第二話 名も無き末裔 case5

† † † †


官舎から電車を乗り継いでやってきた渋谷駅を出て、しばらく歩くと、傾斜のかかった道に差し掛かる。

 住宅の間隔がかなりまばらになり、一つ一つの家が占める敷地面積が大きくなり始めた。


 坂を昇って行った先には、閑静な高級住宅地広がっている。

 古風な見た目の屋敷が、複数立ち並ぶ一角を曲がると、穏やかな風を浴びて、桜の街路樹から散る花びらが、ゆっくりゆっくりと灰色のアスファルトを彩っていた。

 まるで桜並木のところだけ時間の流れが違うかのようだ。

 あまりにも緩やかな動きで宙を舞う桜の花弁の動きが、翠にそのような錯覚を覚えさせたのだろう。


 やがて住宅地の突き当りに、大きな邸宅が見えてきた。

 千坪ほどの敷地の中央に、英国の領主館を模した本館がそびえ立ち、正面には立派なポーティコが据え付けられている、パラティオ様式の屋敷だった。

 日本の首都が東京になる前は、ここには日本家屋が立っていたのだという。

 ただ、今のこの屋敷の持ち主の風貌には、今の外観が似合っていると、常々つねづね翠は考えていた。

 黒い鉄の門の前で、インターフォンを鳴らすと、キンコーン、とチャイムの音が敷地に響いた。


『はあい』


 しばらくすると返事があった。屋敷の主のものとは違う、眠そうな、ぼんやりとした印象の声だ。


「こんにちは。翠だよ。茶花ちはなさん、お土産があるんだけど。良かったら食べない?」


 手に持った白い紙箱を、インターフォンのカメラの向こうに、見えるように掲げてみせる。

 怜理と昨日行ったカフェで買ってきたものだ。


『遊びにきたと。どうぞ、玄関までテクテクと』


 言われた通り、門を開け、広い庭の芝生を進んでいく。

 螢陽家で暮らした全ての人々の歴史が刻まれた屋敷は、この土地の名士にふさわしい風格を漂わせていた。

 敷地内の庭園を横切ると、堂々と咲き誇ったピンクや赤の椿の花が、訪問者を歓迎した。

 この屋敷の今の主が腕によりをかけて手入れしたものだ。

 正面玄関の階段に足をかけた時、玄関の扉が開き、そこから誰かがひょっこりと顔を出した。

 鳶色の眼に、鎖骨まで伸ばした同じ色の髪。眠そうな目をした、スラヴ系の少女だった。

 翠より、十センチ近く上背がある。だが実際は、茶花は翠よりもかなり歳下だ。


「ようこそ、さあ、お土産を」

「あわてないでよ……」

「この匂いは、チョコ」


 両手を差し出して目を輝かせ、現金な態度をとる茶花。そして彫りの深い顔をこちらにずい、と突き出し、くんくんと匂いを嗅ぎながら翠の身体の周りを回り出した。


「翠の身体の中からも同じ匂いがします。昨日も同じものを食べましたか」

「わかるの⁉」

「今のは冗談です」


 眼を細めて、しれっと茶花が答えた。相変わらずマイペースだ。

 いつも通りすぎて、むしろ安心してしまうくらいだ。


「チョコケーキがやってきました」

「どういうことよ」


 玄関ホールを抜け、左に曲がった先の広々としたリビングでは、この屋敷の主が優雅に紅茶を飲んでいた。


 ゆったりとした椅子に腰かけたまま、少女が翠を迎える。

 精緻に造形されたように美しい顔立ちをした螢陽椿姫は、相変わらず令嬢にふさわしい気品を漂わせていた。


 暖炉を模した見た目のヒーターから、少し離れたところに置かれたテーブルの端には彼女が通う高校のテキストが置かれていた。

 椿姫は窓から差し込む白い陽光に、その長身をゆだねていた。


「こんにちは、翠。春休みは充実してるみたいね」

「はい、今は特に。あれ、椿姫さん、今日は茶花さんとお揃いなんですね」


 椿姫は上品な白いブラウスに紺のスカートという装いで、確かに出迎えてくれた茶花と同じ服装だった。


「ああ。あの子が着てんのはあたしのお下がりよ」


 砕けた口調で、椿姫がカップを持ち上げる。


「捨てるのはもったいないし。あんまりそのサイズの服、長く着れなかったのよね」

「茶花がおしゃれに興味なくて良かったですね。色気より食い気なので」


 紙箱を少し乱暴な手つきでこじ開けながら、茶花が嘯いた。


「食い気に興味を無くしてくれるとなお嬉しいわ」

「それでは茶花が嬉しくありません」


 取り出したチョコレートケーキを、茶花が皿に分けていく。


「紅茶入れたげるわ」

「はい。ありがとう」


 翠ははにかんだ。似たようなやりとりは今まで何度もやってきた。そしてこの気楽な時間が翠は好きだった。



「いい味ね。……チョコレートの風味が濃厚だし」

「そうでしょう?チョコアイスも売ってましたよ」

「怜理さんといっしょに行ったんですってね」

「はい!楽しかったですよ」


 怜理と一緒に暮らしていた頃は、よく遊びに連れて言ってくれていたが、最近、翠は遠慮していた。

 が、やはり少し寂しがっていたことを怜理は察していてくれていたのかもしれない。

 そう考えると素直に嬉しかった。


 椿姫がテレビを点けて、全員がテーブルに着いた。

 さっそく茶花がフォークでケーキを突き刺し、一気に半分切って頬張る。


「ハムハム。今度茶花はちも行きましょほふ」


 食べてから喋りなさいよ、と椿姫が口をナプキンで上品に拭いながら窘める。翠は、あはは、と声に出して笑った。


「人の数だけチョコがある。それがこの世の真理です」

「翠、分かってるとは思うけど、話四分の一くらいに聞いてればいいわ、茶花のことは」

「もう慣れました。茶花さん、どんどん難しい言葉、覚えていってるね」

「ハムハム。そういえば、この前貸してもらった本、読破しましたよ」


 一週間ほど前に、茶花に本を貸していたことを翠は思い出す。

 ビル・S・バリンジャー「歯と爪」だ。


「どう?面白かった?」

「はい。痛快でした」

「そう?私は切なかったなあ」

「私も読んだわ。茶花の後で」


 お喋りが続いていく。翠はこんな時間が大好きだ。


「翠もそういえば、ついにあたしと同じ校舎になるわけか」


 翠と椿姫が通う私立城山女子学院は、厳密には同じ中高一貫校だが、一つの敷地の中で中高それぞれ校舎が分かれている。

 そのため、二人が校内で顔を合わせることはほとんどなかった。

 しかし、これからは接する機会も増えるだろう。


「今のところ、みんな学校バラバラみたいなものだからね……」

「茶花はそもそも通っていませんでした。ですので、困ったその時は学園生活のノウハウを翠と椿姫さんに教えてもらいます」

「正直ちょっと心配だわ……」


 チョコケーキを切りながら、眉をひそめる椿姫。翠は苦笑した。


「……?むしろ、椿姫さんは嬉しいのでは?」

「どうしてよ」

「後輩が増えて良かったですね、という話です。しかも一気に二人も。おトクですよ。出血サービスです。栄養満点」

「どう喜べと。新鮮味のかけらもないじゃない。見知ったメンバーよ。一人は同居人だし」


 今さらでしょ、と椿姫。茶花は事情があって、学校に通ったことが一度も無い。現在の彼女の教育レベルを鑑みて、中等部一年生として入学することになる。


「いろいろお世話になります。これから毎日会えますね」


 翠がおどけてみせると、椿姫は小さく唇を尖らせた。


「なによ、あんたもあたしに友達が少ないって言いたいわけ?忙しいんだから仕方がないじゃない」

「可愛い後輩に時々ご飯奢ってくださいね」

「あんたは頻繁にウチでタダでご飯食べてるでしょーが!」

「愛されてますね、茶花は」

「あたしは時々、あんたとなんで一緒に暮らしてるのかわからなくなる」

「まあまあ、二人とも……」


 翠がとりなすと、椿姫がため息をついて会話が途切れた。


『次のニュースです。千葉県N市の住宅街で発生した殺人事件について……』

「ああ、これ。まだやってたのね」


 リポーターが伝えているのは、つい昨日の事件だ。

 千葉県の片田舎の町で、マンションから転落死した男性についてだった。

 当初はただの自殺かと思われていたが、後に近隣住民が警察を伴って部屋に入ると、もう一人の遺体が発見されたという事件。


 部屋の中で殺害されていたのは、彼の友人で、仕事が休みの日に、部屋で二人で酒を飲んでいたらしいが、なんらかのトラブルがあって部屋の主である友人を殺してしまい、切羽詰まってその後飛び降り自殺したらしい。


「歩道に落ちたのよね。良かったわ、歩いていた人に当たらなくて」

「……ほんとですね。できたら自首してくれたらよかったんですけど」


 翠はただ液晶を見つめる。

 レポーターは死亡した二人が個人的な金銭の貸し借りで揉めていたことを告げていた。

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