翠はそれが不思議で仕方がなかった。

 ある時、祖父の部屋から出ようとすると、廊下の角を急いで曲がろうとする父親の背中が見えた。その様子は、翠が出てくることに気付いて、慌てて立ち去ろうとしたようにも感じられた。


「……パパ?」


 誤魔化しきれないと悟ったかのように、父親はちょっとこっちに、とだけ小声で言って手招きした。

 そのまま後を付いていき、父親の書斎に招かれると、父からは「いつも、おじいさまとどんな話をしているんだい?」と尋ねられた。


 父は輸入品販売の会社を経営していた壬織家みおりけの婿養子だった。

 自分が話した内容についてしばらく話していると、時々、ああ、その話この前も言ってたね、と相槌を打ちながら聞いた後、安心したように翠を部屋に返した。


 それから一年が経った頃から、父親と祖父は頻繁に揉めるようになった。

 翠の目の前で衝突するわけではなかったが、父親が部屋にいない時に、祖父の部屋から語気の荒いやりとりが聞こえてくる事が何度もあった。


 当時はよくわからなかったが、後から内容を思い返してみると、祖父の会社の経営方針について揉めていたようだった。激しい口調で言い募る祖父に対する父親の返答も、だんだんと呆れを含んだものに変わっていった。

 そして翠が八歳になる頃、一族最後の事業が失敗し、ついに一家は破産した。


 塞ぎがちになった祖父は、大病を患い、僅かに残った彼の持分の資金は治療費に消えた。翠達一家は普通の住宅に引っ越し、仕事も変えて生活せざるを得なくなった。

 その時期に、翠の身体にも、ある変化が訪れていた。


 今までとは比較にならないほど運動能力が高くなり、力が強くなった。見た目には何の変化も無いのに。

 そして、そのことを相談すると、母親から伝えられた。自分の家系の真実を。


 翠の家系は先祖には人間と変わらない姿をした人外がいて、一族は昔、その力ゆえに恐れられ、権力を持つようになった。その影響力で商売を成功させ、今に至ったのだという。

 現代になって、結局潰れてしまったのだが……。おそらく翠は、その人外の血を色濃く継いでるのではないか、と母は言っていた。そして、自分の身体のことは秘密にしておかなくてはならない、と釘を刺された。


 母によれば、翠の外見に、遠い先祖の人外の遺伝が強く現れている事を知った祖父は、これをかつての繁栄の再来と受け止めていたらしい。

 彼はある信仰を持っていた。それは壬織家の子孫に、栄えるきっかけとなった人外と同じ特徴を持つ子供が生まれてくれば、家はかつてと同じように再び繁栄するという信仰だった。彼はこの言い伝えを、どこからか調べてきて、勝手に信じ込んでいたようだ。


 当時、事業に連続して失敗していた祖父は藁にも縋る思いで、言い伝えを当てにしていたらしい。翠に人外としての特徴が現れれば現れるほど、一族は勝手に繫栄していくと考えていた。翠に色々と尋ねていたのは、そういう裏があったからだった。 

 しかし、翠の肉体が人外に近い特性を帯び始めたのは、皮肉にも彼が亡くなった後だった。


 翠は自分がそんな、幸運を運ぶ座敷童ざしきわらしのような存在だとは思えなかったし、同時にそうでないことが少し残念に思えた。

 そして、祖父は期待通りの存在にならなかった自分の事を、亡くなる直前にどう思っていたのだろうかとも考えた。

 彼は、自分の事がもしかしたら好きではなかったのだろうか。

 彼はもしかして……良い人ではなかったのだろうか。


 自身の身体に秘密を抱えながらも、翠達の平穏な日々は続いた。

 贅沢はできなくなった。それでも良かった。両親が自分を支えてくれていて、大切に思っている事はよく分かっていたからだ。


 しかし、そんな日々は唐突に終わりを迎えた。

 翠はある日、小学校のクラスメイトの誕生日会に参加して、いつもより遅くに帰宅した。玄関のドアを開けると、両親の靴は有るのに、なぜか、家の中には明かりがついていなかった。


「……?」


 不審に思いながらも、靴を脱いで、廊下を歩き、キッチンへと向かった。


 がん。がん。がん。

 ぐちゃん。ぐちゃん。ぐちゃん。


 奇妙な音を立てながら、誰かが卵形の何かを、何度も何度も食卓のテーブルに打ち付けている。

 あまりに異様な光景に、頭が目の前の事態を認識できなかったのだろう。

 闇の中の人影が手に持つそれがなんなのかを、認めることを翠の脳が拒んでいた。

 ぶちゅ、と卵型のそれが潰れて、中身が漏れ出す。


「ありゃ。潰れた。これハズレだ」


 それの先にはひどく細い管のようなものが付いていた。その下は、よく見えない。

 何かが下から伸びて地面に伏せている……いや、あれは……そこには。


 頭のない誰かがいた。


 そんなわけない。

 それが自分がよく知っている誰かであることを認識するのを、意識が全力で拒絶していた。


 あれがお母さんのはずがない。

 お母さんの頭はどこにいったの?

 お母さんの頭が見当たらない。


「………めて」


 あれは違う。

 そいつの掌には、見知った誰かのものと呼ぶにはかけ離れた形をしたものが、ぐちゃぐちゃに潰れて握られていた。

 泥のように何かがぼたぼた垂れている。


「やめてええええええええええええ!」


 翠は思わずその人影に飛び掛かった。

 次の瞬間、身体が跳ね飛ばされた。殴られたのだ。小さな躰は吹き飛んで、冷蔵庫にぶつかった。冷蔵庫が横倒しになり、衝撃で開いた引き出しトレーが、外れて床に放り出された。

 飛び散った冷凍肉が、コンロの近くの床に転がって、水音を立てた。

 コンロのすぐ側には、父親が仰向けに倒れていた。腹部から何かが溢れだし、床に黒い水溜まりを作っていた。


「喧しい。コレクションがピーチクパーチク喋るか?ギャーギャー喚くか?」


 翠を殴ったのは、派手な化粧を施した年齢不詳の女だった。

 何のことを言われてるか分からず、痛みに呻く翠に、相手は母の血に塗れたテーブルを片手で持ち上げると、容赦無く細い肢体に叩きつけた。

 それからは、一方的な蹂躙を受けた。


 女はガラドという、人型の異誕だった。数百年を生きて、海外から日本に渡ってきたのだ。

 後ほど分かった情報によると、祖父は没落を受け入れられず、様々な事業に手を出して失敗していた。が、破産したため、負債を全額返す必要は無くなった。


 しかし、彼は悪あがきとして非合法の金融業からも金を借りていた。

 もう取れる金が無いと分かると、その金融業者は債権を回収できない腹いせに、ある情報をガラドに売ったということらしい。そいつは警察にマークされていて、表立って動けない代わりに、自分の代わりにガラドに報復させたつもりだったようだ。

 ガラドは闇社会に紛れ込み、非合法な品物を扱うブローカーとなっていた。


 そして、ある情報とは、祖父の家系の秘密についての事実だった。

 ガラドはコレクターだった。蒐集癖を持っていた彼女は、様々なものを集めていた。

 コレクションの中には、珍しい動物や、人身売買や誘拐によって手に入れた人間も含まれていた。

 増長したガラドは、ついには珍しい人外のコレクションを欲しがるようになった。蒐集家としての欲望がエスカレートした結果、最初に混血を集めることにしたらしい。それが翠だったのだ。


 拉致された翠は、気が付けば、暗い部屋の中で手足を錠で拘束され、大きな檻の中に入れられていた。


 身体が重い。全身に力が入らず、倦怠感と疲労に包まれている。身体の血が全て溶けた鉛に変わってしまったかのようだった。

 人外の膂力を持つ翠の抵抗を封じるため、ガラドは猛獣狩りの際に使うような強力な麻酔薬を彼女に投与していた。

 翠を攫った異誕は、翠の身体の自由を完全に奪い、気が向けば拷問のような暴行を加え続けた。

 大量の薬品を投与されたり、食事を抜かれるなどの虐待を受けた。

 翠は泣き叫びながらも、毎日のように頑丈な金属で作られた拘束具を破壊しようと試みたが、投薬のせいか身体が動かず、ろくに抵抗することもできなかった。


 終わりの無い地獄は、唐突に消え去った。

 ある日、頑丈な扉が吹き飛ばされ、部屋の中に光が差し込んだ。

 そこには一人の女性が立っていた。

 意識が朦朧とする翠に女性は急いで駆け寄ってきた。手に何かを持っている。氷でできた、水晶のようにキラキラ光る、氷の槍。女性はそれで、簡単に格子を切断した。


「大丈夫?私達が助けに来て運が良かったよ、キミ。良かった……ほんとに。生き残ったキミの勝ちだ!偉いよ!」


 女性は少し涙ぐんでいた。

 何故だろう。嬉しいのに、返事をすることができない。喉が声を出そうとしない。


「そうか、キミも、混血なんだね」


 安堵のためか、急激に意識が薄れていく中、そんな声が聞こえた気がした。



 真っ暗な寝室の中で、翠は跳ね起きた。ここは椿姫の屋敷の客室の一つだ。

 翠はここで怜理達と泊まり込みで白翅の警護をすることになったのだ。


「う……」


 痛む頭を掌でそっと抑えた。寝間着はぐっしょりと寝汗で湿っていた。

 時々、こうして昔の夢を見る。けれど、なんで今なのだろう?

 しばらく考え、原因を思い当たる。……おそらく、白翅に自分を重ねてしまっているのだ。ある日突然、何もかも奪われてしまった女の子。

 ……自分と状況が似ているからだろうか?人間と組んだ化物に狙われ、かろうじて救助されたという状況が。


 でもよかった、とほっと小さくため息をつく。少なくとも自分とは違って、白翅の家族が殺された訳ではなかったから。

 もしそうなら、白翅はなおさら辛い思いをしていただろう。

 そう考えて慌てて考えを打ち消した。

 今何を考えた?

 彼女の苦しみを自分の尺度で測れるわけがないのに。何を考えてるんだろう。

 なんで安心した?

 家族を殺されなかった?

 だからなんだというのだろう?家族を殺された自分よりかはマシだとでも?


 彼女が不意に生活を壊された事には変わりないというのに。

 ……それに巻き添えになった人もいるというのに。

 白翅の身体の検証が終わった頃、白翅には詳しく事件の概要を伝えた。その時に、彼女は言ったのだ。


『他に、誰か怪我したりしなかった?』


 と。白翅は巻き込まれた人がいないかを心配していたのだ。

 嘘はつけなかった。だから、代わりに怜理が伝えたのだ。近所に住んでいた老夫婦が亡くなったと。そうすると、白翅は明らかに傷ついた表情を浮かべた。


『白翅さんのせいじゃない』


 翠はそう言ったが効果はあったのだろうか。


「……なんてひどい子なの、私」 


 闇の中で、呟きは誰にも聞かれることなく消えた。


 翠自身も経験が浅いとはいえ、異誕に襲われ、かろうじて生き残った人を見た事は何度かある。

 手足が不自由になった人や、後遺症の残った人、いまだにトラウマに苦しんでいた人もいた。でも自分と比べてどうだったか、なんて考えたことは一度もなかったはずだ。なぜこうも心に強く引っかかるのだろう。

 不意に、ドアがノックされる。


「は、はい」


 返事をすると、声が震えた。少し涙ぐんでいたことにようやく気が付いて、指で滴を慌てて拭った。

 ドアに向かい、ノブを回すと、薄明るい照明が室内に差し込む。目の前には、ダークスーツに着替えた怜理が立っていた。


「翠、起きてた?悪いけど、仕事が入った」

「仕事?」

「異誕事件かもしれない。すぐ来てって。とりあえず、途中で警察庁に寄ろう。現場は都内だから。田舎だけど。で、準備が終われば分室の事務所に白翅ちゃんを預けていく。家を空けた時に狙われたらかなわないからね」


 翠は寝間着のまま部屋を出た。鼓動がひどく激しくなった。

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