第6話
「天気が悪いな。これじゃろくに開花もできん」
スズの舌打ちが、激しさを増す雨音でかき消される。
家を出た三人は、コンビニの軒先で雨をしのぐことにした。
「ちょっと傷見せて」
スズが、血のだらだらと止まらないハナの頬を手に取る。
「……よかった。思ったよりは浅いね。ホントなら今すぐちゃんと治療したいんだけど、今は状況が状況だからまたあとにさせて。ごめんね。とりあえず応急処置のためにガーゼと包帯買ってくるから待ってて」
袖をまくったアマネはコンビニの明かりを浴びつつ、そんな様子を眺めた。
ヒリヒリというかズキズキというか。あまりに巨大すぎて区分すらできない激痛に耐える。
「アマネはとりあえず葉にライトを当てとけ。気休めだが、やらないよりはマシだ。ハナちゃんも、できればスマホかなにかで光を当ててやってほしい。あと、こいつがあんま目立たないよう隠してやって。通報でもされたらたいへんだから」
「あ、はい!」
戸惑いつつも元気に返事をする。
そうして店内に入って行くスズを見送ると、ハナはアマネをかばうように立った。
「……悪いな。お前も痛いだろうに」
「アニキに比べればマシだよ」
言いながらアマネの左腕へ目をやり、ハナは口元をひきつらせた。ぐちゃぐちゃの肉の間から白いナニカが見えかくれしている。
「アニキ……その、訊いていいのかわかんないんだけど、腕の葉っぱ、なに? あの人がおそってきたのと関係あるの?」
「あぁ……そうだな。巻きこんじまったもんな。説明しないとな。俺は、"植物人間"になったんだ」
「植物人間? 動いてるけど」
「そういう意味じゃなくて……いやほんとこのネーミングどうかと思うわ」
ややこしいし、なにより不謹慎このうえない。私は"植物人間"ですだなんて、聞く人が聞けばブチギレる自己紹介だろう。
まあ、そもそも人間相手に名乗る機会など、これが最初で最後だろうが。
「この場合の"植物人間"ってのは、腕に葉っぱを生やし、光合成で生きることができる人間のことでな。いろいろメリットもあるんだが、代償として、暗闇ではあらゆる身体機能を失って身動きが取れなくなる」
「もしかして最近家の電気があちこちつけっぱなしだったのって」
「そういうこと」
「スズさんがうちに住むようになったのは」
「"植物人間"になりたてだった俺の生活のサポートのために、ちょっとの間住んでもらうっていう話になったんだ」
多少嘘を交えながら話す。すべて真相を話すには情報量が多すぎるし、最低限の知識を共有しておいたら、あとはおいおいでいいだろう。
「で、なんだけど、あのおっさんはなにかしらの理由で俺やデコト……あいつの命を狙ってきてて……まさか家までおそってくるとは思ってなかった。巻きこんで悪かった」
頭を下げて言う。怒りか、失望か、忌避感か。今ハナがどんな感情を抱えているのか、表情を見る勇気がアマネの中には存在しない。
と、そんなアマネの不安をよそに、ハナは先までと変わらない調子で言った。
「ふぅん。アニキ、たいへんだったんだね」
「……怖くないのか?」
「怖いに決まってんじゃん。殺されるかと思ったし、アニキが刺されてんのに足がすくんで動けなかった」
「いやそっちじゃなくて。こんな、腕から葉っぱ生やした奴気持ち悪いだろ」
「そう?」
アマネの自嘲気味な問いに、ハナは首を傾げた。
「そりゃ初めて見たけど、まあ、そういう人もいるんじゃない?」
「いねーよいてたまるか」
「でもそれを言うなら、地毛がピンクの人なんていないし、爪に模様のある人もいないし、生まれつき刺青が入ってることもないじゃん。だからって怖いとは思わないでしょ」
「刺青はわりと怖いけど……ヤーさんじゃん……」
「そういう意味じゃなくて。他人と違ったって、べつに、気にしなくていいんだって、わたしはスズさんに教えてもらったから。だから、腕に葉っぱが生えてても怖くないよ」
「……」
笑みをみせるでもなく、まっすぐ見つめて真摯に答えるハナ。
そんな彼女のまなざしを受けて、アマネは、「そうかもな」小さくうなずいた。
「だーから言っただろ。アンタは考えすぎなんだよ」
三本のビニール傘と、レジ袋をふたつぶら下げてスズが言った。
レジ袋の中には包帯やガーゼ、ミネラルウォーターなどが入っていた。
「ほれ、適当に巻いとけ」
ビニール袋を手渡してきて、スズはハナの顔の治療に入った。
「あの、スズさん、アニキのほうがヤバそうなんで……」
「いや。こいつはハナちゃんと違って回復力が高いから大丈夫」
「全然大丈夫じゃないが?」
平然と言ってのけるスズに、アマネは冷静にツッコミを入れた。ハナとふたりでいた手前、平気そうなフリをしていたが、実際のところ全然波は引いていない。
さっきスズが言った『気休め』はまさしくそのとおりで、快晴だったならすでに薄皮が張っていてもおかしくないが、残念ながらこの台風下では多少出血の勢いがおさまってきたかなという程度だ。このペースでは失血で倒れるのと傷がふさがるのと、どちらが早いのかわからない。
「そん中にラップあるだろ? まずそれで傷口塞げ。そのうえでガーゼと包帯で血を吸い取る。とにかく出血のペースを減らして、ぶっ倒れる前に回復する作戦だ」
「わかった」
こういう事態にはスズのほうが手馴れているだろう。アマネは言われてたとおり右手と口でラップを引っ張り出して巻き付け始めた。
一方のスズはハナの顔の血を洗い始めた。
「今のうちに作戦会議すんぞ」
スズの言葉に、アマネは不器用にラップをぐるぐるしながらうなずいた。
「そういえば菱子ちゃんは無事送ってきたのか?」
「その菱子だが、案の定グルだった」
「…………マジ?」
半信半疑といった声音で尋ねる。
「あぁ。あいつの兄貴の写真を見せてもらったが、まさしくさっきの奴だった」
「グルだって、菱子ちゃんが言ってたのか?」
「言うわけないだろ。そんな間抜けがいるか」
「なら、どうしてグルだと思ったんだ?」
「アイツらはおそらく、最初からこの家のことを突き止めていた。だがアタシのいる時間帯に外から割って入るのは、リスクが高い。そこでスパイを寄越した」
「なんのために」
「おそらく、アタシが寝静まったらおっさんを呼び寄せて寝首をかくつもりだったんだろう。だが目論見は外れた。アタシが寝なかったからだ」
「寝てないのか?」
「今はその話はいい」
手を振って問いかけを叩き落とす。
「だが、アイツらも時間がない。こんな悪天候だし、アタシは寝不足でコンディション最悪だし、このチャンスを逃す手はない。一旦あのガキが離脱し、態勢を整えてから一気に襲撃するつもりだったんだろう」
ハナの顔にあてたガーゼをテープでとめながら言葉を続ける。
「だがそんな折、アタシが家を離れた。千載一遇の好機だ。あのガキは役割を襲撃からアタシの引きつけに変更し、おっさんが単身乗りこむことにした。作戦はハマり、ハナちゃんが傷物になりアンタは"植物人間"への成長を余儀なくされたうえに殺されかけた」
ひととおり聞いて、アマネはしばらく思案したあと、首をひねって言った。
「それ、グルだと思った理由じゃなくね?」
「あ?」
「いや、お前の話、根拠じゃなくて、どういう過程で今に至ったかっていう解説だろ。しかも想像モリモリの」
「……」
「推理としては面白いと思うし、ちょっと納得しかけたけど、その作戦菱子ちゃんいなくても成立するし、俺はやっぱあんま疑う気にはなれないんだよな」
「あのガキはおっさんの写真持ってたんだから、これで他人とは言えないだろ。アタシがいなくなった瞬間に襲撃してきたのも、タイミングが良すぎる」
「べつに、菱子ちゃんとあのおっさんが兄妹だったとして、同じ目的で動いてるとは限らないだろ? 喧嘩したって言ってたし、そのへんの方針の違いでぶつかったんじゃねえの?」
「そういう演技でアタシらを油断させようっていう魂胆だったんだろ」
「そこまでするか……? 俺にはわからなかったけど、お前にはアレが演技に見えたのか?」
アマネの問いかけに、スズは顔を伏せ押し黙ると、やがて震える声で絞り出すように言った。
「なんでアンタは、そんな、殺されかけたのに、ハナちゃんまで巻きこんでんのに、まだ信じられんの」
アマネは言葉を失った。
見たことがなかった。彼女の、こんな、こらえるような表情は。
スズは"半・植物人間"のころに一度、襲われた。長谷はそう言っていた。
アマネとスズの間に隔たる、空白の時間。知らない過去。
彼女のことを知りたい。そう思った。
「……とりあえず、これからどうする?」
黙っていても仕方ない。空気を入れ替えるように声の調子を上げて尋ねた。
「殺すしかないだろ。家も特定されて、"植物人間"になったのに殺されかけて、これでこのまま帰したら死ぬまでおそってくんぞ」
「そうだよなあ……でもそれはさすがになあ」
スズの冷静な声に、アマネは苦しげに言った。
骨が見えるほど傷つけられても、徹底的に痛めつけられても、大切な妹の顔を刺されても、それでも、他人の命を奪うという行為を、アマネの中の倫理観が許容しなかった。
「あのさ」
そんなふたりの会話に、ずっと黙って包帯を巻かれていたハナが割って入った。
「よくわかんないんだけど、こういうときってまず警察じゃないの?」
「…………たしかに」
なぜそんな簡単なことを思いつかなかったのか。アマネは半ば呆然と言った。
この一週間、あまりにも異常事態が続きすぎて、正常な思考が消え去っていた。
ナイフを持った相手におそわれたら警察に連絡。小学生でもまず最初に至る発想だ。
スズも長谷もまったく平然と自力で対処していたからか、完全に抜け落ちていた。
「ハナ、スマホは?」
「家。アニキは?」
「……どっかに落とした」
ポケットを触って、その柔らかい感触に軽く舌打ちする。
「デコトラ、頼む」
「警察は、ナシ」
ふたりの期待のこもった視線の中央で、スズが渋い声で言った。
「アタシたち"植物人間"は、できる限り、人間と関わりを持つべきじゃない」
「もうハナを巻きこんでるが?」
「ハナちゃん以外巻きこんでないだろ?」
「まあ、たしかに。けど、今回はもう仕方ないだろ。あいつ捕まえてもらわないと、家に帰れないんだから」
「いや、駄目だ。これだけデカい事件になると、警察に取り調べ受けるし、入院して医者やマスコミに葉がバレ得る。アタシたちは陰の世界の住人だ。この世界の仕組みに厄介になるわけにはいかないんだよ」
「それを言うならやっぱ、この世界のルールを守るべきだろ。殺しは駄目だ」
ぐぬぬ、とふたりで顔を突き合わせる。お互いの譲れない部分がかち合う。
そんな二人の間に、ハナが再び割って入った。
「あの。少し話戻るんだけど、わたしもアニキと同じで菱子ちゃんを信じたい派でさ。菱子ちゃん、たぶん、あの人のこと止めたいんじゃないかな」
「そうか。菱子ちゃんを呼んで、直接説得してもらえれば」
はっと目を見開いたアマネがハナの言葉を引き継いで言う。
「デコトラ。菱子ちゃんとはどこで別れた?」
「……別れたっつうか、置いてきたっつうか」
「いや、まあそうか。どうせもう移動してるよな」
アマネとハナは肩を落としてううんと唸る。
そんな二人を前に、スズは顔をしかめ、首をぐりぐりとまわし、額に手をあて、やがて渋い声で言った。
「…………わかった。ハナちゃん、ついてきてもらっていい? アタシだけだと逃げられるかもしれない」
「っ! わかりました!!」
ぱぁっと顔を明るくして、ハナは大きくうなずいた。
そんなハナの笑顔を前に、ラップの上に包帯を巻き終えたアマネは嘆息して言った。
「なら俺もついてくかな」
「やめとけ。アンタのはかなりの重傷だ。探して見つかるとも限らんし、仮に見つけたとして反げ――」
一瞬言いかけて、スズはその先を飲みこんだ。
「とにかく、下手に動けば今度こそ失血死が見えてくる。ここはアタシに任せろ」
なにをしでかしたのか。ハナの手前もあってか語ろうとはしないが、大体想像はつく。
だからアマネは「わかった」素直にうなずいた。
「おそらくあのおっさんはこのあたりを探して回ってるはずだ。アンタは隠れていたほうがいい」
「あんだけ派手に蹴り飛ばしといてもうそんな回復してるのか?」
「見た目よりはダメージはないはずだ。虚を突くためには、威力を犠牲にするしかなかった」
あの場で追撃せずに逃げを選択したのはおそらく、遠足のときの二の舞を防ぐためなのだろう。心中で納得する。アマネとハナが大怪我を負ったあの状況、万が一動けないフリで誘われていたとしたら、一瞬で局面が入れ替わる可能性もあった。
「けど、隠れるっていってもどうするかな。そもそもこのへんを探してるっつってたけど、家で張ってる可能性もあるんじゃないか? 俺たちはいずれ戻るしかないわけだし」
「たぶん、それはない。その選択肢を取ると、いつ帰るか好きに決められるアタシらと違って、あの男は常に気を張っていなければならなくなる。それよりは深手を与えて遠くへ逃げにくい今こそ、勝負を決めるべきだと思っているだろうな」
「ならそれを逆手に取って家に……いや、さすがに無理か」
自分の言葉に冷静にツッコミを入れる。あまりにリスキーが過ぎる。
「つってもこの身体で隠れるとこなんてなあ……あ、長谷先生の家とか」
「たまにはいいアイディア出すじゃねえか。迎えに来るよう連絡しておこう」
うなずいたスズは早速スマホを取り出し、
「ハセ? 今アマネがボロボロのボロだから今からそっち向かう。途中で野垂れ死ぬかもだからその前に迎えに来て」
それだけ言うとすぐに通話を切った。
「お前、長谷先生に対して厳しすぎない?」
「親みたいなもんだし、これくらいいいだろ。それより時間もないし、そろそろ行くか。ハナちゃんも大丈夫?」
「バッチリまかせてください」
「たのもしいね。じゃ、アマネ。……死ぬなよ」
「お前もな」
言って、二手に分かれた。
アマネは一瞬家へ向きかけた足を止め、長谷の家へと歩き始めた。
雨は激しく傘を打ち、風が内側から吹き飛ばそうとする。
チラッとうしろを振り返る。スズとハナの姿はもう見えない。
そのことを確認して、アマネはその場にしゃがみこんだ。傘を手に引っ掛けたまま頭をかかえた。
"植物人間"に、なってしまった。
その事実が、鉄球のように胃を重たく押しつぶした。
仕方なかった。ハナを救うためには、あのときはそれが最善だと思ったのだ。
少なくとも、スズが乱入してくれると知っていたら大人しく待っていた。
たらればの話をしても意味がないことは理解しているが、それでも考えざるをえない。
もし警察に連絡していたら。
もし閃光弾を自分だけ浴びないようにしていたら。
もし。
もし。
もし。
並行世界の選択ばかりが脳裏を駆け巡る。
しかも、"植物人間"になったおかげでハナを救えたのならばまだ救いもあるだろうに、現実はまったくそうはならなかった。ハナを助けたのはスズであり、自分はただナイフでめった刺しにされただけだ。
「はは」
あまりに格好悪くて、逆に笑えてきた。
笑えたのは一瞬だけだった。
「はあ~~~~~~~~~~~~~~」
深く深くため息をつく。
これでもう一生人間に戻ることはない。その事実に、身体がふらつく。尻が水たまりに落ち、パンツがぐしょぐしょに濡れた。舌が痺れ、わずかに視界が黒く染まる。
尻を大地に接着させてすら、できの悪いロボットのように身体がぐらぐらと揺れる。
何秒か。何分か。傘の奥から落ちてくる雨粒に身体をさらしながら、目を閉じ、深呼吸を繰り返した。パンツだけを濡らしていたアスファルトの天然水は徐々にその領土を広げ、ズボン全体がぐしょるようになってきた。
これ以上落ちこんでいても仕方ない。どうしようもないものはどうしようもない。まずは長谷の家に行くしかない。
そう決意して、顔を上げた。
「……………………もうちょっとくらい、感傷にひたらせてくれよ」
眼前、吹き荒れる雨粒をもろに受けながら、寛がこちらをじっと見つめていた。
●
スズはハナの手を引きながら走った。
菱子を蹴り飛ばしてから渡家にたどり着くまでの間の記憶はほとんど残っていないが、菱子を送る際は周囲を警戒しながらだったので、肝心の場所は大体覚えている。
ただ、そのままそこにいてくれるとは限らない。親切な人が救急車を呼んでいるかもしれないし、あるいはすでに目を覚ましていて場所を移動している可能性もじゅうぶんにありえる。
「ちょ、スズさっ、はやっ……!」
ハナの息絶え絶えな声に、意識が脳内から現実に少しだけ戻ってきた。
焦燥感に駆られてついスピードを出してしまった。彼女は普通の人間な上に今は怪我人だ。無理をさせるわけにはいかない。足を止め、膝に手をついて荒い呼吸を整えるハナの背中と膝に腕を回した。
「ごめんハナちゃん、ちょっと痛むかも」
「えっ」
戸惑いの声を上げるハナの身体を持ち上げた。
「お、おもくないです?」
「思ったより軽い。ハナちゃん若いんだからもっと食べなきゃ」
軽口を叩いて、再び走り出した。少なくともアマネを抱えたときよりはだいぶ楽だ。
ただ、軽いとはいえざっと四十キロはある。人間ひとりお姫様抱っこして駆けるのは、"植物人間"の力をもってしてもそう長くは保たない。ならばこそ、できる限り早急に菱子を発見しなければならない。脚に力をこめる。
そうして数分間走ったところで赤い点滅ライト――救急車の姿が目にうつった。
血の気が引く。
ハナをおろし「待ってて」短く言って、駆け寄った。
ビンゴ。ちょうど、タンカに乗せられた菱子が救急車に収容されるところだった。
「すんません! そいつ、知り合いなんす!」
反射的に大声で言うと、救急隊員たちが一斉にこちらを振り返った。
「そうでしたか。この子が倒れていると通報がありまして。一緒に来られますか?」
皺の多い、物腰柔らかそうな男が対応した。
タンカを持つ二人の男も動きを止めてこちらの様子をちらりと見やる。
「いや、そいつ寝てるだけなんでこっちで回収します」
「えっ、いえ、そういうわけには」
「いやいやいやほんとそいつ死ぬほど酒弱くて、なのに飲みたがるもんで、たまにこういうことがあるんすよ。まったくまず年齢考えろって話っすよねははは」
「え、いや、あの」
「つーわけで、すんません!」
傘を投げ捨てると、戸惑う救急隊員の脇をすり抜けタンカへ近寄り、腰をぐいっと抱えて米俵のように担いだ。
「ご迷惑かけました!」
大声で言って、逃走した。
「えっスズさん!?」
目を丸くするハナの手を引いて全力で走る。日が差しているならともかく、この台風の中さすがに二人抱えるのはきつすぎる。
追われるかどうかはわからないがとにかく走った。直線で走るとバレやすいだろうということで何度か道を曲がり、そうしてハナが活動限界を迎えたところで脚を止めた。
「はあ、はあ、はあ、スズさ、なに、して、すか」
「あの状況でまともに交渉するのは無理だと思って」
「そうで、けど」
きっと心臓が破裂しそうになっているのだろう。ハナはろくにしゃべることもできずに肩で呼吸を繰り返している。スズのほうも正直かなりきつい。
とはいえ、なんとか当初の目的、菱子との合流を果たすことができた。あとは、
「どうしたらこいつ起きるんだ……」
それが問題だった。
感情のままに相当キツイのをお見舞いしたおかげか、タンカに乗せられても全然目を覚まさなかったらしい。一応息はあるが、果たしてどうしたら目を覚ましてくれるのか。
「そういえば昨日菱子ちゃんが、朝起きるときお兄さんがうしろから抱きしめて耳元でささやいてくるって言ってました」
「ふむ……ハナちゃん、やってみて」
さすがに、寛のもとにこのまま連れて行ってやってもらうというわけにもいかない。
菱子の身体を支え、ハナに背中から抱き着かせる。
「菱ちゃん、おはよ(ハート)」
ハナの甘い声音に、びくんっ、と菱子の身体が震え、同時に
「んっ……」
目を覚ました。
うっすらと瞼を開け、焦点の合わない瞳でぼんやりと虚空を見つめる。
数度まばたきをくりかえし、あるタイミングでその瞳を大きく見開いた。
びくんっと再び大きく身体を跳ねさせ、スズから大きく距離を取った。
「……スズさん、なにしたんですか」
「…………あとで話すよ」
じとーっと冷たい目を向けてくるハナから目をそらして、両腕で身体を抱えてこちらをじっと見つめる菱子へ視線を戻す。
「えっと、その、」
首のうしろをさすりながら、スズは口を開いた。
まだ百パーセント菱子を信じられているわけではない。あくまでアマネとハナの考えを信用して、今に至っている。
ただ、そうはいっても、先ほどの三発の殴打は短絡的であったと、やりすぎであったと、さすがに反省している。自分が完全に間違っていたとは思わないが、かといって罪悪感がスプーン一杯ほどもないかと言われるとそんなこともない。
どんな言葉を選んだらいいのか。まばたきを繰り返しながら考える。と、
「やはり、兄が、ご迷惑をおかけしたみたいですね……」
先までの恐怖の残ったまま、菱子の顔に沈鬱さがしみこむ。
「たいへん、申し訳ありませんでした」
菱子は水たまりに膝をつき、頭を深く、深く下げた。
「やめてよ! 大丈夫だから!」
ハナが慌てて駆け寄り、膝をついておろおろと声をかける。
「ハナさん、こんなに傷ついてしまって……なんとお詫びしてよいものか……」
顔を上げた彼女は、顔をくしゃくしゃにゆがめていた。
血と雨にまみれたガーゼと包帯へ手を伸ばす。
「ハナさん、せめてものお詫びに治療させてください」
「治療?」
きょとんとするハナの後頭部に手をやり、包帯をするすると外してゆく。そうしてガーゼも外し、あらわになった痛々しい刺し傷を目の当たりにすると、菱子はそっと彼女の傷痕に舌を這わせた。
「え、ちょ、菱子ちゃん!?」
「少し、じっとしてください」
そっとささやくような声。
血が菱子の口の中になめとられ、代わりに彼女の唾液がハナの傷口に塗られる。
それは、金曜の夜、スズが、眠るアマネの傷痕にしたことと同じだった。
植物人間は唾液に治癒力をこめることができる。
「…………ふぅ、おしまいです。傷は塞がりました。たぶん痕も残りませ……うっ」
ハナの傷痕を見て満足げに笑んだ菱子は、言い切る前に身体をぐらつかせた。
慌てて支えるハナに、
「すみません……私は大丈夫ですので」
血の気を失った顔で気丈に言った。
植物人間は、唾液に治癒力をこめることができる。
ただし代償として、相当に体力と精神力を使う。
少なくとも、このあと戦うことなど絶対にできないくらいには。
「……いいよ。ハナちゃん。菱子ちゃんは、アタシが支える」
言って、スズは菱子の背中に手を回し、お姫様抱っこで持ち上げた。
目を丸くする彼女に、そっとささやく。
「さっきは、その、ごめん。アタシが悪かった。報復はいつでもいいけど、今だけは許して」
「そんな、私のほうこそ……いえ、そうですね。また、考えておきます」
いらずらっぽく笑んで、菱子はスズを見上げた。
●
「おっさん! あんた、妹さんのためなんだろ? たぶん、あの子はこんなの望んでねえぜ」
雨音に負けないよう、アマネは声を張って呼びかけた。
「知っている。だから言っただろう。オレのために死んでくれ、と」
「今、あのピンク頭があんたの妹さんを探してる。人質にするためにな。下手なことをすれば、あの子の命はないぜ」
「嘘が下手だな。オマエみたいな甘ちゃんがそんな作戦を許すわけがない」
間髪入れずにブラフを見破る。アマネは小さく舌打ちをして、改めて声を張った。
「で、あんたはどうすんだ? なにをされようと俺は開花しないぞ」
「そうだろうな。だから、オマエの命を握って、あのピンク頭に開花させる」
「それこそ無理な話だろ。あいつは俺の生死関係なく突っこんでくるぞ」
「あの女はオマエのために命を張れる奴だ。だから厄介だったが、今回ばかりは――」
寛がナイフを手に取って、
「利用できそうだ」
駆けてきた。
まずい、慌ててアマネは身体を反転した。
とりあえず逃げるしかない。
傷痕がじくじくと痛む。全身ボロボロの満身創痍な上に、太陽は一向にその姿を現す気配がない。
走りながらちらりとうしろを振り返る。迫力こそこれまでと相違ないが、寛の足取りはややおぼつかないように感じられた。先のスズの蹴りが効いているのだろう。
状況はかなり悪いが、まだ最悪ではない。
どうする。
焦燥感からか雨粒にまじって変な汗が出てくる。
休息を要求する身体にムチ打ち、アマネは来た道を逆走する。
そこでふと横目に渡家の存在に気づき、ほとんど反射的に方向転換した。
これは好機かもしれない。家に帰ればおそらくスマホがある。それでスズと連絡し、寛の居場所を伝える。うまく菱子を見つけられた場合、こちらで寛を引き付けておけばふたりをカチ合わせやすいだろう。
鍵の開けっ放しの玄関扉を開け、電気をつけ……ようとスイッチを押したところで異変に気付いた。
どれだけカチカチ押しても、まったく反応がない。
まさかと思い頭上を見上げるが、電灯が破壊されている様子はない。ということは、停電かブレーカーを落とされたか。思わず舌打ちをする。どちらにしても厄介だ。窓際ならともかく、廊下や階段は昼間でもそれなりに暗い。事実、先ほどはスマホのライトを芽に直接当て続けることでようやく行動力を確保できたくらいだった。
仮にスマホを回収できたとして、それは同時に袋小路に追いつめられるということを意味する。
方策を考えているヒマはない。スマホの回収は諦めて転換。
この数秒のロスによって、寛が数メートルのところまで距離を詰めてきていた。
かわすように家の周囲をぐるりと走り出す。
「ぅわやべっ!」
ふと気づいたら指先数センチのところまで迫られていた。すんでのところで身を捻り、地を強く蹴り上げる。
「っわ! とっ! とっ!」
まるで重力が小さくなったような感覚。思った以上に身体が大きく跳び、変な角度にブレる。わたわたと四肢を振り回してバランスを取り、数度地や壁を蹴って、寛から数メートルの距離を取って着地した。
「……なるほど」
これならいけるかも、と、心の中でうなずく。
"植物人間"になって、回復力は多少実感するところがあったが、こちらの効能は忘れていた。
「クソがっ!」
ナイフを手に突っこんでくる寛。
アマネは両足に力をこめると、紙一枚のところで力強くアスファルトを蹴った。
高い高い跳躍。
アマネの身体はナイフを超え、寛の見開かれる双眸を超え、家の一階部分を超えて、二階、ハナの部屋へ到達した。
「……いや、足りねえのかよ……っと」
華麗に足から着地しようかと思ったら高さが足りなかったので、両手で窓枠を掴み、もう一段階跳んで入室した。
さて、寛はどうするか。振り向いて下を確認する。
「はええな、クソ」
足だけが辛うじて見えた。
玄関に向かっている。判断が早すぎる。
ナイフを投げてきたり、よじ登ってきたりといった行動を起こしてくれれば良かったのだが、これでは長くて十数秒程度しか余裕はないだろう。
一応スイッチを押すが、案の定電灯はうんともすんとも言わない。
と、ドスドスと廊下を駆ける激しい音が下から響いてきた。
まずい。時間がない。
と、そこで思い出した。ハナのスマホがこの部屋にあるはずだ。
ぱっと、ベッドの周辺を見渡す。が、見当たらない。
どこか物陰に隠れてしまったのだろうか。
シーツをひっぺ返したくなる衝動を、荒っぽく迫ってくる階段を登る音が押しとどめる。
もう何秒も猶予はない。ひとまず撤退するしかない。
そう考え、窓際に足をかけたのと、寛がその姿を現したのは同時だった。
「なあ」
アマネは身を投げる前に、ひとつ言ってやった。
「菱子ちゃんさ。最初会ったとき、死にかけてたよ。夕暮れの路地裏で。たまたま気がつけたからなんとかなったけど、俺が見つけなかったら、あの子、終わってたよ」
「……」
「俺も人のこと言えるような兄貴じゃないけどさ。おっさん、妹のことを思うなら、遠くの目標より、まず目先のところからじゃないのか?」
「そうだな。菱子を救ってもらって、感謝する」
すっとぼけるかと思ったが、意味がないと考えたのか、素直に言われた。
「オレはろくな兄貴じゃない。菱子が望んでいないことをわかってこんなことを続けているんだ。愛想を尽かされて当然だ」
「いや、そこまでは言ってな「だが!」
言い訳がましく否定するアマネを遮って、寛は力強く言った。
「それがどうした。菱子に嫌われ、縁を切られ、一生恨まれる程度の覚悟なら、とうの昔に済ませた。オレは、菱子を人間に戻す」
「……チッ」
揺らがぬ視線に、アマネは舌打ちをして跳んだ。
無関係のハナを人質に取る男だ。尋常ではない覚悟だろうとは思っていたが、それにしてもこれほどとは。己の見通しの甘さに唾を吐く。
スズが菱子を連れてきて、彼女による説得で引かせる。作戦の根幹が揺らいだかもしれない。
コンマ数秒の浮遊感を経て着地。
「っっっ~~~~~~~~~~!!」
足裏から駆け抜けた衝撃が、左腕にようやく張った薄膜を破壊した。
傷口を押さえながら、ちらりと二階へ目をやる。
「やっぱそうくるよな」
嘆息を入れる余裕すらない。
先のようにお上品に玄関から出入りしてくれれば、という期待が少しだけあった。
が、重力を味方につけられる今回のケース、当然そんなことにはならず、寛の巨体が頭上から降りかかってきた。これだけ勢い付けた身体で頭上からのしかかられてはひとたまりもない。アマネは左腕を抱えたまま大きく距離を取った。
ずん、と重い音を響かせて、寛も着地。二階から飛び降りてなんともないはずがなかろうに、ぴくりとも表情を動かさず、鋭い目つきでアマネをロックオンする。
だが。今のアマネには勝算がある。
正確には、負けない算とでも言うべきか。
"植物人間"であることのメリット。身体能力。
降りるときはともかく、二階まで跳ぶことは、ただの人間には不可能だ。だから、ハナの部屋とアスファルトの間を行ったり来たりしていれば、所要時間の関係で絶対に負けることはない。そう考え、アマネは両足に力を入れた。
背筋に悪寒が走ったときには、すでに手遅れだった。
力をこめた足の筋肉がアスファルトを蹴り、身体が重力から解き放たれる。
それが最も無防備な時間であると、ナイフが刺さってからようやく気付いた。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴を上げ、身体のバランスを失う。それでもなんとか窓枠を掴もうと手を目いっぱい伸ばす。
が、ほんの数センチ。わずかに届かない。
そうなれば人間も"植物人間"も同じ。大地に引っ張られる。
まずい。
身体の底が冷える感覚。
本能に従って下を見やると、寛がナイフを手に待ち構えていた。
「ふっ」
短く息を吐き、次の手を探る。壁に掴む場所はない。このまま着地すればそこを狩られる。助けもない。となれば、できることはひとつ。
コンマ数秒にも満たない思案。たどり着いた結論に向けて、再び足に力をこめた。
もうどうとでもなれ。方向を調整する余裕すらないアマネは、半ば投げやりな気持ちで壁を思い切り蹴りつけた。
瞬間。ジェットコースターを思わせる加重が全身にのしかかった。
すさまじい加速で寛の頭上を越え、体勢を整える余裕もなくアスファルトに強烈に叩きつけられる。着地点から数メートル転がり、五度、六度左腕がアスファルトに削られたあたりでようやく慣性が仕事を終えた。
だが痛みにのたうつ余裕など当然与えられない。ボロボロの身体にムチ打って起きあがろうとしたところ、寛が馬乗りになってきた。
跳んだ場所が悪かった。せめて木の中か、土の上だったならばもう少しダメージも少なかっただろうに。
最悪を回避するためのとっさの判断だったが、結果としてなんら状況は改善していない。
身をよじって逃れようとするアマネを冷たい目で見下ろし、寛はアマネの右腕――の葉に、刃を突き立てた。
「っっっ~~~~~~~~~~!!!」
痛みが閾値を超えると、声がでない。
およそ普通に生きていたら知り得ない情報を、アマネは今この瞬間に身をもって知った。
左腕をえぐられたときの比ではない。呼吸を失い、視界が白く点滅し、意識が飛ぶ。そして再び痛みに揺り戻される。
たったひと突きで理解させられた、地獄としか表現しようのない痛苦を、寛は再びアマネの葉に突き刺した。
悶え、身体をビクビクと跳ねさせ、口から泡を吹く。
アマネは理解した。
これは、死ぬ。
寛は、スズを脅すため人質にすると言っていた。こうして徹底的に痛めつけているのは、アマネの無力化だけではなく、スズの戦意を削ぐという目的もあるのだろう。
だが、これは、脅しの材料になる前にショック死か失血死する。
苦痛で九割九分埋まった脳の辛うじて残ったリソースでそう悟った。
そうして覚悟を決めたとき。
「なん……で……」
遠ざかる意識の中、脳内に流れてきたのは、ベッドの中、子供のように無垢な表情で眠るスズの姿だった。
思わず、嗤ってしまった。
普通であることに徹底的にこだわった。
友達の数がすべてだと豪語してきた。
必死に友情ポイントをためてきた。
こいつのようにはならないぞと、スズを見下げて生きてきた。
なのに。
こうして死の間際に思い浮かべるのが、彼女の姿だとは。
――馬鹿げているのは、自分の方だったのか。
そう思った。
「ぐぅっ……!」
四肢に力をこめる。ぐぐぐ、と寛ごと身体を持ち上げた。
「なっ!?」
驚愕の声が頭上で鳴る。
アマネは腹の底から力を振り絞り、跳ね起きた。
寛が宙を舞い、背中から激しくアスファルトに落ちる。
「くそっ……てめえ……まだ立ち上がれんのか……」
かなり荒い落ち方をしたはずだが、痛みにのたうち回るでもなく、寛はすぐさま立ち上がるとアマネから距離を取った。
と、
「おい! おっさん!」
右から、スズの声が響いた。
ふたり同時にそちらを向くと、スズ、ハナ、菱子の三人が立っていた。
ただし、菱子の首には刃が突き付けられていた。
「余計なこと考えるなよ? アンタのナイフより、アタシは速い」
眉を吊り上げ、見開いた目で睨みつける寛に、スズが静かに告げた。
「人質交換だ。このガキは返す。だからソイツをよこせ」
「……わかった」
威圧的なスズの提案に、寛がナイフを構えた手を下ろす。
「少年には手を出さない。だから、菱子には傷ひとつつけるな」
「ふん、こっちのことはズタズタに切り裂いておいてよく言う」
スズは皮肉っぽく言って、菱子を連れて距離を縮めた。
助かった。アマネは全身から力が抜けていくのを感じる。
結局場所の連絡はできなかったが、こうして見つけてくれたのは、やはりこれだけ激しく争っていたからか。そう考えると、葉の傷痕にも意味があったのかもしれない。
そんなことを考えながら、ぼんやり人質の受け渡しを眺めていると、
「…………これ、」
ふと、気づいた。両者の温度差に。
鋭い眼光をたたえながらも、スズの放つ空気がわずかに緩い。
この場を支配しているのが己であり、かつ、菱子が横にいる状況だ。攻撃を仕掛けられることはない。おそらく、彼女はそう思っている。
アマネもそう思っている。
思っていた。
「もしかして」
ほかの誰でもない、菱子がおそらくはそう考え、スズとハナに伝えたのだろう。そうでなくては、スズの気がわずかでも緩むはずが……
「しっ!」
寛のノーモーションで繰り出されるナイフが、ハナの心臓へ一直線に突き進み、
「がはっ!」
その刃を、アマネの胸が受け止めた。
真っ赤な鮮血が、禍々しい花を咲かせた。
「アマネ!?」
「アニキ!」
「アマネさん!」
悲鳴のような声が重なる。
アマネはそれを遠くに聞きながら、意識が、深く、深く、取り出せないところまで沈んでいくのを理解した。
●
甘かった。
金切声を上げるハナ。寛につかみかかる菱子。
そんな光景をぼんやりと眺めながら、スズは歯噛みした。
まさかこの状況になって寛がまだ諦めないとは。
ハナを"半・植物人間"にする。その目的のための過程を、アマネたちを極限まで追いこむことで開花させる、という可能性しか考えていなかった。
だがもう一つ、ハナを瀕死状態に追いこむことで、彼女を救うために"半・植物人間"にする、というやり方もあったのだ。
これまで執拗にアマネやスズを狙ってきたからだろうか。
己が"植物人間"になったきっかけそのものであるのに、完全に読み抜けていた。
「クソッ……アマネめ。いい顔で死にやがって」
スズは、横たわるアマネを見おろして呟いた。
お前が死んだら悲しい。そう言ったのは、アマネだったじゃないか。
雨に打たれているはずの身体が乾いてゆくような感覚。
まったく、こんな、身体を張って証明するほどの話でもなかっただろうに。
心の中で悪態をついて、スズはポケットから種を取り出した。
科学館で開花したときに生まれた種。それを、アマネの胸、傷口に押しこんだ。
――人間に戻らなくても星空を見る手段はある。
あの日彼にそう言った。
植物人間の種。それは、生命力そのものだ。
力を失ったアマネの心臓に、スズの生命力を注ぎこむ。
そうして、植物人間の変種としてよみがえる。
それこそが、人間に戻らなくても星空を見られるようになる手段だった。
もっとも、実際にやるのは初めてだし、確実にうまくいくという保証もなかったわけだが、
「まったく、ホントに面倒くさい奴だな」
スズは悪態をつきながら、それでも隠しきれない安堵を声ににじませて横たわる男に言った。
「うぁ……」
が、息をついたのもつかの間。すぐに違和感に気づいた。
開かれたアマネの目がどこか虚ろで、スズのことを認識しているのかすら曖昧に見えた。
「アマネ……?」
スズはわずかに眉をひそめる。
と、
「まも……ま……ぐ、ぐぁあ……!」
アマネの口から言葉にならない唸り声が響き、ふらりと折れそうな身体が持ち上がる。
「ア、アマネ! もう少し寝てろ!」
とっさに押さえつけようとする。だが止まらない。
グググ、と人智を超えた力でスズを持ち上げる。
そして、なにより、彼の胸で急速に育った葉の先から、血を吸ったような、真っ赤な花が咲き誇っていた。
「まさか……!」
全体重をアマネに預けながら、スズが額に汗を浮かべて呟いた。
彼は、生まれ変わった。
ただし、代償として、"植物人間"の変種となった。
スズも、変種は初めて見た。だから話半分に聞いていた話を、ようやく思い出した。
葉が、根が、自我を持つ。寄生先の意識を乗っ取ることがある。
「まも……らな……」
ぶつぶつと呟きながら、アマネがスズを跳ねのけた。
そうして立ち上がると、虚ろな目のまま周囲を確認し、やがて顔の動きを止めた。
視線の先。正座姿で菱子に説教される寛。
彼はアマネの姿に気づくと、数瞬後に訪れる未来を悟ったのか、皮肉っぽく口の端を吊り上げた。
一瞬だった。
アマネが駆け、寛の心臓を貫く。
否。
貫こうとした右手が、ぴたりと止まった。
スズとハナが、アマネの身体と腕にしがみついて無理やりせき止めた。
菱子が、両手を広げ、仁王立ちで立ちふさがった。
「アマネさん。ごめんなさい。それは、駄目です」
唇を震わせ、頬を引きつらせ、笑う膝をそれでも必死に伸ばし、まっすぐにアマネを見つめた。
「兄がたいへんなご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありません。お詫びのしようもありません。殺されても文句を言う資格がないことも、重々承知しています」
ぽつり、ぽつりと、よく通る声で話す。
「ですが。それでも。私の、たったひとりの兄なんです。家族なんです。私は、人間に戻れなくてもいい。ただ、兄を失うことには耐えられません」
両手を広げ、アマネの虚ろな瞳を見据えて、言葉を続ける。
「アマネさんは私にとって命の恩人です。兄への復讐も正当な権利でしょう。それでも……それでも、もしここであなたが兄を殺してしまったら、きっと私は、一生あなたを許せません。あなたの手が寛の命を奪うならば、私は必ずアマネさん殺します」
静かに。しかし、重く、力強い声。
「もう二度と、あなた方をおそいません。できる限りの贖罪をします。もし兄がまかり間違ってあなた方を殺してしまったら、兄を殺して私も首を吊ります。だから……だから! どうか、兄を、見逃してやってください」
項垂れる寛の前で、身体を張って、まっすぐにアマネへ言葉を紡いだ。
「う……ぐ……」
苦し気にうめくアマネ。
その拳が徐々に、彼女に向かう。
「ハナちゃん、離れて」
「え?」
戸惑うハナを置いて、スズがアマネから手を離した。
数度息を吸って、吐き、整える。
「アタシが!! 殴り倒してやるよ!!」
どごぉっっっと、骨まで響く打撃音とともにアマネの身体が宙を舞った。
力いっぱいの右ストレートが、アマネのみぞおちへクリーンヒットしたのだ。
数メートルの浮遊を経てアスファルトへ叩きつけられた身体がゴロゴロと数回転し、「げほっ、ごほっ!」やがて慣性を失った身体が激しく咳きこんだ。
「ったぁ…………あれ、俺、なんで……生き……?」
正気を取り戻したアマネは、身体を起こすと、きょろきょろと周囲を見回して言った。
ほーっ、と、安堵の息が、方々から漏れる。
「ほら、寛」
そんな面々を前に、菱子が寛の手を取って立ち上がらせた。
寛はばつの悪そうな顔を浮かべ、うつむきがちに口を開いた。
「あー、その……ありがとう。菱子を……菱子の、命を、助けてもらった。……オレは、痛めつけて、傷つけて……殺そうとしたのに」
「……べつに、あんたの妹だって知らなかったし」
「偶然でも、意図的でも、変わらない。それに、きっと、知っていたとしても、助けただろう。君は」
寛がたどどしく、絞り出すように語った。
「本当に、申し訳なかった。……本当に…………。……このあと、自首して、きちんと、罰を受けてくる」
頭を下げる寛。
アマネとスズは彼の言葉に顔を見合わせ、おずぞずと切り出した。
「あのー、それは普通に困るっつうか、頑張ったかいがないんでやめてください」
「な!?」
驚愕に目を見開く寛。
だが、アマネたちにとっては至極当然の要求だ。
内々に済ませるために命まで賭けたのだ。警察への自首を許容するなら、最初から110番で済む話である。
「な、なら、オレはなにをすればいい!」
「とりあえず怪我の治療手伝ってほしいのと、菱子ちゃんにはときどきうちに遊びに来て欲しいのと、あと、まあまずは、」
アマネはそこまで言って、ちらりとうしろを見やった。
「まずは、うちの掃除手伝ってほしいっす」
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