ドッペルゲンガーと愛娘

「僕は、随分と馬鹿なことをしたんだね」

 赤や青、黄色なんかの、見ているだけで目がチカチカしそうな、多様なコード。それらを根のように縦横無尽に張り巡らせ、狭苦しい部屋の中央に直立した縦長のカプセル。

 その中で、もう一人の僕がシニカルに笑んで、自分が裸体なのに気付くと少し眉を顰めた。

「おいおい、服くらい着せてくれたって良いんじゃないか?」

「無茶を言うなよ。カプセルの中は完全に、清潔に保たなければならない。そうしないと、クローンは完成しないから。そう、完成しないんだよ」

「分かっているさ。だから、失敗に終われば良かったって意味だよ」

 失敗に終われば。

 失敗で終結すれば。

 それで良かった。

 それこそが正真正銘の成功だった。

 本体であるこの僕を、憐憫を込めた目で見下すカプセル内の僕——ああ、これではややこしいから、向こうの僕のことは彼と呼ぶことにしよう――は、心底から残念そうに項垂れた。

「だってそうだろう? 僕の寿命は、あと一日もあれば良い方だ。正確には、オリジナルの方の寿命だけどさ。自分自身のクローンを作ってまで、『僕』を保存しようだなんて、馬鹿げているよ。お馬鹿さんなんじゃないのか、そこの僕」

「……仕方なかったんだ」

「ああ、仕方がなかった。こうせざるを得なかった。分かっているさ。知っているよ、勿論。僕はね、僕のことなら零から十まで知っているつもりだよ。当然、これが思い上がりだということまでね」

 彼はそこで一旦、言葉を区切ると、床も天井も壁も白の部屋の中で、唯一の色にも思える写真を見つめた。眉を顰め、唇を嚙み締めて。じっと凝視すると、皮肉っぽく口元を歪めた。「可愛いよな、さすが僕の娘だと胸を張れるよ。なにせ、この親父を奇行に走らせた愛らしさだ。常軌を逸しているのは間違いない。たとえ、親の贔屓目だとしてもね」

 愛娘。

 ただ一人。少女が、木漏れ日を浴びてはしゃいでいる。その光景を、たった一瞬を切り抜いた静止画が、壁にかかっている。

 今年、小学校に上がったばかりの幼い子だ。

 彼は頷いた。「確かにこうするしかなかった。二者択一はあり得なかった。分かっているよ、僕」そう言って、緩慢な動作で、重たそうに右腕を動かすと、身体の至る所に刺さったコードを、一本ずつ極めて丁寧に抜きはじめた。

 まるで噛み締めるように。

 後悔を、幸福を。

 酸いも甘いも。

 慎重に嚙み分けるように。

「分かってくれるか。分かってくれるよな、僕。そうなんだ、仕方がなかった。あの子には……母親がいない。僕には妻がいない。だから、だから!」

「そう大きな声を出すな、死ぬぞ」

「……っ」

「皆まで言うな。分かっているよ、その程度。娘を一人にしたくなかったんだろ? そうだろうさ、僕が考えそうなことだ。だって、僕もそう思うからな。そうなんだろうさ」

 彼はまた、頷いた。

「そうなんだろうさ。僕はそういう奴だ」

「……ああ」

「だからこそ僕は後悔をしている。クローンは、『本体に酷似した複製を作る技術』だ。瓜が二つあったところで、それは瓜二つなだけであって、味やら水分量やらには差が出るものだ。それと全く同じ。僕と『僕ダッシュ』が出来たところで、根本は違っている。別物であり別者なのさ。この僕がこれから先、あの子と共に生きても、それ以前の僕はこの世にいないのだから、僕が生きているとは言い難い」

「分かっている。未来では、僕は死人だ」

「そして生者なわけ、だ。……はは、冗談みたいだな。これじゃあ僕はドッペルゲンガーだ」

 オリジナルの死を足場にして。

 オリジナルの消滅を前提に完成する侵略者。

「ごめん」

 気付けば、僕は謝罪していた。

「君に背負わせることになってしまって」

「本当だよ、まったく。ふざけるなよ、冗談じゃない。とんでもない罪悪感だ。とんでもない背徳感だ。こんな重荷を背負って生きろだって? こんなペテン師が、何も知らない娘の前で父親面しなくちゃいけないんだぞ。生き地獄だ、これこそまさしく」

 彼は、全身のコードを抜き終えると、恐る恐るといった風に、カプセルから一歩、足を踏み出した。色を失った床を踏みしめ、彼は一つ溜息を吐くと、ゆっくりと歩み寄って来て、僕の両目を、小刻みに振動する冷えた手で覆い隠した。

 視界が暗くなる。

「もう、喋るな。大人しく眠って、そこを潔く僕に明け渡せ。もうお前の場所はないんだよ。これからは全て僕のモノだ。躊躇ってんじゃねえよ、もう――取り返しがつかない」

 か細く、彼は囁いた。

 瞬間。

 途端に全身の力が抜けてしまって、僕は膝からその場に崩れ落ちた。

 崩れ落ちて――僕は、心身の崩壊を感じた。

 微塵となって、崩れ去るのを、自覚した。

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