第二話 名も無き末裔 case2
202X年 三月 岐阜県S山 中腹付近
影が音も無く、夜の林の中を通り抜けた。
風に乗って聞こえてくるのは、微かな虫の鳴き声だけだ。
まるで、それ以外の生物は存在しないかのように、闇に包まれた山道は静かだった。
斜めに菱形の隊列を組んだ四つの人影が、傾斜のついた山道を静かに、されど迅速に進んでいく。洗練され尽くした機敏な動作は、見る者があれば、長年の訓練によって培った技量を確かに感じさせるものだった。
極限まで殺した、四人それぞれのパターンの足音が闇に吸い込まれる。
先頭を行く、
緩やかな傾斜を登っていくと、やがて視界の中に二階建ての洋風の木造の建物が飛び込むようにして現れた。
門や塀は無い。全体的に、造り自体は大きく感じられた。壁の表面に塗られたペンキはところどころ剥げており、経年による劣化が目立っている。
しかし、一番目立つ特徴が新たに増えていた。
住宅の戸口は破壊され、そこにはドアが完全に無くなっていた。
「こちら怜理。目的地に到着。これより建物内に突入する」
『了解しました。お気をつけて』
不破分室長の、年齢の割に貫禄のある声が無線の奥から聞こえてくる。
「チビ達のお守りは任せてよ」
「私はもうチビじゃありませんけど……」
背後を振り返って苦笑する。
そこには自分と同じように苦笑している小柄な姿があった。
その後ろには声を発した
更にその相棒である、
全員が闇に紛れるために、黒いBDU戦闘服を身に付けていた。
「ごめんごめん」
謝りながら、片手を振る。
「よっし!じゃあ行きますか」
「了解です、怜理さん」
「いい返事。さすが翠」
小声での会話を終え、再び足音を殺すと、前に右手を出し、左手で間接を掴んで固定する。
怜理を先頭に再び隊列は動き出した。
一週間前、山の麓にある小さな町で、飼われていた家畜が立て続けにいなくなる事件が発生した。
そして、今度は民家が破壊され、中にいた住民達が次々と殺害された。
死体はどれも激しく損壊されており、全身の肉があちこち
当初は熊などの害獣の仕業と睨んだ猟友会が、警察と共に捜索を行っていたが、数日後には山狩りを行ったメンバーが一人を残して全滅していた。
地域自治体はたちまちパニックとなり、岐阜県警が本格的に調査した結果を上層部に報告すると、県警本部長は警察庁長官に電話を掛けた。
その結果として、怜理達が派遣されることになった。
理由は単純だった。猟友会の生き残りが証言した猛獣の姿は、おおよそ熊の姿とはかけ離れていたからだ。
彼女達は所属する
業務内容は主に、化物退治。そして、その中でも怜理がリーダーを務める
銃を構える翠と共に、怜理は建物の裏口に回り込んでいく。事前の
一度深呼吸すると、闇に沈む廊下を進み、一階を左右に分かれて確認する。
途中、同じく一階を確認し終えた椿姫ペアと合流し、一旦、外へ出て、周囲を確認するように頼んだ。敵が建物の外に出ている可能性を考慮して、外から襲われないようにしたかった。
再び二手に分かれると、二階に続く古い木の階段を慎重に昇り始めた。
「椿姫。二階に行くよ」
『分かりました』
訓練された特殊部隊員である二人は、足音を完全に殺して、階段を昇った。
もう電気の通っていない古い家だ。人が住まなくなった家は急速に朽ちていく。階段の手摺は、触りたくもないほどボロボロに朽ちている。
所持したデジタル時計を確認すると、もうすぐ午前零時。
明かりは周囲に一つも無い。
それでも、何かに躓くことなく、怜理達は進んでいく。二人が持つ、優れた視力のおかげだ。
こういう時に、怜理はいつも自分の身体に感謝することができる。
後ろで、翠の息遣いが聞こえる。緊張しているらしいが、呼吸自体は安定した様子だった。
「……」
怜理は階段を昇りきる直前で、ハンドサインを出して翠の動きを止めた。
廊下の闇の奥。
そこから、『気配』が漂ってきていた。
こういうのは直感的に分かる。そう、自分たちには。
今回の敵は自分の存在を隠す気は無いらしい。濃い闇の中に、大きな何かが、座り込むような姿勢でこちらを凝視している。
ただ、漂う気配の鋭敏さから、怜理達の存在にも気づいていると見ていいだろう。
手摺に身を隠しながら、向こう側を覗き込む。
怜理は素早く手を前に出した。
同時に、何かが後ろから、怜理の頭を飛び越えて飛んでいき、廊下の床にぶつかった。
次の瞬間、爆発音を立てて、眩い閃光を放ち、廊下の闇を弾き飛ばす。
『ジ……ジジジジジジジジジジジジジジジジ!』
廊下の奥から叫び声と共に、何かが大きな足音を立ててこちらに迫ってくる。
「離れな!」
左手で目を庇いながら、前に出した利き手に力を込め、精神を集中させる。
水分を奪われた空気が、急速に乾燥していくのを怜理は頬の感触で感じた。
手の先の空気が一気に冷たくなり、怜理の目前に、白く冷気を放つ五本の大きな氷柱が出現する。
そして、バタバタと大きな足音を立てながら迫ってくる影めがけて、ミサイルのように連射した。
激しく金属同士がぶつかるような音が鳴り響く。
フラッシュバンの閃光が消失し、廊下が再び闇に沈む直前に、目の前の光景を目で捉える。
傷だらけの床や壁。突き破られたドア。
そこには天井まで届くほどの背丈の人外の姿があった。
昆虫のような関節の付いた不気味な脚。
緑色の胴体に、両手にはカニのようなハサミが引っ付いている。
獣のように茶色の毛に覆われた頭には複眼がいくつも張り付いていた。
氷柱が二本、腹部に突き刺さり、そこから赤黒い血が噴き出している。残りの三本はハサミで挟まれて止められていた。
巨大な影の正体は、まるで麻薬中毒者の見る幻覚に出てくるような化物だった。
──異誕生物。古来より存在する、常識を超えた生物。
「目撃証言通りだね、翠」
「はい!交戦開始します!」
怜理は続けて、両手を広げて目の前に分厚い氷の盾を作り出す。
盾に向かってきたハサミが硬い音と共に阻まれた。
何の感情もこもっていない異形の複眼が二人に向けられる。
化物は、猛然と前進すると、ハサミを力任せに叩きつけてくる。
やがて異誕は、動きを止めると、複眼を大きく見開くようにして、盾を睨みつけた。
目の前の空間が、赤く発光する。次の瞬間、ゴオン、という轟音と共に、氷の盾の表面に亀裂が刻まれた。
「爆発……」
「視線を向けた先の物を破裂させる能力かな?」
怜理は、傍らの相棒に目配せするや否や、追加の氷柱を放ち、横に跳ぶ。翠との間を隔てる空間が、小爆発を起こして床ごと吹き飛んだ。
異誕の中には、通常の生物が持つことの無い、超常の能力を使う事が出来る個体が存在する。
そして異誕の殆どは、普通の生物とは異なる方法でこの世に生まれてきている。
自然発生的に、そう、まるで台風や洪水のような災害、現象として。
生まれ自体が普通とは違う、かつては
おそらくそんな理屈なのだと、怜理は教わっていた。
そして、怜理が使う能力も、敵と同じもの。怜理の能力は、自分の周囲の空気中の水分を増幅させ、自在に凝固させて操ることが出来る。
接近した異誕が振り回すハサミを、身を低くして躱し、怜理は余裕の表情で横に跳んだ。翠が反対方向に跳びながら、
三点バーストで放たれる弾丸を避けるため、異誕が四本の脚を使って後ろに跳び、巨体を斜めにして身を屈めた。
怜理は距離をとり、床に伏せながら口を大きく開ける。
口内が冷えていく。相手の身体に視線を向け、白いガス状の冷気を吹き付けた。
それは高速で前進し、異誕の脚を凍らせ、床に縫い付けた。足を止めず、横に転がる。
さっきまで踏んでいた床に大穴が空いた。
舞う木片の間中で、翠が
しかし、ハサミで阻めきれなかった弾丸は、急所こそ外したものの、手足や胴体と様々な部位に風穴を穿っていた。
傷ついた異誕は、叫び声を上げながら、凍り付いた脚を必死に床から動かそうともがいている。
異誕の複眼がテールランプのような光を連続で放った。
連鎖的に起こった爆発を、姿勢を低くして避けると、視界の角に、腰だめで銃撃する翠の姿が映った。迫る銃弾が異誕の顔面に集中する。
異形の化物はハサミを両方かざしてそれを防いだ。噴き出す硝煙が、銃口のマズル フラッシュと共に、廊下中に拡散していく。ハサミと銃弾の衝突で、撒き散らされた火花が異誕の視界を遮る。
その隙に、怜理は、冷気で凍らせた床を勢いよく滑りながら加速した。
『ギ!』
「驚いてんじゃないよ、この『
自らの危機を悟った異誕が、狂ったように暴れる。一本の脚が、ようやく張り付いていた氷ごと引き剥がされ、こちら側に振り回すようにして突き出された。
怜理は加速を利用して前方左右に動くことで、繰り出される攻撃を全て回避し、両手の中に氷の槍を精製する。
ブレーキをかけて跳躍すると、斜めに切り下ろされたハサミを踏み台に、大きく飛び上がる。獰猛な複眼を光らせて、異誕が怜理を睨みつけた。空中で躰を捻り、爆発を回避し、向けられた複眼をそのまま両手の氷の槍で突き刺した。
「目が潰れても能力使えるんなら使ってみなよ!」
『ゴアアああああああああああ』
「させない!」
無軌道に振り回されるハサミの付け根に、三発の五・五六ミリ弾が正確に命中した。
威力が落ちた隙を捉え、翠がフルオートに切り替え、銃撃を続ける。両手のハサミが、根元から千切れて赤黒い血を撒き散らした。
通常の生物よりも遥かに頑強な肉体を持つ異誕生物に、普通の弾丸とは比較にならないダメージを与えることができる高価な代物だ。
この日本で、異誕生物と戦う怜理達、特務分室に所属するメンバーは、例外無くこの加工が施された弾丸や武装を支給されている。
翠は怜理とは違い、『異誕』として格別に秀でた超能力を有しているというわけではない。
だが、その欠点を補って余りある銃術の才能に恵まれていた。
異誕の血を引く者としての強力な腕力で反動を制御し、翠が持って生まれた射撃センスをそれと組み合わせる事で、翠は一発も外すことなく正確に狙った場所に弾丸を命中させていた。
「脳天まで届けええええええええええ!」
両手の槍を一気に後頭部まで突き入れていく。
そして、それが完全に、頭の後ろまで貫通した。
頭の先から血が噴出し、天井まで飛沫を上げる。
異誕の首が、がっくりと前に折れ、そのままゆっくりと崩れていく。そして、間髪入れずに胸の真ん中を右手の槍で何発も突き刺した。
床に崩れた巨体が、輪郭を失っていく。
身体全体が崩れ、肉体が厚みを失い、光の粒子となって闇の中に吸い込まれていった。
こいつも、死ぬときはあっさりだ。
怜理は思った。こいつらはいつもそう。生き汚いくせに、死ぬときは少しだけ綺麗だ。
そして、その事に、怜理はいつも僅かな苛立ちを覚えている。
足音を立てて、椿姫達が階段の下から姿を現した。
「残念、もう終わったよ」
「む―」
フマンな様子で茶花が唸る。怜理は、傍に立つ翠に声をかけた。
「怪我はない?」
「はい!大丈夫です」
翠がそっと笑って、銃身を下げた。硝煙の匂いが、少し薄くなった気がした。
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