他愛塗れの君と、他愛もない僕
あの人の姿を見られなくなって、まだ久しくない。
けれど、僕の感覚では何十年、何百年も昔のことのようだった。現実的には勿論、彼女を失ったのはたったの数日前で、僕は白髪の一本も生えていないのだが。両手に青とか赤の血管が浮き上がっているわけでも、骨と皮だけの鶏みたいな足になっているわけでもないのだが。
でも。
気分としては、そんな感じだ。
永劫の時を、ただ一人で放浪しているような感覚。
唯一という奇麗ごとで覆い隠した孤独感を、大事そうに抱きしめるように。少女がテディベアを抱きかかえるように、僕はまた、自覚的に己の胴体に腕を回す。
空気が冷え切っていた。
鳩尾の辺りで交差させた両の腕には、鳥肌が立っている。それは冷感に堪える人体の当然の機能だった。そして、今の僕では微塵も必要性を感じられない機能だった。
ただただ、邪魔なだけだ。
から、僕はその機能を切り離すことにする。
『周囲の気温が低いと鳥肌が立つ』という、おそらくは全人類共通の反射的な、本能的な現象を、僕は捨てた。こう、手のひらで腕を叩いて、虫でも潰すように。
パチン、と。
細かく震える右腕を、続いて左腕を叩いた。
それだけで。
たったのそれだけで、僕は鳥肌の概念を忘却することに成功した。
成功してしまった。
その事実は、いっそ悲しいくらいに、この世界が夢であることを表していた。如実に。数学の小難しい証明よりも、もっと明らかな証だ。仮定も過程も必要ないくらい簡潔な非現実。
まあ、そんなこと、わざわざ確認するまでもなく。
そもそも状況が狂っているのだが。
僕が直立しているのは、結氷した巨大湖の上だ。日本最大の湖が琵琶湖という話だが、この湖は滋賀県の誇りを容易く凌駕する規模だった。どこまで歩いても終わりはなく、終わりなんて歩いても見つかるはずがない。日本全土を沈めてもまだ限界を感じさせないほどの、もう海と言ってしまえば良いのに、と呆れてしまうほどの巨大淡水湖だった。
何処に目を向けても、何も見えない。
それは、僕の目が悪いから、とかいう平凡かつ平穏な理由ではない。
吹雪いているのだ、世界が。
地平線なんてとんでもない。数メートル先が曖昧に、不明瞭になっていた。四方八方十六方位、どこを注視しようと、透き通りかけた白に包囲されている。強風が猛獣の声で駆け巡り、度々襲い掛かって来た。殴られるたびに、僕はよろめく。
全てを有耶無耶にしたような光景の中。
僕だって例外ではなく、歪んだ輪郭をしていた。
流石夢の中といった具合に、至る所が凹へこんで、出っ張って、抉れて。
幼稚園児の粘土工作みたいに目茶苦茶だ。
しかし、皮肉なことに痛覚だけはいやにはっきりとしていた。微細な氷の粒が異形の皮膚に当たると、鋭利な刃物で刺されたような、鮮烈な痛みが走る。激痛だった。
「はぁ、はぁ」
荒い呼吸。
もう僕には、自分が胸式呼吸をしているのかも腹式呼吸をしているのかも区別を付けられなかった。息を吸うと、角氷かくひょうが食道を抜けていくような錯覚を覚える。サイズを考えてもあり得ないのだが、そのせいで肺を使っているという実感が全くなかった。
完膚なきまでに。
痛覚以外を消し去って。
消し去られて。
喪失して。
「……ぁ」
いつの間にか凍結していた右腕が、肩の関節部分から砕けて、足元に落っこちる。呆気なく、薄い青色の、氷のオブジェが落下して、淡青色の地面に当たると崩壊した。薬指が、手首が、肘が、氷細工そのものみたいに砕けて、風に飛ばされる。
片腕を欠損した僕は、バランスを崩して倒れた。
倒れた衝撃で、両膝から先が四散する。
とうとう身体を支える術を無くした僕は、そのまま前方に倒れて硬質な青と強烈にキスをした。唇に亀裂が入る。だが、流血なんてしない。
血液が凍っているから。
文字通り、残酷に、僕は骨髄まで余すところなく、余せるところもなく凍っていた。余力もなく余裕もなく。完璧に凍り付いた身体は、もう僕の意志で動かせる代物ではなくなっていた。
ただのモノ。
それで良いと思った。
それが良いと思った。
このまま、もっと根元まで――魂や精神とかいったモノまで。有形無形の分別なんか捨てて、徹底的に凍死してしまいたいと、願う。
哀願。
切願。
けれど、現実って奴は容易くそういうのを踏みつけていく。非情に、あるいは愛情たっぷりに。ことごとく僕の望みは却下されるのだ。
視界が、端から段階的に、黒一色に塗り替えられていく。
気配を感じた。それは、死とは似ても似つかない気配だった。徐々に四肢の感覚が戻ってくる。放り捨てた鳥肌のシステムも、嗅覚だって味覚だって。
全てが瞬く間に蘇生される。
ただ一人。
唯一、彼女の存在を除いて。
日常が再構築される。
奇麗ごとで汚濁を騙す現実が。
機敏に愚鈍を装う酷な現実が。
夢を踏み砕き、慈愛に満ちた表情で歩み寄ってくる。
ああ、もう目が覚める。
覚めてしまう。
——本当は、分かっていた。
あの夢が僕のモノである以上、僕の希望そのものである以上、あそこに彼女の姿が見えないのはとんでもない矛盾だと。だって、僕は何者よりも何物よりも、彼女を渇望しているのだから。
なのに、あるのは不鮮明な白のみ。
まったく僕の頼みとは、百八十度逆の景色のみ。
まるで僕ではなく、彼女自身が拒否するかのように。
僕の夢中に出現するのを、首を振って苦笑するように。
「そういう、ことなんだろ」
霞んだ、寝ぼけ眼の世界に一瞬、彼女の幻影を見た気になって。
手を伸ばすと、その半透明な手に振り払われる。
「忘れてくれって……そういうことなんだろう。……なあ」
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