アレンジし過ぎた桃太郎
「ねえ、モモくん」
少女は牢獄の中でくるりとシングルアクセルを披露すると、『どうだ凄いだろう』といった感じの表情をして言った。
可憐な少女だった。
こんな薄汚い小部屋には全然相応しくない、お嬢様然としたお嬢様。だから勿論、彼女は囚人でも罪人でもない。ただただ、ここに入って来ただけの迷子だ。
そんなのは言わずとも、見れば分かることだったが。
艶やかな黒髪は日々の手入れを欠かしていない証拠。先程の一回転でかき混ぜられた部屋の空気は、血と埃の臭いはどこへやら、ほんのりと甘い香りがして、紳士とか美学とかいうものを知らない腹の虫が「ぐぅ」と呻く。
……仕方ないだろ、二日間飲まず食わずなのだから。
喉は乾燥し切って、胃袋は弱り切って、心身は疲れ果てている。
だから、この子の呼びかけに答えるのは酷く億劫だった。たった一言二言で完結する会話なのだったとしても、それは残り少ないエネルギーの浪費にしか、今の俺には思えない、
「……」
「……」
けれど、返事を『まだかな、まだかな?』みたいな感じに、止まれと言われた飼い犬みたいにじっと待つ少女を無視するのは……俺には無理だった。
可哀そうとかじゃなく。
期待の目が心地悪かったから。
赤い染みが点々と付着している壁に、背を預けたまま、俺はぶっきらぼうに言った。
「……なんだよ」
「わぁ! やっぱりモモくんはモモくんって言うんだね!」
いや、違うけど。
こちらをじっと見ていて、それでモモくんとか名前みたいなものを言ってきたから返事をしただけであって。その二字が俺の本名である、というわけでない。
そもそも俺に姓名なんてご大層なモノはないし。
正解なんて、もとから無いのに。
どうやら少女は『名前当てゲーム』をしていたようだ。
初対面の、それもゴミ捨て場の方が幾分かマシな気のする狭っ苦しい牢屋にいる奴の名前を、ヒントなしで当てるというのは、難しいどころかほとんどクリア不可能なゲームな気がしたが。
それでも。
疑うとか、否定するとか。
そういう事を知らないらしい、恐らくは純真無垢なのであろう少女は微笑んだ。
「私って天才かも~」
単純な子だ。
羨ましいくらいに。
白純のワンピースを着た彼女は、もう一度くるりと回転した。
「あっ、そうだ!」
彼女は唐突に、あたかもたった今思いついたみたいに手のひらを打つと、なにやらワンピースのポケットに手を突っ込んで、その中で手をごそごそ動かした。
しばらくして、少女はようやくお目当ての物を探し当てたらしく、陽気に声を上げた。
「あったぁ! はい、これあげる!」
「……これって」
「飴ちゃんだよー、甘いの、美味しいの!」
小さくて日光を一切受けていないみたいに白い手が、目前に差し出される。
その上にちょこんと載っていたのは、包装紙を破られた緑の飴玉だった。こんなもの一つ口に放り込んだところで腹の足しになんぞならない。もっと、食いごたえのある物を……と思ったが、そういえば俺は恵んでもらう側の人間だ。とやかく言えるほど偉いわけじゃない。
パクリと。
俺は無言で、手の平に載った小球をいただく。
「うひゃっ、くすぐったい! ちゃんと手で食べてよ!」
「そんなこと言ったって、両手が繋がれてるんだから……仕方ないだろ」
口内で段々と溶けて、甘ったるい液体に変化していく飴玉を、喉につっかえさせないよう注意しながら反論すると、彼女は心底から申し訳なさそうな顔をして俯いた。
ああ、そうか。
そういえば、この子は《
俺を……俺達を鎖に繋いで、世界中に売り飛ばそうとしている組織の、親玉。
あの爺の血縁者だったか。
「……今のは聞かなかったことにしてくれ。アイツにチクられたら、首が飛ぶ」
「うん。私、ちくったりしないよ……ごめんね、モモくん」
モモくん。
やっぱり俺に名前があると、そして俺の名前がそれだと勘違いしたままの少女は、モモくんと言った……ん? 今なんて言ったんだ、こいつ。
ごめんね、とか。
謝罪みたいな言葉が聞こえた気がする。
耳の調子を疑う俺を見て、彼女はもう一度、今度はさっきよりも確実に言った。
「ごめん、モモくん。お爺ちゃんが、こんな酷いことして」
謝罪をされる。
すまなそうに、今にも泣きそうに。長い睫毛を伏せて擦れた声で彼女は言った。
それを聞いて、罪深い俺は、こんな小さな子を相手に激情を覚えた。心中で、激怒する。こいつ、あの人でなしの孫娘のくせに、ごめんだと? 一体どの口で、どの顔で、どの血統でそんな馬鹿なことを――ふざけるな、もう少しこっちに来い。そしたら、その華奢な首筋に吸血鬼みたく犬歯を突き立てて薄皮を破り、肉を抉り取ってやる。何度も、何度も。激痛と死への恐怖の中、幾度でも謝罪をすればいいさ。のたうち回って血反吐を吐いて、飽きもせず。痙攣してやがて脳が、心臓が機能を停止するまで謝ればいい。
それだったら許してやる。
それなら許してやれる。
折られた肋骨のことも剝がされた爪のことも、どこかに飛ばされてしまった母のことも。
全てお前の苦痛でチャラだ。
お前を喪失したアイツの、滑稽な表情でやっとお釣りになる。
亡骸抱えて号泣してくれたら一財産だな。
思って、実行しようとして、俺はしかし停止した。口を半分くらい開けて身を彼女の方に傾けた姿勢で、ピタリと静止した。
小刻みに震える小さな身体。
まだまだこれからの、たった数年の人生。
——この子には、何の罪も無いんだよな。
「……はぁ」
溜息を吐く。
「謝ってくれるなよ……困るだろ、俺が」
——というのが彼女との出会い。
十三歳でのファーストコンタクト。
あの時の俺は、この心優しい女の子はもう二度と、こんな血生臭いところには来ないだろうと思っていた。あの時の清純っぽい少女が、毎日のようにやって来て。異常者へと変貌するなんて思いもしなかったんだよなぁ。
「……はぁ」
五年前とはまた違った意味で、俺は息を吐く。
すると、そんな俺を不安げに見つめる二つの目が、鉄格子の向こう側にあることに気付く。また、こいつは来たのか。また、来てしまったのか。
「もうここには来るなって。何度言ったら分かるんだ、キメラ」
猿みたいにずる賢く、キジのように美しく、犬のように愛嬌がある彼女の名は、キメラ。
親のネーミングセンスが疑われる奇抜な名前だ。漢字表記すると、木目羅。これではもう、キラキラネームと言うよりギラギラネームだな。喰われてしまいそうだ。
まあ、それはともかく。
あの日、通気口から俺の牢に落ちてきた(本当にこいつは何をやっていたんだ?)迷子、キメラは、五年も経ってすっかり大きくなっていた。十四歳になったんだったか。背丈なんて俺を超してるし、顔立ちも……立派になった。
おっと。
いや、違うんだ。
俺の背が低いのは、そう、栄養不足の所為だ。碌な食事が与えられていないせいで、不思議なくらい背が伸びない。だから決して、彼女の背が高過ぎるわけじゃない。
「だってさぁ、だってだってさぁ、だってさぁ……字余り」
「ふざけるな」
「いやぁ……だって、ここじゃないとモモくんに会えないじゃん。ほら、モモくんって首輪付いてるし、手足も枷で繋がれてるし。連れ出そうにも連れ出せないからさぁ」
「そういう問題じゃないだろ」
「じゃあ、どういう問題なの?」
「いいか、キメラ。何度も言うが、お前は会長の孫娘だ。で、俺は《芝刈里会》の商品だ。奴隷だ。だから、お前はここに来ちゃいけない」
「ふうん、そうなんだー」
まるで聞く耳を持たない。
五月蠅そうな顔をして言ったキメラは、なんというか、そう。一昔前なら豪族とか貴族とか呼ばれる類の人種だ。この牢獄……もとい《倉庫》を所有する《芝刈里会》の現会長が溺愛する孫娘。彼女がどれだけ高みにいる人間か解説するには、まずは《芝刈里会》について説明しなくてはならないか?
《芝刈里会》
簡単に言うと、犯罪組織だ。密輸も人身売買も違法薬物の栽培だって、とにかくなんでもやる。法に背く悪事を生業とする犯罪者達の集団。
職業の頭文字が『ヤ』の人達の。
そういう世界の、一大勢力。
このお転婆姫はその大組織の次期会長……かもしれないくらいの、馬鹿っぽく言ってしまえば超すごくて超危ない人なのである。
そんな奴が毎日毎日、奴隷のもとへ足を運んでいると知られればスキャンダルは逃れられない。勿論俺の場合は斬首刑だろうが。どのみち俺はもう死んでいるようなものだし、自分に関してはどうでも良い。でも、キメラは……そうじゃないだろ。
大体、こいつには数人の警護がついていたはずだが。
筋骨隆々の、いかついのがいたはずだが。
アイツらは何をしているんだ?
問うと、彼女は「にちゃあ」と効果音が付きそうな、粘つくような笑みを浮かべて、くすくすと笑った。悪女、みたいに。
「あの人達にはね、とーっても気持ち良くなれるお団子をあげたから、どんな無茶だって一つ命令すれば、その通りに行動してくれるんだよ。例えば、『団子一つの為に自らの命を投げ捨てて、敵対してる組のシマを潰せ』とか。従順だからさ、今は外に待たせてあるよ」
商品名、きびだんご。
《芝刈里会》会長——面倒だから爺と呼ぼう――が開発した、食べさせるだけで洗脳が完了する、魔法の団子。たしか、となりの牢に入っていた人はそれを食べて、狂人と化した。
「部下じゃなかったのか?」
「もちろん部下だよ、うん。でもね、私さ。モモくんをこんな風に扱う人間に人権なんてないと思うんだよね。だから、大丈夫。すべて問題ないんだよ」
いつからこの子は、こんなに病んでしまったのだろう。
まあ、無理もないか。こんな場所じゃあ。
納得する。
だけれど、納得は出来ても説得を止めるつもりはなかった。
「お願いだ、キメラ。もうここに来るのはやめてくれ」
「どうして? 私、楽しいよ、こういうの。それに、誰にもばれないから大丈夫だよ。お爺ちゃんは私のこと信じ切ってるから、こんなことしてるなんて考えてもいないし」
「そういうことじゃないって言ってるだろ!」
思ったより大きい声が出てしまった。
向かいの牢の奴がのそりと身体を起して、「またか」みたいな顔で、ジロリと睨みつけてきた。睡眠中だったようだ、起こしてしまって申し訳ない。
俺は少し声のトーンを下げて、この分からずやを諭すように言い聞かせる。
「お前の地位が危ないだろうが」
「……モモくんも危ないんじゃない? ほら、死んじゃうよ」
「それはそうだけど、それにしたって、お前が危険なことに変わりはないだろ」
言うと。
キメラは困ったような、絶妙に微妙な笑顔を浮かべて、ぼそりと呟いた。
「そういうところなんだよなぁ……」
「なんだって?」
「ううん、何でもない」
苦笑だった。彼女は苦笑いをして、ひらりと右手を振ると、半歩後ろに下がった。
「もうそろそろ時間だから、私行くね。じゃあね、モモくん」
「……もう二度と」
来るな。
そう言おうとしたところで、キメラはパタパタと出口へ走って行ってしまう。
ありゃあ、また来るな……。
うんざりする。がっくりと項垂れて、分厚い鋼鉄の扉が閉まった音がしてから、俺は顔を上げた。何となく見ると、向かいの奴隷は……まだ、こちらを睨みつけている。
「ごめんって」
無言。
静寂。
キメラが去って一気に静まり返った牢獄に、短い謝罪が響いた。
幸福と不幸はワンセットだと、俺は確信している。
勿論これは勝手な思い込みかもしれないし、大半の人間にとっては嘘なんじゃないだろうか。誕生日プレゼントをもらったら放火されるとか、友達ができたら親友が一人いなくなるとか。そういう人ばっかりじゃないだろうと思うし。
俺の場合はそんな感じだけど。
まあ、だからこそ俺は今、床に置かれた、端の欠けた平皿に視線が釘付けなのだ。
「スープ……」
スープ。
それは俺にとって超高級料理だった。フォアグラとか、トリュフとかよりもずっと。一度も口にすることは叶わないのだろうと半ば諦めていたが、まさかこんなところでお目にかかれるとは。
感動である。
しかし、ここは牢獄。
普通ならこれは最後の晩餐とか呼ばれるやつだ。最初で最後の慈悲に、死の直前くらいは良いものを食わせてやるよ、という上から目線が極まったおもてなし。
逆に言えば死刑宣告。
透き通った、皿の底が見えるほど奇麗なスープの表面に、俺は死神とか、そういったモノを見た気がした。美しさとかいったものは、度が過ぎると恐怖の対象になるのだろう。
腹が鳴る。
死ぬのだろうか、俺は。
いや、殺されるのだろう。
これを飲んだら、俺はどうなるんだろう。どうされて、しまうのだろう。
考えて、その思考が全く意味を成さないものであることを悟った俺は、別の事を推理することにした。それは、どうして俺に『最後の食事』が回って来たのか、ということ。
皮肉にも、そっちの方が簡単に答が見つかった。
「……アンタか」
立ち上がって、鉄格子の向こうに見えるもう一つの牢へ言葉を投げる。
やはり、あっちも俺と同じように格子に顔を押し付けて、苦い顔をしていた。
「アンタが、密告したんだな。俺とキメラが会ってるって。会話をしていると。で、どうだったんだよ。そりゃあお前、俺をこれから殺すんだ、何かしら報酬は得たんだろ」
「……ああ」
「具体的に言え。じゃないと、気が収まらん」
拳を握る。
だが、ここから奴の顔面まで、それが届くはずもない。それが分かっているからだろう。奴は余裕たっぷりに、薄く笑った。
「商品の身分から、解放してくれると。それから、先に売られた妻と引き合わせてくれるって話だ。お前のお陰だ。お前が、あの小娘と逢引なんぞしているから、こうなった。あの世間知らずが夢を見るからこそ、こうなった。儂を恨むなよ、そんな目で見るなよ。全てお前らが自制を知らんからだ。だからこうなったのだろう」
「……お前は幸せになれるか」
「あ?」
奴は訝しげに眉を顰めると、耳を澄ましたようだった。
「お前は、これで幸せになれるか、と聞いている」
「……お前さんはとんでもねぇ馬鹿野郎だな。そりゃあ儂は不幸にしかなれんさ。自分よりも若ぇのを踏み砕いて生きるなんて、罪悪感でたまらんよ。でもな、死ぬよりはずっとマシだと思った。変な薬やら実験のモルモットになるよりかは不幸が軽い」
不幸が軽い。
それは言い得て妙だ。
「そうか」
ぐびっと。
並々と注がれていた味付きの液体を一息に飲んで、俺は思う。
こういうのなら悪くはないか、と。
キメラの奴、上手く言い逃れることは出来たかな、と。
ぼんやりと思って。
視界が――暗転した。
目が覚めた時、目の前を川が流れていた。
一瞬三途の川かと思ったが、どうやら、まだそうじゃないらしい。死後の世界なら全身を麻縄でぐるぐる巻きにされて、猿ぐつわを噛まされたりなんかしないだろう。神様とか天使とかがいたとして、そいつらが仮にサディストだったとしても、ここまでの加虐嗜好はないだろうし。だとすると、まだここは現実世界だ。
ここは一体どこだ。
響くような頭痛に顔を顰めつつ、周囲を確認する。
するとどうやら、俺が寝転がっているのは地面らしい。いや、川が流れている時点でそれは確実だけど。で、周囲には数百数千、もしかすると数万かもしれないが、樹木が無数に生えていた。近くから虫の鳴き声が聞こえる。
時刻は、とりあえず昼間ではない。
三日月が空にあるからだ。
しかし正確な時間を求めるとなると、俺は沈黙せざるを得なくなる。あたりまえのことで、ずっと地下暮らしをしていた俺に日の光を浴びる機会なんてなく、体内時計があてにならないからだ。
でも、多分、今は深夜。
それは、俺から五メートルほど離れて地面に穴を掘る二人組を見れば、何となくわかった。そういうことをするなら、一般人が寝静まった時間が最適だ。
周囲には黒くて縦に長い、丁度ひと一人くらいは入りそうな袋があった。
なるほど、な。
自分の置かれた状況を理解するとほぼ同時に、『墓穴』を掘っていた二人の内の片方が、俺の目が開いていることに気付いたらしい。
「やった起きたか、ええ? モモくーん?」
気色の悪い響き。
「時間無いからさっさと説明するぜ。お前がウチのお嬢にちょっかい出してんのを会長が知って、お前を生き埋めにすることになった。そういうことだから、挨拶も済んだことだし、袋に詰めるぞ」
袋詰め。
なんか、お得そうだと思った。
「しっかしお前も阿保だけどよぉ、お嬢もお嬢だよな。身分を知らねぇっていうか」
「黙れ、どこで聞かれてるか分かんねぇぞ」
「おっと、そうだったな」
雑談をしながら軽々と俺の身体を持ち上げ、袋に入れるガラの悪い男二人。
そうか。
キメラは……逃れられなかったか。
周囲の悪評から。批判から。こうなってしまっては、彼女に合わす顔など俺にはない。もうどうしようもない。大人しく埋められるしかないだろう。
思って。
けれど、次の台詞で、心の中にスッと鋭利なものが突き刺さった気がした。
「支部の連中がお嬢の始末に乗り出すって話だぜ? お花畑に《芝刈里会》背負わせるわけにはいかねぇって。そりゃあそうだ、そうに決まってる」
始末?
キメラが……殺される?
俺の所為で。
それは……なんか、駄目だろ。
なんでとは言えないけど。彼女は、まだ死んで良い人間じゃあない。飴玉なんてものを、当時の彼女ならきっと自分が食べたかったくらいだろうに、汚物まみれの奴隷にくれてやれる温かい奴が。
あんなに人を想える奴が。
死んで良いわけが、ないんじゃないか?
死んで良い人間がいるとも思わないけど。でも少なくとも、こいつらは――他人の死を一つのニュースだとでも錯覚しているような、日常会話のネタにしてしまえるこいつらは、罰せられるべき人間ではあるんだろう。
なぜ、ここにこいつらを罰することの出来る奴がいないんだ。
絶対的強者が。
圧倒的正義が。
何故、深夜だからって理由くらいで、この会話を聞き逃すのか。
「おいおい……」
これは。
「——死ぬわけには、いかないじゃないか?」
俺はそう言って、『回転』をした。
痩せこけた身体で唯一出来る逃走方法だ。
既にチャックまで閉められてしまった袋の中で、俺は必死に体を回した。先程の二人組の、驚いた声が聞こえるが、もう遅い。
「あ」
ばしゃん、と。
俺は川に落ちて。
どんぶらこ、どんぶらこと、川下へと流されていった。
——昔々、あるところに奴隷の青年がいました。
彼は奴隷でした。なので、彼は奴隷としか呼ばれませんでした。そんな中、とてつもなく偉い少女がやって来て、青年に『モモくん』という名前を与えます。
少女は、猿とキジと犬を合成したような人でした。
時は経ち、五年後。
モモくんは同じ奴隷の密告により、組織に、その偉い人と密かに会っていたことが知られてしまいます。
目が覚めると、彼は山の中。
生き埋めにされかけたところで、なんと、川に落ちてしまいます。
黒い袋に入ったモモくんはどんぶらこ、どんぶらこと川を流れていきます。幸いなことにその袋はビニール製で、チャックもしっかりしていたので、そこまで水は入って来ませんでした。ただ、それはあくまでも『そこまで』であって、彼が溺死するのも時間の問題でした。
と、そこへ。
奇しくも川で洗濯物をしていたお婆さんが、川を流れるモモくんを見つけ、倒木に引っかかったところを十分かけて陸にまで引き上げてくれました。
そして、小休憩を入れつつ更に三時間かけて家まで引っ張っていきます。
「さぁてどうしようかねぇ。畑に埋めたら作物が育つかねぇ」
お婆さんはモモくんを肥料にしようとしていました。
ですが、袋のチャックを開けるとびっくり仰天。唇が青くなったモモくんが、浅く呼吸をしていました。しかも、か細く「キメラ……」と繰り返し何者かを呼んでいます。
子供がいなかったお婆さんは大喜び。
手厚く、お婆さんはモモくんの世話をしました。
二日後。
ようやく目を覚ましたモモくんは、お婆さんに名を尋ねられました。
「名前は――モモ、です」
「もも? ほう……じゃあ、アンタの名前は
お婆さんはいきなり固形物を百楽郎の口に詰め込みました。
長年食事らしい食事を経験しなかったモモくんの胃は、当然ながら、ニンジンやてんぷらを受け付けてはくれず、お婆さんは仕方なくお粥を作りました。
そんなお婆さんのお陰で、百楽郎の身体はこれまで栄養が足りず成長できなかった反動か、急激に大きくなりました。筋骨隆々、にはなれませんでしたが。十分高身長の域です。
そのモモくんに、お婆さんは一つ昔話をします。
「私ねぇ、若い頃はヤンチャでねぇ。ほれ、百楽郎も名前くらいは知っているんじゃないかねぇ。《芝刈里会》のお頭さんと付き合っていたことがあったのよぉ」
「……」
「でもねぇ、捨てられちゃったのよねぇ」
何十年か昔の思い出を語って涙ぐむお婆さんを見て、モモくんはこの人の為にも、必ずや、あの人道を知らぬ鬼共のシマを潰してやろうと決心しました――
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