人魚岬と瓶詰めレター
あれは、七月の終わり頃のことだったと記憶している。
俺の記憶力がどれほど当てになるかは不明だが、多分、そのくらいだ。夏もいよいよ終盤に差し掛かって、ラストスパートだと言わんばかりに、太陽が強烈に照っていた。
煌々と、光り輝いていた。
うちの島は、とにかくあつい。空気は窯の中みたいに、燃えているんじゃないかってくらいに、暑いし。黒色のアスファルトも、海沿いの砂浜も、熱い。
どこもかしこも熱気で一杯だった。
なんなら飽和していた。
だからだろうか。狂気じみた熱量に脳がやられてしまったのか、奇妙な、怪談のようでそうでもない噂が、島民の間で囁かれるようになった。
——岬に、人魚が出る。
要約すれば、それだけの馬鹿げた戯言。
もちろん俺は、最初鼻で笑った。だって、人魚なんて大昔の船乗りが思い付きで言ってみただけの、幻想だろ? ファンタジーってやつだ。
分かっていたし、分かり切っていた。
だけど。
俺は、何を思ったのか、話題の岬に通うことにした。
行くのではなく、通う。継続的に、様子を観察することにしたんだ。その奇行について、幾つか理由を挙げるとするならば、苦し紛れの言い訳みたいな言葉しか思いつかないけど。
夏休みの自由研究の題材にする、だとか。
興味本位とか、肝試しとか。
ありきたりな、王道っぽい建前は、今となってはもう必要のないことだから、この際、はっきりさせておこうと思う。特別隠すようなことでもないし、子供っぽいと言われればその通り。あの頃の俺は世間の『世』の字の一画目も知らないガキだった。
いや、冗談だけどさ。
流石に、そのくらいの漢字は書けたさ。
きっと。
……とにかく、未熟で幼稚でどうしようもなく青かった当時の俺は、人魚が存在することに期待して、一人、夕暮れで辺りが赤く染まるまで海辺をてくてくと歩き回っていた。
そう。
期待していたんだ。
人魚なんて非現実が、現実に現れることを。夢見がちな性格の俺は、夢遊病者のように、ふらりと人魚を探しに行って、それで帰ってきた。
夢の中で夢を探すような、そんな足取りだったと思う。
千鳥足とは違うけれど、どこか頼りない歩行だった。大体、そんなものだろう。実在すること自体が疑わしい、というか、自分自身いるはずがないと半分くらい理解していた生物を探していたのだから。
対象が曖昧だと、こちらまでふらふらしてくる。
揺らいでしまう。
から、俺は揺らぎを全否定するように、半ばやけくそになって、毎日岬に通った。
朝起きて、食事を昼の分まで胃袋に押し込み、駆け足で岬へと向かった。
噂が流行してから、その岬は『人魚岬』と、あからさま過ぎるだろうと呆れる名称で呼ばれるようになっていた。そんな魑魅魍魎の岬に、すき好んで朝から晩まで通い詰めていたものだから、数日としないうちに俺のあだ名は『人魚男』になっていた。
こちらを指差してクスクスと笑う女子達に、「俺の肉食ってみる?」と言ってみたところ、「逆に病気になる」だとか言われた。
解せぬ。
まあ、否定はできないが。
でも、『人魚男』の肉を喰らって、病を患うと言うのなら『人魚』の肉を頬張っても長生きは出来そうにない。永久の生なんて、夢のまた夢の夢くらい遠い話だ。
やはり、迷信は迷信に過ぎないということだろう。
納得して、あの日もやはり、俺は人魚岬をぐるぐると周回していた。
飽きもせず、足裏に血が滲んでも黙々と。
話す相手が一人としていなかった、というのが主な原因だが。
沈黙して歩いていた。
が、しかし。かなり久しぶりに、俺はあの時、発声した。
「……おっ」
人魚を見つけたわけではない。
ただ、珍しいものを発見したのは確かだった。
加熱した鉄板のように熱い砂浜に、先端から突き刺さるようなかたちで、ワインボトルが立っていた。それは、直立だった。田舎を極めたこんな土地で、ワインなんて洒落たものを飲む人はいないから、きっと漂流物だ。水平線の遥か彼方にあるらしい、外国からのワインボトルだろう。
考えて、ただのゴミだというのに、俺はそれに引き寄せられるように近付いた。
接近して、底が上を向いた半透明なボトルを見て、固まった。
なんと、ワインボトルの中には手紙が入っていたのだ。
ボトルメールってやつだ。
中々、浪漫がある。
そういう、現実的でないものは良い。月の裏側には地球外生命体の巨大都市があるとか、アトランティスとかいう超古代の都市が海底に沈んでいるとか。
素敵だ、と思った。
俺はほとんど躊躇せず、砂に突き刺さったボトルを引き抜いて、固く栓をされたそれを家へ持ち帰った。ほとんど、というのは、これを俺が開けて良いのだろうか、という不安が僅かにあったから。けど、どうせあのままでは誰にも読まれることはなく、本当にただのゴミになってしまう。
だったら、俺が読んでやろうという意地だった。
家へ持ち帰ったは良いものの、栓抜きなんて我が家にはない。だから、一生懸命引っ張って、回して、逆に押し込んだりして、一時間くらい栓と格闘した。
しばらくして。
ポンッ!
なんて間の抜けた音とともに、手紙が解放された。
引っ張り出した紙は真新しい物のようだった。白くて、触り心地も異常がない。二つ折りで仕舞われていたそれを、加速する動悸を感じつつゆっくりと開くと、そこに書いてあったのは、日本語だった。
少し、落胆したのは言うまでもない。
英語とか仏語だったら辞書を引いてでも解読してやると意気込んでいたのに、見知った言語だったから。そのせいで、最高潮にあった浪漫が半減した気がしたから。
けど、ここまできて読まずに捨てるなんて不細工は、できるはずがなかった。
『貴方は何をしているの?』
問い掛け。
親近感の湧く、気軽さが溢れる調子の文だった。
それに対して、俺は返事を書いた。
『人魚を探しているんだ。君は?』
で、海に流した。
洒落たワインボトルに入れて、送り主に届くはずもないのに、波が膝まで来る所から思い切り、遠くにぶん投げた。
運動不足のせいか、そこまで遠くには届かなかったけど。
あとは波がやってくれると、相棒に仕事を任せたような気分で、海面に浮上してキラキラ輝くボトルメールを眺めた。どこに行くのか、どこに着くのか。付いて行って確認したいくらいだったが、それでは手紙を書いた意味がないし、そもそも出来るはずもないので、眺めるだけだった。
翌日。
また、昨日と同様に、浜辺にボトルが突き刺さっていた。
返事が早すぎるだろ。
そう心中でつっこむと同時に、なにか、薄ら寒いものを感じた。俺は昨日、確かにこいつを海へ投げ込んだはずじゃなかったか? 野球選手みたく何十メートルも飛ばせたわけではないけど、目測で十メートルと少しくらいの位置に、ボトルは落ちて、それから向こうに流れていったはずじゃあ、なかったか?
記憶違いでなければ。
そのはずだ。
けど、こうして先日と同じワインボトルが、先日と同様の位置にある。
考えられるのは、俺があの場を去った後に何者かが、わざわざ泳いでボトルを回収し、栓を開け、中身を読み、返事の手紙を中に入れて砂に突き刺した……とか。
だとすると。
「見られてるのか? 俺は」
周囲を見回すも、案の定というか、誰もいない。
影どころか気配だって、僅かにもありはしなかった。
小豆を転がすような小波の音と、斜面に自生している樹木の緑。木陰には背の高い草や、野鳥なんかが見える。空には若干、奥の方に暗雲が浮かんでいるくらいで、それを除けば快晴だった。いっそ気持ちが悪いくらい、いやに気持ちの良い晴天があった。
誰もいない。
そうだ。ここには、俺の他に人はいない。
一度、初心に戻ることにした。俺は、一番に掲げた動機を口内で反芻して、無理矢理に、そういうことにした。俺はこの人魚岬に現在一人で、俺が帰った後には、人間は、いない。
自分に言い聞かせて、慎重に、ボトルを手に取った。
それから、今度は昨日の倍くらい時間をかけて栓を抜いた。
『私? 私はね、海に揺蕩っているの』
新品っぽい手紙には、そう書いてあった。
瞬間、俺は頭のてっぺんから足先までを電撃が抜けたかのように錯覚した。人魚。ただの二字が異常に気分を高揚させた。人魚、人魚は本当にいる! しかも、文通ができる!
その日から、俺は彼女(便宜上、そう呼ぶことにした)とのボトルメールに没頭した。
俺は、誰にもこのことを話さなかった。
それは勿論、この奇跡を独占したいという欲塗れの感情があったからでもあるし、もし俺が彼女について口外したならば、人魚肉がこの島の特産品になってしまうかも、と考えたからでもある。
でも、それ以上に。
俺は、彼女との文通を一か月、半月、一年、二年と続けるうちに、惹かれていたのだ。
可笑しな話だった。伝説上、人魚は船乗りを惑わし、海に引きずり込む極悪非道で非情な化物のはずが、彼女は陸の人間を誘惑してしまったのだ。
まあ、うん。
それは、つまり迷信は迷信に過ぎないということなのだろう。
現実が全て言葉通りなわけがないのだった。
『今日は暑いな。体調、大丈夫?』
『うん。貴方こそ、毎日こんなところに来て、熱中症になんてならないでよ?』
『ならないよ。馬鹿は風邪にも熱中症にも強いんだ』
『あはは。なにそれ、万能じゃない』
『好きな食べ物とか、ある?』
『私はね、林檎が好き。貴方は?』
『俺も林檎が好きだ。今度、林檎を買って来るからさ。一緒に食べようよ』
『うーん……私の家、門限が厳しいからさ。ちょっと難しいかもしれない』
人魚の家庭にも門限があるのかと、少し驚いた。
こんな風に、俺達は手紙でのやり取りを、結局四年くらい続けた。中学の卒業式を目前に控えても、合唱練習をサボって手紙を書き、海に流した。周囲からは完全に変人扱いだった。友達なんてただの一人だっていなかったよ。
でも、それで良いと思った。
そんなことでこの幸福が、この日常が守られるのなら、俺に友人は必要ないと確信していた。このまま、このままで良い。このままが、良い、と。
だけど。
彼女は違った。
中学卒業まで、あと一日。寝て起きれば、もう中学生ではなくなる……という日に。
彼女は。
人魚であるはずの彼女は。
『明日の、放課後。日が暮れた頃に、学校の屋上に来て下さい』
大事な話があります、と。
手紙の端に、明らかな人名を書いて、彼女は俺を呼びつけた。
そこで、俺は驚愕も絶望も、そういう大袈裟なリアクションをすることはなかったと、言っておこう。ただただ、ああ、やっぱり。という、納得をしただけだった。
それだけだった。
迎えた放課後。
約束通り、俺は頭上が赤く染まった頃に、その日卒業したばかりの中学校の屋上に立った。
そこに居たのは、やはり俺と同じような制服を身に纏った、一度以上は見たことのある女子だった。たしか、水泳部の女の子。水泳が抜群に上手い人として認識していた気がする。
この人が。
この女の子が。
文通の相手?
彼女は、ストレートの黒髪を肩ぐらいまで伸ばしていた。黒、と言うより漆黒に近い。奇麗な色だった。健康的な色合いの唇は、緊張を隠すために嚙み締められていた。固く握られた拳には水掻きなんてない。人間、そのもの。
動揺はしなかった。
かわりに、俺は見惚れていた。
紅蓮の色に燃える世界を、大海原に沈みゆく太陽を。壮麗な景色を背景にして、それらを背景にまで劣化させて。まるで、あらゆる美を吸収して己のものにしてしまったかのような彼女の姿に、目線が釘付けになった。
小刻みに震える口を、彼女は一度、一の字に引き締めると、囁くように言った。
「ずっと……ずっと、四年前から、好きでした。つ、付き合ってくだし」
嚙んだ。
舌の先に、相当強く歯を立ててしまったらしい。彼女は涙目で口を押さえると、プルプル震えた。生まれたばかりの小鹿、みたいに。
ああ、うん。
どうしてだろう、憎めなかった。
憎みたいとも思わなかったし、思ったとしても憎めない。
「——付き合おう」
「……?」
「だから、付き合おうって言ったんだよ。ずっと、手紙に書こうと思ってた。でも、書けなかった。弱虫だからさ、俺は。だけど、君がそう言ってくれるなら、付き合いたい」
言った。
胸中につっかえていた感情を、吐き出さないように、丁寧に、伝えた。
――俺は、記憶している。
この記憶がどこまで信頼できるものなのかはさておき。風景をナノ単位で、鮮明に思い起こせる程度には、鮮やかに記憶している。
彼女の名前を、姿を知った日のことを。
そこに至るまでの、四年にも渡る、極端に遠回りだった足跡を。
——そして。
「そういえば、水津くんはあそこで何を探してたの?」
泣き腫らした目。
少し間を開けてしゃくりあげた彼女の、途切れかけた、心底から不思議そうな声を。
俺は確実に記憶して。
遠く、穏やかに揺れる黄金の水面に、あの魑魅魍魎の岬に向かって、柵越しに苦笑した。
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