輪廻転生、ホタル

 千本吊家の屋敷は、大森林の中央に位置している。

 大森林と言うとあまりぴんとこないかもしれないが、イメージとしては見渡す限りの大海原みたいなものだ。地平線まで緑、緑、緑。とても健康に良さそうな土地。良さそう、ではなく本当に良いのだろうが。空気は澄んでいるし、屋敷の裏を流れる小川には毎年、蛍やらが縦横無尽に飛び回る。それで、梅雨時には使用人の多くが人魂を見ただのと言いだす。

 その噂の大半が、単なる『噂』として片付けられるが、しかし、僕は知っていた。

 無数の光球が天の川みたいに流れるその中に、あの人たちの魂が混在していることを。

 知っているし、確信している。

 こんなことを他の使用人に言うと、「根拠は何だ」と鼻で笑われてしまうが。

 僕は知っている。

 あの中に、主人がいることを。

 馬鹿げた話だとは、僕自身分かっていた。

 だけど、たとえばゲンジボタルなんかは源氏から名前がきているそうだし。やっぱり、蛍というやつは人間の死後の姿なんじゃないか。

 猫みたいに。

 死んでしまったら、その人は蛍になる。

 魂の輝きを、スピリチュアルなエネルギーを発散して誰かを呼んでいるんじゃないかと思うのだ。非科学的で確かめようのない、妄信に近いものかもしれないけど。

 非科学的というのなら、こんな一個人の妄言より、千本吊家の方々のほうがよっぽどだ。小間使いの分際で……なんて言わないでほしい。だって、実際は、ぼく達は使用人ではないのだから。自称しているだけなんだ。だから、この屋敷には雇用者も被雇用者もいない。

 庭師を自称するそばかすの女の子も。

 執事を名乗る壮年の男性も。

 勿論、僕だって。

 皆が皆、ボランティアみたいなものだった。正確には違うけれど、大体そんな感じ。唯一の差異は、僕らはそれぞれ、千本吊の人間に対して特別な感情を抱いている、というくらい。

 親愛だったり情愛だったり、種類は様々だけど。

 叶わぬ想いを引きずっているんだ。

 叶えたい想いを、叶わないものだと理解しながら抱きしめている。

 ――おっと、話が脱線してしまったな。


 閑話休題。


 ええと、何の話だったか……ああ、そうそう。千本吊家が、いかにファンタジーな存在かという話だ。どれだけ化学を舐めているかというお話だ。

 まず、一つ目。

 千本吊に生を受けると、半世紀も人として生きることが出来ない。

 その理由は決定的だ。彼ら彼女らは、成人すると同時に、首の裏に種を埋める。あの人たちは、己の血肉で木を育てるのだ。それで、大体五年後くらいには木になってしまう。

 どういう意味かって?

 そういう意味さ。

 言葉通り、木を植えて木になるんだ。皮を破って芽吹いた小さな生命が、徐々に根を伸ばし、背骨を伝って全身を支配する。そして水分という水分を、養分という養分を、少しずつ吸い取っていくのだ。寄生樹とでも言おうか。二年目くらいになれば、宿主は食事を必要としなくなる。光合成を習得するからだ。

 口にするのは水のみ。

 まあ、更に一年くらいすると口から物を摂取する必要もなくなるのだけれど。

 足を水に浸けるだけで十分に、なる。

 それが果たして進化なのか退化なのか。僕程度には想像もできない。自分の手から生えた枝を見て、穏やかに微笑んでいるような人たちの神経を、理解できるはずがない。そもそも進化だろうが退化だろうが、僕にはあまり関係のないことだった。

 進化だったら良いという話でもないし。

 退化だったら悪いという話でもないから。

 結局のところ、そんなのはどうだっていい。どっちだって変わらないからだ。愛する人が、終身仕えようと心に決めた主人が変化していくのに、下らない思考をしている暇はない。

 僕らの頭にあるのは、一秒でも長くこの人の隣に在りたいという、願いのみ。

 そのためになら倫理だとか論理だとか、そういう現実的な理屈は捨てる。理性はゴミ箱へ。感情だけで、激情だけで動く。一週間寝ていなくても、飲まず食わずでも。血眼になって、死に物狂いで仕えるのだ。

 素敵だろう?

 いや、狂気の沙汰だと嗤われてしまうかな。

 でも僕らは幸せだ。享楽だけで生きていると言っても過言ではないくらいに。僕は、彼女が完全に樹木と化してしまったその日まで、完璧に幸福だったよ。

 もちろん、今だって。

 彼女は年に一度、蛍となって僕のもとを訪ねてくれるから。

 だから生きていられる。

「とは言っても……やっぱり、キツイものはあったけどさ」

 ぽつりと呟いた言葉は、とっくに消灯時間を過ぎた屋敷の暗闇に、溶けた。

 そっと。

 誰にも拾われず。

「ふう……」

 溜息を吐く。それは、儀式だった。自室に戻るための定型的な礼儀。はやる鼓動を抑え、震える両手をぐっと握り締め、肉に爪を立てる。血が滲んだ。僕は床に置いていたランプを持つと、目の前の螺旋階段を睨みつける。

 鎖につながれたように重たい足を、その一段目に乗せる。

 毛足の長い赤の絨毯に、愛用している革靴が若干沈んだ。

 一歩、一歩。確実に、正確に、躓かないように上る。足音は立てない。ひたすらに、無音で足を動かす。心地良い虫の音だけが聞こえる、雑音のない世界を途切れさせないように。

 彼女と逢うために。

 沈黙は必須なのだ。

「……」

 しばらくして、僕は三階の、自室のドアの前に辿り着いた。

 注意して瞼を閉じる。そして、全神経を聴覚に集中させる。あの音が聞こえるように。あの音だけが聞こえるように。切願と涙を飲み、じっと耳を澄ませる。

 ——コツ、コツ。

 ああ。

 ……ああ!

 今年も、来てくれた。

「待っていてくださいね。今、行きますから」

 にやけそうになる頬を必死に整えながら、僕は柔らかい声を意識して言った。「お嬢様、今年は何処に居たんです? 昨年は、何処に行っていたんです?」ドアを開けると、縁に花瓶を置いた窓の外に、光球が浮かんでいるのが見えた。魂が、せわしなく僕の部屋の窓を叩くのを確認して、頬に熱いものが流れるのを感じる。

「開けますから、落ち着いて」

 横に倒した金具の柄を、ぐっと握って起き上がらせる。

 窓を開けると、光は一直線に僕へと飛んできた。飛来した彼女からは森の香りがした。豊かな土の香り。森の恵みを集結させたような、そういう感じだ。

「貴方の木は無事ですよ。僕が毎日手入れをしていますから。貴方の部屋も、貴方との思い出も、全部、そのまま。いつでも貴方が帰ってこれるように、昔と同じです」

 貴方の居場所を守るのが。

 僕の唯一できること。

 目まぐるしく移り変わる時の中で、貴方との記憶が色褪せてしまわないように。

 狂おしいほど皮肉に、緩やかだけれど激変していく貴方たちの在り方のために。

 僕たちはこの森を守る。

 帰って来たいと思ってくれた、その時。

 帰ることのできる場所がもう無かったら。

 この人達は、きっと悲しむだろうから。

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