第三話 名も無き末裔 case11

 病院の匂いは嫌いだった。今までで、良い思い出が何も無かったからだ。

 天悧白翅は、母親が体調を悪くしてからというものの、よくお見舞いに通っていた。病気が重くなり、ベッドに寝たきりになった母はいつも心配そうにしていた。


『そんなに来なくても大丈夫よ。心配ばっかりしていると、あなたの方が病気になってしまうわ』

『お母さん、わたし、病気したこと、無いよ……』

『そうね、けど、これからはわからないでしょう』

『………うん』

『そんなに不安そうな顔しないで。大丈夫だから、ほら』


 結局母は亡くなってしまった。わたしは丈夫でなくてもいいから、お母さんに死なないでいて欲しかった。



 ひどく瞼が重い。ここはどこだろう?いつのまにか、病院の嫌な匂いがしなくなっていた。

 目を開く。見上げた白い天井には、厚みのある幾何学模様があしらわれていた。背中に当たるマットの感触も、ベッドもとても柔らかい。


「………?」



 身を起こす。広い部屋だ。自分がいつも使っていた寝室の三倍くらいの面積がある。家具は全然置かれていない。少し埃っぽいが、落ち着いたパステルカラーの壁板や、上品に整えられたインテリアからして、どう見ても、病院の部屋ではなかった。

 寝室?そういえば……?

 思い出す。自分の家。

 窓が破壊される。

 眼を爛々と光らせた巨大な獣が飛び込んでくる。

 暗闇に紛れる迷彩服に、銃を持った男たち。飛び散る赤い血。


「う……」


 脳裏に押し寄せるフラッシュバックに、激しい頭痛がした。それから逃れたくて、視線をあちこちにさまよわせる。

 ここはどこだろう。自分はあの後、町中を逃げ回ったはずだ。

 そして、自然公園の中に入って、やり過ごそうとして、その後に……小柄な影が近づいてきて……。

 その後、ここにいる。

 部屋には花柄の上品なカーテンがかかっていて、外を見ることができない。

 分厚いカーテンを開けると、外はすっかり夜になっていた。

 芝生を敷き詰めた広い庭が見える。敷地の真ん中には、水は出ていないものの、大きな噴水まであった。

 窓には頑丈な錠がかけられている。振り返って部屋のドアを見ると、そこには張り紙がされていた。

 少し遠いが、これくらいの距離なら近づかなくても見える。


『起きたらドアをノックすること。窓から飛び降りたりしたらダメよ』


 綺麗な字でそう書かれていた。

 ベッドから降りると、腹部がじん、と痛んだ。いつの間にか、服は見慣れない寝間着になっていた。服を少し捲ってみると、白く綺麗な包帯が巻かれている。


「キズ、だいぶ、治ったのかな……」


 頭がぼんやりする。自分はどれだけ意識を失っていたのか。

 朦朧としつつも、ドアに近づいていく。誰が、どうして自分をここの部屋に連れてきたのだろう。


「……」


 悩んでいても仕方ない。それに、ここは嫌な感じがしない。

 ゆっくりと、ノックした。何回も、何回も。

 そうして二分ほど経った頃だろうか。誰かが階段をゆっくりと昇ってくる音が聞こえてきた。緊張し、喉がわずかに苦しくなった。

 誰かが部屋の前で立ち止まる気配がした。

 コンコン、と柔らかくノックが返ってきた。


「入っていい?」


 柔らかで、元気そうな、少し甘い声。どこかで最近、聞き覚えのある声だ。


「うん」


 後ろに下がると、ドアが開いた。

 女の子が立っていた。

 純白のカーディガンに、艶やかな太腿が見える丈の赤いチェックの短めのスカートを身に着けている。

 背丈は中学生かと思うほど小柄だった。

 とても愛らしい顔立ちをしていて、ぱっちりとした目はまるで若葉のような緑色だ。

 黒く短い髪の左側をブルーの髪留めを二本付けている。


『大丈夫だからね。私はあなたの味方だよ。私の声、わかる?』

「……あ」


 思い出した。そうだ、公園で会ったのはこの子だ。心配そうな顔をしていた、あの子。


「……ありがとう」


 口をついて、言葉が出た。


「なんのこと?」


 女の子のぱっちりとした目がさらに大きくなる。


「……昨日手当てしてくれたの…あなただったと思うの………違う?」


 小柄な少女が、嬉しそうににっこりと笑う。優しそうな笑顔だった。全身に微かに残っていた緊張がほぐれていく。


「うん。私だよ。どういたしまして。でも応急手当てだけだから。後はお医者さん達にお任せしちゃったし。傷、まだ痛む?」

「………ううん」

「そうなんだ……痛み出したら遠慮なく言ってね。プロじゃないけど、簡単な処置なら教わってるから」


 こくり、とうなずく。


「お医者さん達へのお礼なら私達がしておいたから。もし白翅さんから言いたいならまた今度ね」

「………うん」


 この子は、私の名前を知っている。

 どうして?聞きたいことがたくさんあった。けど、何から尋ねればいいか分からない。だから、とりあえず頭に最初に浮かんだことを言ってみた。


「……わたし、逮捕されるの?」


 目の前の少女が急に黙った。返答に困っているようだった。なんとか言葉を探そうとしている。


「それは……」

「私、人を殺したの」


 ぽつり、と言葉が虚空を漂う。事実を淡々と告げる。間違いない。

 自分は人を殺したのだ。しかも、一度にたくさん。


「やっぱり、あなただったんだ」


 少し間をおいて、小柄な少女が言う。


「わかっていたの?」

「警察の人が、そうじゃないかって」


 この子は警察の情報を知っている。どうして?

 まさか、もうニュースで流れてる?私の事が?この子は警察関係者?だから私の名前を知っているの?でも、とても警察官には見えない。


「でもね、あなたは銃で撃たれて、とても傷つけられた。反撃しなかったら……今頃あなたはここにいなかったと思う」


 少女が、はっきりとした声音でそう告げた。


「……わたし、どうなるの?」


 少女が、目を閉じる。何かを考えこむように。


「今のところはわからない。でも、私達はあなたを助けたいの。だから、信用して欲しいな」

「……うん」


 今の状況は不安だ。けれど、必死に向き合ってくれるこの子の事は、信用できる気がしていた。


「わたしが怖くないの?……人殺しなのに」


 しっかりと、少女は白翅の眼を見つめ返してきた。


「怖くないよ。だって……私もきっと同じことするから」


 柔らかな声がそう告げた。

 一瞬、今の言葉を発したのが目の前の少女であるとは信じられなかった。

 が、それを忌避する気持ちは芽生えなかった。

 ただただ、その事実に驚いただけだった。


「あなたをここに連れてきたのはね、白翅さんから事件の話を聞くためなの。それ以上のことは何もしないから、信じてほしいな」


 そして、ついてきてくれる?とドアに視線を向ける。こことは別の場所で話を聞きたいということなのだろう。


「……うん」

「ありがと」


 少女はにっこりと微笑んだ。


「私は、壬織翠みおりすい。翠って呼んでね。白翅さん」

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