第一話 闇に浮かぶあなたの顔は case3
やがて不破のランドクルーザーは、その先の市街地へと入っていった。
この付近はやや俗化した一角であり、大きくはないが、ビルや商店、マンションなど集合住宅が立ち並んでいる。
今は午後五時を過ぎているため、そろそろ人通りが多くなってくる時間帯の筈だが、翠の視界に入る範囲に人通りは全くない。
警察の根回しによる、避難勧告がスムーズになされた証拠だ。 翠はその事実にほっとしてしまう。
上空から、何かが大気を切り裂き、激しく回転する音が降り注いでいる。見上げると、警視庁の装甲ヘリがローター音を撒き散らしながら、ビル群の上を旋回していた。
「ピンポイントでは行えなかったが、今回の事件を起こした『異誕』の居場所は絞り込んである。偵察ヘリがカメラで捉えた。また、対象が絞り込んだ区画内から出ていないことも確認済みだ。封鎖した区画に立ち入り次第、二手に分かれて挟み撃ちにするぞ」
了解、と全員が応答すると、不破が無線で、指揮車両と交信を開始した。
「翠と白翅は、このままこの車で行く。椿姫と茶花は封鎖地点の入口で降りて、別の車で移動するんだ。……見えてきた。近いぞ。準備したまえ」
フロントガラスの向こうに、ジェラルミンの盾を構え、武装した機動隊員達が並んで壁を作っているのが見えた。
近くには、防弾加工が施された黒い装甲車両が複数台止まり、現場を厳重に封鎖している。
更に、黒いアサルトスーツに身を包み、プロテクターを装着した、機動隊員達よりも遥かに厳重に武装した警官隊の姿もある。日本警察最強の制圧部隊、
彼らは火力を優先した
「もう間もなく到着だ。いったん降りるぞ」
ランドクルーザーが減速を始めた。
封鎖地点で椿姫と茶花が降車し、『分室』の別のスタッフ——不破と同じ黒いパンツスーツ姿の若い女性の乗る車両へと乗り込んでいく。
そちらに向けて手を振ると、SATの分隊長と話を終えた不破が、運転席に再び乗り込み、エンジンを吹かす。機動隊員達が両側に
助手席に移動した翠が銃を両脚の間に置いたまま、不破が準備してくれた、
翠と白翅の鞄は後部座席の足元に置いてある。学生鞄と銃。かつてはとても奇妙に思えた
「警戒します」
「してくれ」
助手席のサイドウインドウが開くと、翠はドアに寄り掛かり、そこから身を乗り出して拳銃を構えた。
ほぼ同時に、後部座席右側から、白翅が自分の拳銃を取り出して構える。翠と同じ構えで。
車が速度を上げたからか、身体が風にさらされる感覚があった。短くした髪が風で揺れる。それに気を取られることなく、翠は警戒に集中した。
遠くのビル群に太陽が沈んでいく。もうすぐ夜だ。
翠の耳に付けたインカムに通信が入る。
『どう?そっちはなにか見つかった?』
『……椿姫さん!まだ見つかりません』
『相棒の調子はどう?実質、実戦は二度目なわけだけど』
『……平気です。普段……訓練通りやれます』
不破たちが使っている双方向無線は、最大四人が同時通話できるように設計されている。当然、話している内容は仲間中に筒抜けだ。
『期待してるわ。驚異の新人として活躍しなさい!』
『白翅さんは上達がすごく早いから大丈夫だよ。それに私もいるし』
相棒に余計なプレッシャーを与えたくはなかった。しかし、白翅の態度は落ち着いたものだ。
『……慣れたのかもしれない』
「たくましいなあ、白翅さんは」
すぐ後ろの座席にいる相棒の声を無線で聞くのは、なんだか不思議な気持ちだ。
『……そんなことないと思う』
『あ、テステス』
回線に茶花の声が割り込んだ。
『肝が太いですね。肝は太かったり、据わっていたりと忙しいものです』
『胆力、とも言うよね。内臓ごとに強弱があるのかな、やっぱり』
『勇気の強弱、難しいテーマです。肝が太いとはどう判断されるのでしょうね。レバーを食べながら吟味して決めたのでしょうか』
『それは違うと思うけど』
茶花のテンションは、独特で相変わらずだ。
『はい。おしゃべりはここまで。警戒を続行するように』
不破も窘めることもせずに、前方を見据えながらハンドルを上手に操っている。
彼女たちのお喋りは緊張を和らげるためだ。そのことを不破は心得ているのだろう。
車はいくつも角を曲がり、区画に閉じ込めた『対象』の捜索を継続する。
仲間内での通信が終わり、十五分ほど経った頃だろうか。
つん、と先ほど現場近くで嗅いだ香りが、ランドクルーザーの立てる走行風に乗って漂ってきた。
「…………不破さん。血の匂いがします」
「分かった。一旦、車を停めるぞ。周囲を捜索する」
車内に緊張が走る。不破がハンドルを切ると、ギアが甲高い唸りを上げ、減速する。ランドクルーザーが、街角の歩道近くで停車した。
店舗と飲食店などが入ったビルが、幅の広い道路を両側から挟んで並んでいる。
カーナビの情報によると、封鎖した区画の中心の少し手前のようだ。
翠と白翅が銃を上に構えながら車を降り、不破がブリーフケースを片手に最後に降りた。
翠は血の匂いを頼りに、歩道を音も立てずに進んでいく。翠のすぐ後ろから、白翅が警戒した。
鼻につく血の匂いが、周囲の空気を漂っている。
事件が起きて、それほど時間が経っていない。多くの人々を屠ったそいつは、間違いなく、犠牲者達の血を身体に付けたままでいることだろう。
つまり、血臭がするなら、そいつはまだ近くにいる筈だ。
歩道を伝って、建物の間や、路地をいくつか見て回った後で、入り組んだ路地の一つの手前で、翠は足を止めた。
「
「……あ、」
白翅が遅れて視線を、翠と同じ方向に向ける。路地に入る手前のコンクリートの歩道に、こぼれたように血が垂れていた。
僅かな違和感に似た感覚が、翠のこめかみを刺した。
「近いです。不破さん。このあたりにいます。私達だけで先に」
「わかった。偵察を頼む」
不破がブリーフケースの中から
翠は路地の手前で立ち止まり、壁の近くにしゃがみこみ、向こう側に片目で視線を走らせる。
左側には掃き出し窓のあるコンクリートの壁が。その右側にはダクトや配管の設置された飲食店の紅色の壁が見える。
二つの壁に挟まれた細い路地には誰もいない。路地の奥には赤錆びた柵のような手摺のある細長いビルの非常階段が見えるだけだ。一階部分には、扉近くにメニュー表らしき看板が立てかけてあった。
その近くには左に曲がり角が見えており、右側は飲食店のビルに塞がれていた。これでは左にしか曲がれない。
そこから先は、翠達がいる場所からは死角になっている。曲がり角の近くは、左の建物の影がかかっていた。
「…………捜索を続行します」
銃を右手に構え、後ろを振り返って左手で合図を背後の白翅に送る。足音を殺して、白翅が付いて来た。白翅は無表情に銃を構えている。二人が歩き出した。
翠の目の前には、誰もいない。無人の道だけが有った。
————私の前に、もう背中は無いんだ。
そんな考えが、一瞬頭をよぎった。今は自分が白翅の前を歩いている。
その事実が、自分がもうかつての位置には戻れないことを、決定的に以前とは違ってしまっていることを翠に実感させた。
見え方の変わった景色はもう元には戻らないのだ。
左にしか曲がれない曲がり角の寸前まで、翠達は到達する。中腰の姿勢をとり、銃口を下に向けながら、速足で移動した。
翠は再び、曲がり角の向こう側へ視線を向ける。
その瞬間、袖を引っ張られる。気を付けて、という白翅の合図だ。
全身に緊張が走るのを一瞬で抑え込む。銃口を、影が落ちる通路の先に向けた。
ピチョン、と何かが滴る音がした。視線を巡らせて、音の発生源を探る。
数滴の粘ついた液体が、背の低い建物の陰から垂れてコンクリートを赤黒く汚していた。
暗がりに何かが張り付いている。巨大な、何かが。
大きさにして四メートル強。単眼が体中に付いている。黒と緑を混ぜたような不快感を煽る色の不定形な形の身体。そして、その体の中心にある大きな口。
体中に張り付いた目玉が瞬きするたびに、それが、開いたり閉じたりしていた。異形が口を動かし、唾液を弄ぶ水音が響いた。巨大な頭の先には、二本の太い角が生えていた。
その先端には、べったりと赤い液体がこびりつき、いまだに生臭い血臭を放ち続けている。
あんなもので刺されたら、人は簡単に死んでしまう。
『コオオオオオオオオオオオオオオオ……』
大きな影が、空間を切り裂きながら、いきなりこちらに飛びかかってきた。
翠と白翅が、目にも止まらぬ速さで二手に分かれ、その場を飛びのく。
「
イヤホン越しに状況を翠が伝えると同時に、目の前で
次の瞬間、血肉を裂く
『ル、ルルルルルル』
翠の両目が
音も無く
異形と少女とが、紛れもなく同じ存在であることを物語っていた。
人外の者の気配を察知できるものは二つの
自分より遥かに小さな獲物の予想外の反撃とその威力に、異誕が怒りを募らせるのが伝わってきた。翠と白翅が片膝を突き、同時に
四発の銃声が路地裏に轟いた。白金色に光る四十口径弾が異誕生物の肉体を引き裂いた。しかし、怯むことなく、タックルするかのように突っ込んでくる。
音も無く、異誕の肉体から、半透明のゲル状の鞭のような触手が十数本、一斉に飛び出した。その全てが緊張し、一気に硬化する。
触手は硬度を自在に変えながら、あらゆる角度から襲い来る。
人外の化物は、触手を蜘蛛の脚のように使って、地面を這い、突進を繰り返すことで、ダメージを避けていた。
二人が放った銃弾を横に跳んで躱し、軟化した触手で近くの建物を叩き、勢いをつけて別の建物の表面に張り付いた。そして硬化した触手を五本、こちらめがけて放ってくる。針のように先の尖ったそれを二人は身体を捻りながら走って避ける。
白翅が翠のすぐ側から大きく跳躍して飛び退いた。避けた場所の地面が砕かれる。
舞う破片の中で、白翅が左の太腿に括った銃剣を引き抜くのが視界の端に映る。
翠も左足のホルスターから、もう一丁のP226を取り出した。次に放たれた触手と壁面に張り付いた異誕をまとめて狙い、翠は双銃から銃弾をばら撒く。
異誕は巨体に見合わぬ素早い動きで、壁を触手で叩き、斜め下に飛び降りてそれを回避した。
それは、およそ既存の生物に出来る動きではない。しかし、常識から離れた異形は、そんなことすら可能にする。
「────────!」
白翅が敵の脚による攻撃を左にずれてかわし、右手の銃剣で連なった斬撃を放つ。が、それに対応した相手の巨体が、瞬時に横にずれた。
『ゴガアアアアッ』
異誕は反撃を放つことすら忘れ、血の飛沫を吹き上げながら、苦悶の金切り声を上げた。
躱す直前で、一歩前に素早く踏み出した白翅が手首を左向きに回し、返した銃剣の切っ先で肉の表面を切り裂いたのだ。
異誕は暴れ、逆上して壁をめちゃくちゃに叩く。壁井の表面が砕け、地面に破片が雨のように降り注いだ。
怒りに我を忘れた化物は、猛烈な勢いで敵対する二人に突進する。
跳ね回っている触手の一本に、翠が跳躍してしがみつき、細い足を巻き付けながら、P226を連射し、触手自体を攻撃する。
表面を削がれた触手は、みるみる細くなり、血の飛沫を撒き散らした。
小柄な翠は、振り回されながらも体重を思いっきりかけて、触手を切り離した。
千切れた触手が地面に叩きつけられ、その強い反動を利用して、翠は跳躍する。
宙を舞いながら、翠は銃撃を放った。
正確に銃弾が異誕の体表の目を貫き、あまりの痛みに異誕が口を開けた。苦悶の叫びが大きく漏れる。あまりの
体中から伸ばした触手の先端を硬化させ、異誕が力まかせに抵抗する。
白翅が左右に飛びながらそれを回避した。他の触手を翠が全て、正確無比な銃撃で撃ち落とす。その隙に店舗とビルの壁を次々と蹴り、三角跳びで跳躍した。
異誕の身体の中央の口から太い舌が飛び出してくる。苦悶の叫びは止まらない。
白翅は無言で取り出した銃で、宙を走る舌の根本にありったけの弾丸を撃ち込んだ。そして後ろに宙返りし、向かって左側の壁に足をつけて一瞬着地する。
口内から血を噴き出す異誕の身体の中心めがけて、翠は二丁拳銃の
銃声が路地に絶え間なく続く。やがて苦悶の叫びは途切れ、化け物の口腔から大量の血が吐き出された。
コンクリートの地面を揺らして倒れ伏し、異誕が動きを止める。身体の輪郭が急激に曖昧になり、崩れていく。
やがてその死体は、体重を失い、光る粒子状の物質なって路地裏の空間の中に溶け消えていった。 跡形もなく。
まるで、元からこの世にいなかったように。
先程までの出来事を物語るのは、壁面あるいは地面に刻まれた無数の弾痕と亀裂、
それと悪臭放つ体液と血液のみだ。それですら、時間が経てば消滅する。
『異誕生物』とはそういうモノだからだ。
耳障りな音を立てて、何か小さなものが地面に散らばった。
潰れた白金色のそれは、対異誕生物用に作られた、特殊加工弾丸。
純銀、タングステン、その他の特殊な金属と加工法で製作された、超硬合金性の銃弾だ。
異誕という常識を超えた生物に対抗するために作られた非常に高価なもので、特務分室のメンバー達はこれをよく戦闘で使用している。予算がかさむ理由の一つだ。
「
翠が無線で呼びかける。
ふと傍らを見ると、白翅が銃を
「怪我は無い?」
「……うん。慣れてきた」
抑揚の無い声で白翅が答えた。
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