第一話 闇に浮かぶあなたの顔は case8

 頼りない街灯に照らされた、女の背中を追いかけていく。

 気付かれないように距離を開けながら歩いているせいで、その姿はどんどん小さくなる。

 それでも焦りの感情は湧いてこない。

 その気になればすぐに追いつけるのに、わざと手加減してあげているのだから。


 深夜の住宅街。ここを抜ければ、ビルの多く立ち並ぶ区域だ。

 そこにたどり着く前に早く終わらせたかった。逃げられたら、隠れ場所が多くて面倒だからだ。

 目の前の歩道を歩いているのは、制服姿の女子高生。隣県の女子高の制服だ。何か用事があって遅くなったのだろう。

 こちらの気配に気づいたのか、素早く振り返る。

 顔を確認すると……うん。やっぱり。似ている。そうだ似ている。やっぱり似ている。


 こちらが男ではないとわかり、安堵の表情を浮かべた。

 そんなことで安心したのがおかしくて、彼女は思わず笑みを浮かべる。すぐに消える安心なんてなんの意味があるの?

 思わず、自分も笑った。相手の表情が変化する。

 その様子に異様さを感じたのか、相手が振り返ったままの体勢で、ゆっくりと後退りした。

 気づかれたのは相手の勘が良かったからだろうか。それとも、自分が逸りすぎたのか。

 どっちでもいい。どうせすぐに終わるのだから。のは、とても簡単なことだ。


「────────」


 ただ、自分の意思を心に思い浮かべる。

 裂きたい。あの顔を裂きたい。


 急に、肌に刺すような刺激を感じた。痛みが、そのうち強い快楽となって体内を駆け巡る。

 このまま羽が生えて、どこまでも飛んで行けそうだ。

 相手の顔はどんどん強張っていく。そうだ、もっと。もっと。


 次の瞬間、指の感覚が上下に広がったかと思うと、爪の部分から見えない何かが吹き出し、指全体に絡みつき、広がっていく。

 爪が硬くなり、どんどん伸びていく。身体からだ自体を、内側から何かが作り変えていく。身体が変化する、音がする。


 重くなった自分の両手を、自分の顔の前に掲げる。

 指の一つ一つを金属状の物質が覆い、刃物のような形状を作り出していた。


「なんなの、」


 相手が後ずさる。大丈夫。次の一瞬でとどめを刺せる。脚のバネに力を入れた。

 次の瞬間、激しい音とともに、足元の舗装が砕けた。

 高速で飛んできた何かが、次々と硬い路面に命中し、アスファルトを抉り取っていた。


 この音、この威力。彼女は飛来したものの正体を知っていた。似た音を聞いたことがあったからだ。

 振り返ると、小柄な影がこちらに向けて何かを両手で構えていた。

 黒く光る拳銃。闇の中で翡翠色の瞳が燃えるように光っている。


「そこまで!投降しなさい。森下麻衣!」

「……!」


 見たことのある顔だった。幼さの残る整った顔立ち。

 学校にバイトで聞き込みに来ていた少女だ。あの時は確かもう一人いたはずだ。

 ふと視線を感じて、反対側の歩道に視線を向ける。

 並ぶ街灯の陰から、白い顔と肌が、闇に浮かび上がるかのように姿を現した。


 闇に紛れるような黒いパーカーと、ショートパンツの少女。髪は珍しいグレー色。

 右手に黒髪の少女とは違う銃を持って立っている。もう片方の手は背中に隠していた。聞き込みに来ていた、ほとんど喋らなかった女。

 顔立ちはよく見れば美しいのに、あまり目立たない印象だった。

 なんのつもりだ。なんなんだ、こいつらは。


「あ……う……」


 異様な雰囲気に呑まれたのか、獲物は今にも泣きだしそうだ。


「逃げて!」


 小柄な黒髪の少女が鋭く叫んだ。

 青ざめた顔で頷くと、獲物が逃げ出そうとする。


「逃が」


 二発の銃声と共に、歩道近くの住宅の壁が弾けた。

 突風が吹いたかのように、麻衣のすぐそばの空気が大きく動いた。


 目の前に、瞬時に顔が現れた。睫毛の長い、くりくりとした紫色の瞳。表情の浮かんでない真っ白な顔。

 街灯に隠れていた黒いパーカーの女が、片手で撃ったのだ。そして、一瞬で距離を詰めてきた。


「おまえ……」


 なんで邪魔する?

 何をすればいいのか、結論はすぐに出た。とりあえず殺す。そうすれば解決する。

 いや、それ以前に、自分の獲物をこいつらが逃がしたことに腹が立った。

 ギリッと歯がみしながら麻衣は伸びた爪を振りかざすと、そのまま振り返って走り出す。街灯の光が遠ざかり、ただ湧き立つような怒りに後ろ髪を引かれるが、それを振り切る勢いでただ疾走する。


「待ちなさい!」


 声が追いかけてくる。どうしてこんなことになったんだろう。

 。洋子の時みたいにうまくいかなかった。



『あ、あれ。まっちゃん?どうしたの?あ、ひょっとして……私のこと待っててくれたとか?え、そ、そうなんだ……え、なんで?てか、ここ教えてたっけ?なんで知ってるの?』



 知ってるよ。だって後をけたんだから。

 続けて何か言う前に、変形した片手を振り回した。

 洋子の身体がいとも簡単に吹き飛び、塀にぶつかる。

 大股で近寄って、顔を覗き込んだ。

 口をパクパク動かして、自分と似た顔を凝視している。目に涙が浮かび、口の端から血がだらだらと流れ出していた。


『よ、で、た、すけ』


 近づいていく。ねえ、いつもの表情かおはどうしたの。ほら、もう笑えないでしょう。

 ぐったりと横たわる麻衣の顔を見下ろした。爪を胸の真ん中に突き刺し、中身を搔き出して引き抜いた。顔を濡らす噴き出た血は、とても暖かい。

 両手の爪を顔にあてがい、力を込めていく。

 ずぶずぶ、とそれは簡単に沈んでいく。

 ああ。良かった。ああ、すっきりした。



 自分を消してしまいたかった。鏡を見るたびに。

 お父さんは私を結局殺さなかった。

 浮気相手のあの男と。私がそっくりだったのに。どうしてか殺さなかった。

 私を猟銃で撃ち殺さなかった。

 殺して欲しかった。家族も何もかも失った状態で生きていくくらいなら、死んだ方がマシだった。

 自分の存在自体が間違いだったことを急に知らされて急に失った。

 お父さんがお母さんに詰め寄っているのを聞いてしまったのだ。

 これから、どう生きていけばいいのか分からなかったからだ。

 きっと誰も間違いだらけの自分を受け入れない。

 でも、死にたくても死にたくても死ねなかった。死ぬのは怖かったからだ。


 だから自分が死ぬくらいなら、他の誰かを殺すことにした。


 洋子が自分に声をかけたのは、たまたま帰りが一緒になった時だった。

 一人でいる自分を気遣ってなのか、いろいろクラスでも話しかけてくれた。

 顔を初めてクラスで合わせた時から、この子の顔立ちは誰かに似ていると思っていた。

 でもある時、途中で相手が答えを言ってきた。


『あれ、まっちゃん。なんか私達、顔似てない?』


 洋子は自分を気に入っていたらしい。

 その後、本当に古文の先生に似ていると言われたこともあった。

 途中まで自分も適当に仲良くしていた。


 けど、途中からはどんどんそれが苦痛になっていった。彼女は自分と違い、家庭は円満で、母親からは愛されている。

 嫌いな自分の顔と似た顔が笑っている。

 そしてその子は自分よりもずっと幸せなのだ。私とは違って。疎まれることもなく、楽しそうに生きている。


 それだけで腹が立ってくるようになった。けど、それをずっと我慢していた。顔にぎこちない笑みを貼りつけて、ずっと。

 だから、のおかげで、もう我慢しなくてよくなった時の気分は、本当に最高だった。

 ほら、裂けた裂けた。死んだ。


 

 『私みたいな顔』が無くなった。憎い顔が死んだ。これで、もう私は、死にたくならなくてすむ。


 けれど、もっともっと足りない。私はもっともっと引き裂かなくちゃ。私はもっと気持ちよくなりたい。そうすれば、死にたくならずに済むから。

 ざまあないよ、洋子。私はアンタの笑顔が








         大嫌い。







 





 追跡の果てにたどり着いたのは、闇に沈む、黒ずんだ塗装が施されたビルだった。

 ひび割れた窓ガラスなど外観のさびれ具合から、明らかにもう使われていない。

 正面玄関の扉が引き裂かれている。建物の中を通って逃げるつもりなのか。

 絶対に逃がすわけにはいかなかった。

『あの状態』の人間は放っておくと何をしでかすか分からない。


「私が先に行くよ!」

「……わかった」


 小声で合図しながら翠が従業員用のスチールドアの近くまで移動する。蝶番を細い脚で蹴りつけ、二つとも一瞬で破壊した。

 ビルの中へ進入する翠に、白翅が小走りで後に続く。

 ロビーに入っていきながら、銃口を注意深く周りに向け、敵の姿を探す。いない。

 廊下の通路に足を踏み出す。ここにもいない。


 次の瞬間、頭の後ろに刺すような視線を感じた。


「……上!」


 白翅が後ろから声を張る。

 それと同時に翠は身を翻し、上から降ってくる影めがけて四発の銃弾を浴びせた。

 マズルフラッシュが闇を切り裂き、影に放たれた火線が集束する。

 金属音と共に、弾丸が弾かれて宙を舞った。


 着地した麻衣がナイフのように肥大化し変形した爪を構えて、さっと掲げた。

 口からは犬歯が覗き、獰猛に闇の中で光っている。目はギラギラと異様な輝きを帯びていた。

 翠達が侵入した入口のすぐ上の非常灯。そこの上の壁に爪を食い込ませて奇襲をかけてきたのだ。


 ふー、ふー、と獣のように麻衣が唸る。

 二人は同時に引鉄を引く。麻衣が左右に飛んで攻撃をかわし、こちらを向いた状態で後ろに大きくジャンプした。

 そして、左の壁を蹴ると、更に後ろ向きに飛んで、大きく距離を開けていく。


 まるで野生の猛獣のような俊敏さ。

 その動きこそが、麻衣がとなっている証拠だった。

 翠の直感は間違いなく、目の前の少女が異誕であると。人型の化物であると告げていた。暗闇の奥へと、麻衣が疾走する。


 翠は銃弾を放ちながら、駆け出した。

 白翅と共に並んで走り、玄関を抜け、奥のフロアへと突入エントリーする。

 がらんとした、床面積のわりと広い空間だった。目につくものは何もない。


 今や人外となった麻衣を除いて。

 暗闇の奥で、麻衣はギラギラとした目で、こちらを見つめていた。

 やがて、不思議そうな口調で問いかけてくる。


「あなた、達。私といっしょ、なの?あんた、同じ気配がする」

「同じじゃないよ。私は、生まれつきの『混血』だから。でもあなたはそうじゃないでしょ?」


『混血』は人と人ならざるものが交わった家系の子孫。そして、ごく稀だが、隔世遺伝的に先祖と同じレベルのスペックを発揮することのできる個体が生まれてくる。

 翠の輝く鮮やかな緑色の虹彩、人間離れした身体能力がそれを証明していた。


 翠は説得を試みる。

 きっとだめだろうと思いながら。翠はこの状況がいかに絶望的か知っていた。


「あなたは……何かを受け取って今の姿になってるんだよね?もしそうなら、それを解除して投降して。それ認識票は……人が使っていいものじゃないの」

「その女、そいつは、なに?」


 やはり投降に応じる気は無いらしい。

 凶悪な視線が、翠の傍らに立つ白翅に注がれた。

 白翅が太腿に巻き付けたホルスターから、銃剣を音も無く抜いて構えた。

 鋭く尖った先端が、闇の中で白金色の輝きを放つ。


「なにも、感じない?あんた、何?」

「……。あなたとも違うし、翠とも違う。ただの人間ひと……」


 からからからから、と何がおかしいのか、狂ったように麻衣が笑いだした。

 そして、中腰になると、笑顔のまま


「邪魔……するなァ!」


 猛烈な勢いで、翠達に突進してきた。


「この!」


 逆上して、相手は向かってくる。

 無力な人々を理不尽に切り刻んだ爪が、翠達に迫ってくる。


 それが翠の闘志を駆り立てる。しっかりと銃のグリップを握り込み、迎え撃つ。

 相手は大きく鋭く尖った爪で、翠達を斬り刻もうと突っ走りながら、立て続けに斬撃を繰り出した。

 向上したスペックに任せた、練り上げた技術も何も無い、デタラメで力任せの攻撃。

 銃弾を放ちながら、凶悪な五指をかわし、足元を狙って弾丸を放つ。


 視線が足元に逸れた隙に、翠の傍らを駆け抜けた白翅が、左手の銃剣を盾にするように構えながら、右手の銃を利き目の前で構え、相手の顔めがけて連射する。

 麻衣が長い爪を交差させて、銃弾から顔を守った。


「お返しだあ」


 両手の指を広げて、こちらに爪を向けてくる。ミサイルのように爪が分離し、飛来して翠達に襲いかかった。


「避けて!」

「……ん」


 二方向に散って、二人は新たな攻撃を避けた。間髪入れずに、急加速し、腹部を狙って銃弾を放つ翠。追撃は躱され、コンクリートに銃弾がめり込んだ。

 避けながら不規則なステップを踏み、麻衣の攻撃を撹乱していた白翅が、飛んできた爪を銃剣の斬撃で弾くと、近くの壁を蹴りつけ、ピンポン玉のように大きく跳ねた。

 そしてその勢いを利用して、脚のバネを最大限に利用。空中で大きく縦回転しながら、相手の背後に着地して回り込み、一気に接近した。

 予想外の不意打ちに苛立った麻衣が、滅茶苦茶に鉤爪を振るう。爪の一撃が白翅の頬を掠めた。無軌道な動きを避け損なった白翅の頬が引き裂かれ、噴き出た血飛沫が闇に舞う。


「よくも!」


 翠が銃弾を放ちながら再び麻衣に肉薄する。麻衣が叫びながら攻撃を避けた。

 それと同時に、脚のバネを使い、天井近くまで白翅が高く飛び上がった。

 そして空中でバク転し、天井を蹴って急降下。重力の乗った一撃を、かろうじて麻衣が受け止めた。火花が闇の中に飛び散る。


「しいいっ」


 隙を突いて、翠が銃を左手に持ち替え、レッグホルスターから取り出した軍用ナイフを右手に切りかかる。

 刃を躱そうとする動きを利用して、移動の先を読んだ翠が、足払いをかけようと蹴りを旋回させる。


 これも避けられたが、脚を畳みながら靴裏で右脚に蹴りを叩きつけた。同時に白翅が後方に飛び退く。

 続いて突き出された鉤爪を銃身で思いっきり殴りつけた。

 堅牢なスチール製フレームと人外の腕力な合わせ技を受けて、麻衣の動きが一瞬停止する。

 更に間髪入れずに、同じ個所に鋭いハイキックを叩きこんだ。


「……ううっ」


 麻衣の体勢が崩れ、よろめいた。

 翠が揺らいだ身体に銃口を向けて四発銃弾を撃ち込んだ。

 

「あああっ!ぐっぐ!」


 咄嗟に身体を傾けて回避しようとするが、間に合わず、ぶすぶす、と音を立てて、異誕生物用に加工された弾丸が麻衣の肩を抉る。


 純銀やその他の強化用の加工が大きな苦痛を与え、麻衣にぞっとするような叫び声を上げさせた。そのまま腹を蹴りつける。麻衣の肩から血が飛び散った。

 相手が怯んだ隙に、わずかに後退しながら翠が銃撃を繰り返す。相手も爪を振り回し、反撃を始めた。


 負傷のためか速度の下がった爪を避け、そのまま至近距離から銃弾を休みなく連射して、顔に弾丸を集中させていく。思わず麻衣が顔を覆って大きな爪でそれをガードした。


 薬莢が散らばる中、白翅が信じがたい速さで相手に突っ込んでいった。そしてなんとか反応した相手の攻撃を避け、いつの間にか取り出した拳銃の引鉄を引き、集弾させることで次の攻撃を強制停止させた。

 その背後の壁を蹴り、空中で身を捻りながら、銃剣を闇に閃かせる。


「アアッ……⁉︎」


 ついさっき振り回された右腕を深々と銃剣が突き刺していた。

 太い血管を貫かれた麻衣が叫ぶ。白翅が強く刃を捻ると、麻衣の腕から噴水のように血が噴き出した。

 白翅が、そのまま力を込めて体重をかけると、麻衣の身体のバランスが大きく崩れた。


「終わりだよ!」


 翠がなおも前進を続けようとする、麻衣の脇腹に冷静に狙いをつける。三発の銃弾を撃ち込み、更に、勢いで跳ね上がった左腕を撃ち抜いた。

 麻衣がごぶっ、と口から血を吐き出し、大きくよろける。

 そして、翠は地を蹴り、相手に渾身の力で体当たりした。

 それと同時に、白翅がまるで図ったかのようなタイミングで後ろ回し蹴りを放つ。

 身体がぶつかった反動で激しい衝撃が伝わってきた。そのまま、力ずくで押し切る。

 床と並行に吹き飛ばされた麻衣は、背後の壁に激しい勢いで衝突し、コンクリートを砕きながら、床にもんどりを打って倒れた。


「ぐ、うううううう」


 苦しみながら、麻衣が横に転がる。


「う、ううが、があ」


 麻衣の下腹部が血で染まっていく。


 そこから、肉を突き破って、何かとても小さなものが、飛び出るように転がり出した。

 カシャン、と耳障りな音が、血と埃に塗れたフロアに響き渡る。

 激しく麻衣が咳込み、大きく痙攣した。血の飛沫が散り、薄汚れた床が赤く染まっていく。

 翠は持参したタクティカルライトを取り出すと、それに光を当てた。



 ライトに照らし出されたのは、楕円形の小さな認識票タグだった。

 本来であれば、軍人などが身元の識別のために持っている筈のモノ。

 表面には何も書かれておらず、真ん中にギザギザのラインが刻まれていた。

 まるで獰猛さすら感じられる、粗雑なライン。

 麻衣の血で、それは赤黒く染まっている。血液が付着していない部分が、ライトの灯りを受けて、鈍く真鍮色に光っていた。





認識票タグ、やっぱり……」

「翠、近くには誰もいない。だから大丈夫」

「うん、了解。不破さんに連絡するね」


 翠は耳元のインカムに向かって報告する。


「森下麻衣を確保しました。不破さん、また認識票タグが出ました。先月に見つけたのと、同じ物です。麻衣が所持していました」

『……なに⁉認識票タグって、あれのことか?無事か!周囲を確認しろ!』


 声に僅かに焦りを滲ませ、不破が返答する。


「私は大丈夫です。けど、白翅さんが怪我しちゃって……近くには敵影は無いみたいです。でも、なるべく急いで来てください」

『了解した。念のため、重武装したスタッフ達を送る。警戒を怠らないように』

「了解。警戒を続行します」


 床に視線を戻すと、認識票は、吹き上がった青白い炎に包まれ、今にも燃え尽きようとしていた。


 翠達が認識票タグの存在を知ったのはつい先月のことだった。

 ある人物が、それを悪用し、大量殺人を犯した。その時、初めて存在が明らかになった、正体不明のアイテム。凶器と言っても良かった。


 これを使用した人間は、『異誕』としての力を、人の身でありながら使うことが出来るようになる。

 翠のような『混血』や、生まれつきの人型の人外でなくとも、人の姿を保ったまま化物になれる。

 誰がどういう目的で開発したものなのかは、現在のところ、全く不明だ。


 白翅はじっと、倒れて呻いている麻衣を見つめていた。


「……どうして。せっかく、仲良くしてくれたのに」


 白翅がやっと声を出した。とても物悲し気に。

 苦しげに、麻衣が言葉を吐き出した。


「……た、…………頼んでない。ただ、洋子を、あいつらを殺せば、わたしは辛くなくなる気がしてたの。途中から、洋子は…………憎いだけだった。あいつ、いつもいつも楽しそうに。私がどんなにつらいかも知らないで、許せなかった」


 自分勝手な言い分に翠の顔が強張る。


「あなたのためだったのかもしれないでしょ……!」

「知らない。もうどうだっていい。あいつは殺してやったんだから。やっと、やっと殺してやったんだから。ああ、すっきりした。……けど、どうしてかな……」

「……?」

「はじめは、殺してやろうなんて思って、なかった気がする、けど、楽になれるなら、私が辛くなっていくのから逃げられるだけで、良かったはずなのに。そう言って渡されたはずなのに、どうしてかな。いつかもっと殺してやろう、ってなって、気持ちが抑えられなくなって。どんどん気持ち良くなっていったの。どんどん楽になって……」


 麻衣がまた咳込んだ。苦痛の声を上げて、肩の傷口を抑える。


「洋子、あんたが、幸せそうに笑うから……他のヤツも許せなくなっちゃった……」


 掠れて、しわがれた声が麻衣の口から漏れる。翠はただ黙って床に倒れた麻衣を睨んだ。

 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。白翅がそっとため息をついた。


「すっきりした、私はすっきりした、すっきりしたすっきりしたすっきりしたすっきりしたすっきりしたすっきりした………………」


 壊れた蓄音機のように延々と。ひたすら洋子は床の上でのたうち回りながら、呟き続けていた。

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