第5話

 調子に乗ってしまった。

 夕暮れどき、息苦しい世界を、アマネは全速力で駆けていた。

 遠足先でおそわれたあと、直帰したアマネは翌日の金曜を丸一日布団の中で過ごした。そのおかげか、土曜になるとほとんど傷も残らないくらいに復活したので、昼前から長谷宅でリハビリをした。

 調子が良かったのだ。芽が従来に比べて明らかに元気を失っていて、あと一週間あればなんとかなるかもしれないという希望が眼前にちらついた。

 その結果、つい、いつもより長くリハビリに励んでしまった。

 芽が元気を失った原因が、失血したことなのか、あるいは長谷やスズのようになりたくないという心理によるものか。実際のところわからないが、ともあれ事実だけを並べれば、それは確実にアマネの望む方向に事態を進展させる力を持っていた。

「う、ぐぅ……」

 病院を少し超えたあたりで、うめくような女の鈍い声が聞こえてきた。

 足を止め、周囲を見回す。見舞客や買い物帰りの主婦の姿が何人か目に入るが、特段だれも苦しげにしている様子はないし、アマネのように耳をそばだてる人もいない。

 聞き間違いだろうか。

 ふと空を見上げると、夜の闇がオレンジを半分以上染め上げていた。さらに悪いことに、妙に多い雲が、今にも夕日を覆い隠さんとしている。イヤな汗が垂れる。そういえば台風が近づいていると天気予報で言っていたか。もうアマネに残された時間はほとんどない。とにかく今は家に帰るのが最優先だ。そう考えて足に力を入れると、再び耳に届いた。

「た、たす……」

「……………………っあー! わーったよ! 誰だよ!」

 ヤケクソ気味に言って、ぎょっとする通行人たちに構わず、声の方向を探る。

 数メートル先、路地裏で立ったまま硬直する、中学生と思しき少女を発見した。

 どういう状況だ? 不審に思いながら観察していると、見開いた目でこちらを見つめたまま、少女がゆっくりと口を開いた。

「ら……と……あて……」

 鳥肌がたった。まさかと思い、鞄から懐中電灯を取り出して彼女を照らす。

「ひゅっっっごほっ! ご、げほっおっおぇっ」

 先までピクリとも動かなかった少女が、大きく息を吸ったと思ったら身体をくの字に折って激しく咳きこんだ。嗚咽までしている。相当ギリギリだったのだろう。

 ライトの光を浴びながら少女は路地裏から出てくると、荒い呼吸の合間に言った。

「あ、ありがとう、ございます……助かり、ました」

「いいから! もう日が暮れる! 帰り道はわかるか!?」

「い、いえ……」

「ならとりあえずうち来い! 死ぬよりマシだろ!」

 沈みかけの夕日の中、アマネは戸惑う少女の手を取ってアスファルトを蹴った。

 十五分ほど走っただろうか。世界がほぼ夜に沈み切ったころ、泥の中を泳ぐような感覚の中、重たい身体を気合で動かし、玄関に転がりこんだ。

「た、たすかったあ」

 安堵か解放感か、アマネは少女とともにへたりこむと、力なく笑い合った。

「あ、すみません申し遅れました。私、御津菱子といいます」

 居住まいを正して、年下とは思えない丁寧な口調で菱子が名乗った。

「どうもどうも、渡アマネです」

「このたびは助けていただいて、本当にありがとうございます」

「いいよそんなシャキッとしなくて」

 アマネはへたったままヘラヘラ笑って手を振った。

 かしこまられるのは好きではない。スズのように気を遣わなさすぎるのもどうかとは思うが、そっちのほうが気は楽である。

 そういえば今日はリハビリについてこなかったな、と思いながら視線を階段の方へ向ける。

 遠足から帰ってきてから、なんとなく、スズとの距離感が掴めずにいる。抱き枕になったのもあの日が最初で最後で、昨日今日と彼女は、初日と同じく床に布団を敷いた。ただ、眠れなかったのか、今朝の彼女はほとんど瀕死状態で、アマネが長谷宅へ行くと言ってもついてこようとしなかった。彼女への恩はもう返したので、これ以上気を遣う必要はないのだが、なんとなく、心がざわつく。

 そんなことを考えていると、菱子がわずかに声をこわばらせて尋ねてきた。

「その、ひとつ確認させていただきたいのですが、私の事情を知っているのですか?」

「ああ、それは、」

 アマネは腕をまくろうとして、ぴくりと手を止め、耳をそばだてた。階段の奥、二階のほうからかすかにハナとスズの仲睦まじい話し声が聞こえてくる。どうやら髪を染めているらしい。今なら見られる心配もないだろう。そう考え、右腕をまくってみせた。

「"植物人間"なんだろ。知ってる。俺もそうだから」

「そうでしたか。安心しました」

 アマネの答えに菱子はほっと息をつき、へにゃりと表情を柔らかくした。

「菱子ちゃん、正直、夜が明けるまでこの家から出るのは難しいと思うんだけど、家族に連絡したら迎えにきたりする?」

「えっと、恥ずかしい話なのですが、実は兄と喧嘩してしまって、家出してきていて」

「あー、なるほどね」

 "植物人間"にしては無防備だと思ったが、なるほど合点がいった。ふだんはあまり外出しないか兄に守ってもらっていて、おそらく今日は勢いで家を出てきたのだろう。

「心配してるだろうし、連絡入れておいたほうがいいんじゃない? 電話貸すよ?」

「いえ、大丈夫です。兄も少しくらい困ったほうがいいんです」

 スマホを取り出すアマネに、菱子は憮然とした様子でキッパリと断った。

「兄はいつもそうなんです。私にべたべたくるくせに、肝心なことはなにも言わずに自分ひとりで背負おうとして。私がどれほど心配しているか、全然理解していなくって」

「ふぅん。仲いいんだ」

「へぁ!? ち、ちがいますっ! むしろ迷惑してるっていうか!」

 あわあわと身振り手振り否定してくる。

 まぶしいな、と、少しだけ思った。ハナと自分は、こうはなれなかった。きっと菱子の兄は、きちんと兄をしているのだろう。

「ま、そういうことなら今晩はうちに泊まっていって大丈夫。どうせ親もいないし」

「ごめいわくをおかけします」

「ただ、ひとつだけ条件がある」

「は、はい」

 緊張した面持ちを浮かべる菱子に、アマネは表情を引き締めて言った。

「うちには今、ピンク頭の女と黒髪……多分今ごろ赤色になってる妹がいるんだけど、妹のほうは普通の人間で、そもそも"植物人間"について知らない。だから、あいつにはその腕を見られないようにしてくれ。どんな反応をするかわからないから」

「わ、わかりました」

 菱子は両手を胸の前でぐっと握って、決意表明するように了承した。

「それで、俺はこれから晩ご飯作るけど、菱子ちゃん食べる?」

「あ、いえ! 全然おかまいなく! 食べなくても平気ですのでっ」

「食べなくてもいいのは知ってるけど、食べて悪いこともないでしょ。妹が同じくらいの年齢だし、どうせなら仲良くしてもらえると嬉しい」

 意識的に口調を柔らかくして言うと、菱子は数瞬の逡巡を挟んで言った。

「そういうお話でしたら、ぜひお料理の手伝いをさせていただいてもいいですか?」

「そんな気を遣わなくていいよ。ピンクの奴なんか一ミリも家事手伝わないし」

「いえいえ。命を救っていただいて、あまつさえ一宿一飯のご恩までいただくのです。なにもしないわけにはいきません。それに、料理は少し手に覚えがあるので」

「そっか。なら手伝ってもらおうかな」

「はい!」

 破顔させて、彼女は元気にキッチンへついてきた。


「……………………誰」

 晩ご飯を並べた食卓にて、菱子を目の前にしたスズが露骨に声音を下げて尋ねた。

 相当な威圧感である。が、菱子はまったくビビる様子もなく、深々と頭を下げた。

「御津菱子と申します。先ほどアマネさんに助け……いえ、諸事情ありまして、行くアテがなかったので泊めていただくことになりました。ご迷惑をおかけいたします」

「おいアマネ。ちょっと来い」

 じっと菱子を見つめるスズは、やがて静かに席を立つとアマネを呼んで廊下へ出た。

 赤髪のハナたちをリビングに残して、ふたり向かい合う。

「あのガキとなにがあったんだよ」

「ガキっていうほど歳離れてないだろ」

「んなこたどうでもいい。あいつ、"植物人間"じゃねえか」

「わかるのか」

 目を見張った。腕の葉はきっちり隠しており、あとでこっそり話をとおしておこうと思っていた。

「においがすんだよ。アンタにはまだわからんだろうがな」

 アマネの心を見透かすように、スズはぶっきらぼうに言った。

「で、助けがどうのこうのって言いかけてたな。なんだあいつ死にかけてたのか」

「まあ、お前に助けてもらったときの俺と同じ感じだよ。路地裏で窒息しかけてて、とっさにな。で、日没まで時間がなかったから連れてきた。それだけ」

 アマネの端的な説明に、スズは「は~~~~~~~~~」深くため息をついた。

「アンタ、自分の置かれてる状況わかってんのか?」

「なにが問題なんだよ」

「アレが罠である可能性を考えろっていうんだよ。あの御津菱子とかいう女――本名かどうかも知らねえが、あいつが、あのおっさんの手先だったらどうすんだ」

「…………あのさ、」

 そんな片っ端から疑う生き方して楽しいか? 思わず口をつきそうになって、かろうじて飲みこんだ。煽ったところで話は進展しない。

「あのおっさんの目的について、以前話しただろ。上下関係はわからんが、おそらくあいつのバックには"植物人間"がいる。それがあのガキだって可能性がある」

「可能性だけ言うならなんでもありじゃねえか」

「考えてもみろ。アンタ、こないだまで"植物人間"の存在なんて知らなかっただろ? なのに"半・植物人間"になって一週間も経たないうちに新しい"植物人間"とエンカウントだ。偶然か?」

「……偶然だろ」

「アタシも、ハセ以外の"植物人間"に会ったのはあのガキでふたり目だ。そのくらい珍しい存在なんだよ。この片田舎に、あのおっさんのバックの"植物人間"と御津菱子という"植物人間"がそれぞれいたのか? 都合よく密集しすぎだと思わないか? 御津菱子があのおっさんのバックにいると考えたほうが自然だろ?」

 たしかにスズの言葉には理がある。アマネ自身、不自然さを感じていないと言ったらウソになる。

「たまたま偏ることだってあるだろ」

 それでも、アマネは否定した。

 確率の低い事象に必然性を見出そうとする思想があまり好きでないのと、なにより、菱子からもらった感謝の言葉がウソであったなど、ほっと安心した笑顔の裏でほくそえんでいたなどとは、考えたくなかった。

「こないだといい今回といい、アンタはつくづく希死念慮の強い奴だな。もう知らん」

 アマネの反論に、スズは吐き捨てるように呟くと階段を登っていってしまった。

 希死念慮。

 そういうんじゃないんだけどな、と、肩をすくめて、彼女の背中を見送った。守られている立場で偉そうに、と自分に対して思わないでもない。が、そもそも守らなくて良いと再三言っているのだ。文句を言われる道理はない。

 額に手をやり、己を落ち着かせるべく息を吐いた。

「すまん、待たせ……」

 リビングに戻り、つとめて明るく言おうとしたところで、二人の会話に遮られた。

「――二十代のおっさんがだよ。もーほんと最悪キモい」

「うわー、それはさすがにイヤだね。菱子ちゃん可哀相」

 この短時間ですでに打ち解けているらしい。ひとまずほっと胸をなでおろした。

「えらい仲良くなったみたいでよかったよ。なんの話してたの?」

「菱子ちゃんのお兄さんが朝、抱き着いて起こしてくるんだってさ。『菱ちゃん、おはよ(ハート)』って耳元に甘くささやいてくるみたい」

「……それはご愁傷さまというかなんというか」

「私はハナちゃんから、アマネさんが毎朝学校に行きたくないって叫んでいるお話を聞きました」

「え、ハナあれ聞こえてんの!?」

「普通にうるさいからやめて欲しい」

「すんませんでした……」

 しゅん、と小さくなると、ふたりはカラカラと笑った。


 異様な喉の渇きに、アマネはふと目を覚ました。スマホを確認すると、時刻は深夜の三時を過ぎたところだった。

 ベッドから降り、スズと菱子のふたつの山をまたぎ、ふらつく足で部屋を出た。電気つけっぱなしの階段を下りる。

 台所へたどり着くと、コップを手に取り、無造作に蛇口をひねった。

 一杯、二杯、三杯と飲み干し、四杯目の半分ほどで苦しくなり、シンクに捨てる。

 膝を曲げ、尻をつき、その場に縮こまった。

「…………クッソ。なんで……なんで、こんなに、渇くんだ……」

 うめくように呟く。

 バチバチと、雨が窓を叩く音が聞こえる。天気予報のとおり台風が順調に近づいてきているようだが、今のアマネにはそんなことを思い出している余裕はない。

 喉が強烈に渇くことは人間のころにもあった。味付けの濃いものを食べた日なんかは顕著だ。"半・植物人間"になってからは、慢性的にそういう状態だった。

 だが、今この瞬間のアマネの身体は、従来と比にならないほど、異様に渇いていた。

 飲んでも飲んでも足りない。まるで夢の中にいるように、どれだけ水分を取りこんでも身体が潤わない。胃が吸収してくれないかのような錯覚。

「なんなんだ……この、気持ちわりぃ……」

 アマネを苦しめるものは、渇きだけではなかった。

 ゴワゴワ。フワフワ。グルグル。どう表現したらいいだろうか。違和感としか呼称しようのない感覚。

 今、こうして家の中で雨風をしのいでいるという現実に対する、『なぜ』の感情。

 日の光を渇望し、屋根の下に存在することへの疑念を抱き、今すぐ外に駆け出したい衝動に駆られる。

 身体を抱えこむように両腕をぎゅっと握りしめる。今朝になってようやく薄皮一枚張った右腕が悲鳴を上げるが、今はその痛みすら、現実感という安心の粒をアマネにもたらした。

「くそっ」

 気持ち悪い。

 水で重たくなった腹も、渇き続ける身体も、狂い始める脳みそも全部。

 これが"植物人間"への変化というやつなのか。袖をまくり、右の前腕を確認する。

 夕方に長谷宅で確認したときとあまり変わらない、少し色合いの悪くなった芽。

 長谷は枯れかけと表現していた。

 だからなのだろうか。強烈な苦しみに喉を掻きむしってしまうのは。

 生きようとする芽の本能が、アマネの身体を犯しているのか。

「こんな……こんな、勝手に寄生しやがって……!」

 かっと熱くなるままに、左手で芽を掴む。衝動のまま力ずくで引っこ抜こうとして、

「ぁっっっっ!!!」

 声を抑えられたのは僥倖といえよう。脳細胞が全力で神経の抵抗を伝え、激痛にうずくまった。脂汗がふき出す。

 そうだった。一瞬遅れて思い出す。一番最初にやったことだ。

 こんなことで本当に人間に戻れるのだろうか。もう諦めたほうがいいのではないだろうか。そんな不安が脳裏をよぎる。

 けれどそれではこれまでの努力が、拷問に耐えてきた日々がすべて無に帰してしまう。それはあまりにももったいないし、割り切れるものではない。ならば結局どうすれば。

 ぐるぐると思考が巡る。進展性もなければ建設的でもない、ただ土を掘って埋めるだけの作業。

「アマネさん。落ち着いて」

 背中が、そっとなでられた。

「……菱子、ちゃん」

 振り向くと、菱子が隣に腰を下ろしていた。

 柔らかい笑み。中学生とは思えない慈愛の表情で彼女は丁寧に言った。

「アマネさん。大丈夫です。今が一番つらい時期ですから。これ以上ひどくはなりません。だから、怖がらなくていいです」

 上へ下へ、太陽のようにあたたかい手でゆっくりとなでられる。

「深呼吸をしましょう。ゆっくりです。す~~~、は~~~、す~~~、は~~~」

 彼女にならって、呼吸の速度を落とす。

「そうです。上手い上手い。いいですよ」

 数分の間、彼女に背中をさすってもらいながら。ゆっくりと、深く、呼吸を重ねた。

「きっと、大丈夫。大丈夫。アマネさんは大丈夫」

 やがて、少しずつ血流が落ち着いてきた。ささくれ立つ神経が徐々になめらかになっていく。

「ありがとう。菱子ちゃん。助かった。それと悪かった。起こしてしまったかな」

「いえ。……兄にも、以前、こうやっておまじないを唱えながら、背中をさすってもらったんです。なにかの映画のセリフらしくて。きっと大丈夫と」

 屈託ない笑みを見せた。

「その、さ。こんなタイミングでアレだけど、ひとつ訊いてもいい?」

「なんでしょう」

 小首をかしげる菱子に、アマネはぽつりと尋ねた。

「菱子ちゃんは、"植物人間"で良かったって思う?」

「…………」

「あ、悪い。なんでもない。忘れて」

 早口にまくしたてて立ち上がる。が、そんなアマネのシャツのすそをつまんで、菱子は落ち着いた声で答えた。

「人間に戻りたいですよ」

「……」

 菱子のまっすぐなまなざしに、アマネは一瞬たじろぎ、再び膝を折った。

「そうだよな。ごめん。イヤなこと聞いた」

 髪の毛をかき分け、ぐしゃりと握りしめる。

 "植物人間"も悪くないですよ。そんな言葉で不安を払拭させてほしかったのだろうか。内側に問いかけ、みっともないなと自嘲する。今日初めて会った年下の女の子に甘い言葉を期待して、結果、彼女の柔らかい部分をえぐってしまった。

「ですが、それは、兄のためなんです」

「お兄さんの?」

「私が"植物人間"になってから、兄はずっと私が人間に戻るための手段を探し続けてくれています。……もしかしたら、もう掴んでいるのかもしれませんけれど」

 菱子はぽつぽつと語った。

「だから、私は人間に戻らなければいけないんです。兄の努力が、選択が間違いでなかったと証明するために」

「そっか……菱子ちゃんは優しいな」

 兄に対しても、アマネに対しても。

 きっと、つらい思いも、死にそうな経験も何度もしてきただろう。

 それでも、彼女はこうして、他人のために生きることができる。

 常に自分のために生きているアマネには、まぶしすぎた。

「ですが今回、私が一方的に怒って家出をしてしまいましたから、きっと今、ものすごく心配していると思います。だから明日、ちゃんと家に帰って謝ろうと思います」

「そうだね。それがいいと思う」

「ところで私のほうからもひとつお聞きしたいんですけれど、ピンクの方……スズさんって、"植物人間"ですよね」

「わかるの?」

「なんとなく、今までお会いした方と、においが違ったもので。確証はなかったので、今のはほとんどカマをかけたような感じですけれど」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて言う。見た目よりもしたたかな子だな、と思った。

「スズさんとアマネさんはお付き合いされているんですか?」

「いやいやいやいやいや」

 思わず声が大きくなってしまい、慌てて口をつぐんだ。

「あら、違いましたか」

「全然まったくこれっぽっちも違う。ていうかそんなふうに見える?」

「年頃の男女が同じ屋根の下で暮らすといったら、そういうことなのかなと思ったのですが。鉄板ですし」

「それは漫画脳が過ぎる」

 冷静に突っこみを入れて、アマネはすくっと立ち上がった。

「そろそろ寝ようか。菱子ちゃんのおかげで、ずいぶん落ち着けた。ありがとう」

「一宿一飯のご恩を少しでもお返しできたなら、私も嬉しいです」

 そうしてふたりでリビングをあとにして、電気をつけっぱなしにした自室へ戻った。


  ●


 スズはあくびを噛み殺しながら、玄関で繰り広げられる別れの挨拶をぼんやり眺めた。

「たいへんお世話になりました」

 菱子が慇懃な態度で深く頭を下げた。

 彼女の背景では、台風の影響か、昨晩から降り始めた横殴りの雨はいまだざあざあと音を立て、分厚い雲に覆われた昼間の空気をさらにどんよりと淀ませていた。

「本当にこんな雨のなか大丈夫? 今日は帰るのやめといたほうがいいんじゃない?」

 アマネが心配そうに言う。

 今朝の天気予報では、昼過ぎには暴風警報が出るだろうから外出は控えましょうという話だった。人間的にも"植物人間"的にも、家の中で電気をつけてじっとしていたほうが生きやすい日であり、アマネの言葉は二重の意味で正しいといえた。

 とはいえ、彼の能天気ぶりには、さすがに心が波立つ感覚を覚える。

 こちらは菱子の存在に警戒心マックスで、布団の中、徹夜で警護していたというのに、馬鹿面下げて寝ていたかと思えばキッチンでふたりきりでおしゃべりして、またアホみたいに爆睡していた。そのうえまだ家に引き留めようとするとは、こいつは他人を疑うという機能をどこに置いてきたのだろうか。

 もっとも、今回に限ってはアマネの考えが間違っていたとも断言できないわけだが。

 菱子が寝静まっている間に彼女の身辺を確認したが、スマホもなければ服に発信機やそれに類するものが付着していることもなかった。

 このことから、スズはみっつの可能性を考えた。


 ①菱子はあの男とは無関係。シロ。

 ②あの男と繋がっており、なんらかの手段ですでにこの家を突き止められている。

 ③菱子はあの男と繋がっているが、この家の所在を伝えることができていない。


 ②だった場合、夜のうちに襲撃するのが最も効果的で成功率が高いから、この線は薄いとみていいだろう。そうなると①か③だが、やはり①と考えるのはこちらにとって都合が良すぎる。可能性はじゅうぶんにあるが、安全を見るならば③であると仮定して話を進めたほうがベターだろう。

「もう一泊でも二泊でも大丈夫だよ」

 事情を知らないハナも、この台風を前に引き留める。が、

「いえ。兄がきっと家でひとりさみしく待っていますので。はやく帰って、たまには優しくしてあげます」

 菱子はいたずらっぽく笑んで、きっぱりと言った。

「たいへん親切にしていただいて、傘までお借りしてしまって、本当にありがとうございます。傘はまた今度お返しに伺いますね」

「いいよあげる。でもまたうちに来るのは歓迎だから、近くに来たらいつでも寄って」

「はい! ありがとうございます!」

 アマネの言葉に菱子は顔をほころばせ、再び頭を下げた。

「送るよ」

 これでもうお別れ、という空気が流れたところで、スズは静かに口を開いた。

 現時点ではおそらく、家の場所はバレていない。それが意味するところは、つまり、このあとバレる可能性があるということだ。

 菱子をひとりにしたら、その時点であの男に連絡を取るかもしれない。

 この思考が杞憂ならば、それでもいい。彼女を家に送り届け、自分も帰ってこればいいだけだ。

「じゃあわたしもー!」

「ハナちゃんは危ないから駄目。これから風も強くなるみたいだし」

「えー」

 むくれるハナの頭を数度なで、スズは靴を履いた。

 不審げな目を向けるアマネから顔をそらし、「行こうか」菱子へ言って玄関を出た。

 激しい雨が傘を叩く。まだ風はそれほど強くないが、暴風域に入るのはこれからだ。

 薄暗い世界の中、酸素の薄さに呼吸が浅くなる。ひさしく雨天時に外出などしてこなかった。こんなことなら雨の日も頑張って登校するべきだっただろうか。

「あの」

 傘に半分顔の隠れた菱子が口を開いた。

「送っていただいて、ありがとうございます」

「いいよ。家どこ」

「電車で帰りますので、駅へ向かいます」

「わかった」

 スズは短く答えて隣の少女を注意深く観察した。

 昨晩、彼女はキッチンで、"半・植物人間"としての変化に苦しむアマネの背中をなで、彼の心に寄り添っていた。あれが果たして本物の良心からくるものなのか、あるいは油断させるためのペテンだったのか。正直なところ、いまだに判断がついていない。

 そんなことを考えながら凝視していたせいだろうか。菱子がおずおずと切り出した。

「あの、すみませんでした」

「なにが?」

「その、スズさんとアマネさんの大切なお時間をお邪魔してしまって……。もうアマネさんにはお会いしませんので、ご安心ください」

「もしかして、アタシとあいつが付き合ってると思ってる?」

 それは昨晩アマネが否定していたはずだが。そう思って尋ねる。

「いえ、お付き合いはされていないとお聞きしました。ただ、スズさんはおそらく、アマネさんをお好きなのだろうと思って」

「は?」

「あら、違いましたか? 私のことをかなりお邪魔に感じていらっしゃるようでしたので、てっきりそういうことなのだろうと思いこんでいました。申し訳ありません」

「…………」

 これはどっちだろう。頭が混乱する。ガチで言っているのか、注意をそらすために話しているのか。

「その、差し支えなければお聞きしたいのですが、スズさんはどうしてアマネさんのおうちに住まわれているのですか?」

「そういうのはアンタが先に話すもんじゃない? なんで昨日、あの家に来た?」

「そうですね。失礼しました。実は私、兄と喧嘩をしまして」

「それは聞いた」

「……いえ、喧嘩というのも、少しおかしいですね。兄が私のために傷つき、苦しむことに耐えられなかったんです。それで、家を飛び出してきてしまいました」

 どこかの甘ちゃんみたいなことを言うな、と思いながら黙って耳を傾ける。

「ですが、恥ずかしい話、ふだんは学校に行くこともなく家にこもっているものでして。いきなり外に出てもどうしたらいいかわからず、病院で用事だけ済ませて途方に暮れているうちに、うっかり暗いところへ足を踏み入れてしまいました」

「そこをアイツが助けたと」

「はい。私にライトを当ててくださった瞬間は、神様の存在を信じかけました」

 過言ではないかと思ったが、九死に一生を得た人間が神の存在を意識するようになったなんていう話はよく聞くし、案外そういうものなのかもしれない。

「で、アンタの兄貴はなにしてんの? アタシも"植物人間"が人間に戻る手段なんて知らないし、あるなら教えてほしいんだけど」

 "半・植物人間"の根を食う。半信半疑のその知識を隠してカマをかけてみた。

「具体的になにをしているのかは教えてくれません。いつも仕事だと言って家を出て行きますが、本当に仕事なのかどうかもよくわからないです。ただ、この街にきてからは少し、目が笑っていないことが多かったです」

「ふぅん」

 なにも情報が出ないな、と思っていたら、菱子が傘をうしろに傾け、意志の強そうな瞳を向けてきた。

「スズさん。最近、私の兄と出会いませんでしたか」

「アンタの兄貴がどんななのか知らないんだけど」

「フリーの記者をしているので、いつもウエストポーチにカメラを入れて出かけます。背は180くらいであごヒゲをもじゃもじゃさせてるうさんくさい雰囲気の……」

 鞄から手帳を取り出し、その中に挟まる写真を見せてきた。

「この人です」

 それは、まさしく、あの男だった。

「……………………そうだね。この人とは、会ったことがあるよ」

 脳内の記憶を探るフリをしながら答えを考えた。

「本当ですか! その、兄が、ご迷惑をおかけしていないでしょうか」

「……いや、大丈夫だよ」

「そうですか……」

 菱子はほっと、安心したような表情を浮かべた。

 そんな彼女を見ながら、スズの中でひとつ、疑念が首をもたげた。

 もしかして、本当にこの少女はなにも知らないのでは?

 その可能性に、いや違うと首を振る。

 演技という可能性を捨ててはいけない。この手の話はできる限り都合の悪い展開を想定しておくべきである。こうして自分を信用させて油断したところで連絡を取る作戦ということもじゅうぶんに考えられる。もしくはそもそも引き付けることが――

「まさか」

 血の気の引く予感に、スズは慌ててスマホを取り出した。傘が傾いて雨粒が降りかかるが気にしている場合ではない。アマネに通話をかける。

 数コール鳴らすが、出ない。苛立たしげに切って、今度はハナへかけた。

『スズさん、どうし「ハナちゃん! 今大丈夫!?」

 今度は出た。ハナの言葉にかぶせる。

『え、なに、どうしたんですか!?』

「ハナちゃん! 家! なんともない!?」

『なにもないで『ハナ! 逃げるぞ!』

 電話口の向こうからアマネの声が届いた。

『え、ちょ、なに兄貴ノックもしないで』

『いいから! 電話してる場合じゃ――』

 瞬間、ガツン、と鈍い音が遠く響く。

 電話の落下。慌ただしげにその場から離れる足音だけが届いた。

「ハナちゃん! アマネ! おい!!」

 電話口に呼びかけるも、反応はない。

「クソッ」

 スマホを荒々しくポケットに突っこむ。

「スズさん、どうなさったんでごほっ!!」

 眉根を寄せ、上目遣いに尋ねてくる菱子の腹に、一発重い拳を見舞った。

 身体をくの字に折り、彼女はその場にうずくまった。傘を落とし、咳きこみながら目を見開いてこちらを見上げてくる。

「ど、どうしがっっ!」

 傘を捨てたスズはもう一発、彼女の顔面に拳をめりこませた。

 雨粒たちが、温度を奪っていくのが分かった。

 自分は間違っていなかった。その確信の元、倒れ伏す彼女に「げぇっ!!」蹴りを見舞い、彼女の意識を刈り取ったことを確認すると、スズは来た道を全速力で引き返した。

 致命的な凡ミスに歯噛みする。

 "植物人間"にとっての決定的な弱点は夜である。片っ端から電気を破壊するだけで、スズもアマネも詰むから。

 だから、家を狙われるとしたら、夜だと決めつけていた。

 少なくとも、逆の立場なら、スズは間違いなく夜に忍びこんで、こっそり電気を消して回る。それが、おそう側にとって、校舎裏での戦いや遠足先での死闘のようなリスクを負わなくて済む、コスパ最強の手段だ。

 その思いこみを、逆手に取られた。

 とっくに家の位置などバレていて、自分だけが家を出ているタイミング――すなわち最も家が手薄になる局面を待たれていたのだ。

「クソクソクソクソクソ! クッソ!!!」

 沸騰する感情のままに叫んだ。

 見事にハメられた自分に。狡猾に、周到にチャンスを待っていた寛に。最後の局面に至ってまで自分を騙そうとしてきた菱子に。

 だが、まだ事態は最悪ではない。

 スズさえ家に帰れば、戦力差は逆転する。

 うまく隙をついて菱子を無力化できたのが大きい。彼女の戦闘力がどれほどかは知らないが、"植物人間"である以上、寛より厄介であろう。

 とはいえ、今日は天気が最悪。台風まで見越して菱子を遣わせたのだとしたら、策士としか言いようがない。

 空を覆う分厚い雲を睨みつけ、雨が目にしみる。かぶりを振って、今はとにかく一秒でも早く帰るしかないと、はち切れそうな肺に活を入れてアスファルトを蹴った。


  ●


 菱子たちを見送ったあと、玄関の扉を閉めてアマネは言った。

「デコトラが帰ってきたら昼飯にするか」

「わかった。また呼んで」

 短く答えて、ハナは階段を登って行った。

 彼女の赤い髪を眺めながら、アマネは自身の頬が緩むのが分かった。

 変わったな、と思う。

 スズが来てからだ。

 学校に行かず、引きこもりきりで、顔が合ってもすぐにそらす、会話もない日々。

 それがこの一週間で、同じ食卓を囲むようになった。

 スズのことは嫌いだし、あんなふうになりたくないとは今でも強く思っている。

 が、それと同じくらい、感謝もしていた。

 アマネにとって、家に存在するのは孤独感だけで、だからこそ外に他人との繋がりを求めていた。できる限りたくさんの友人を作ることで、寂しさを埋めようとした。

 友達は質より数。その考え方は今でも変わっていないが、しかし"半・植物人間"になる前と比べると、少しだけ内側からひっかいてくる焦燥感が落ち着いたように感じる。

 それは、まぎれもなくスズのおかげであった。

「だからこそ、か」

 人間に戻らなければ、と、拳を強くにぎりしめる。

 ハナがスズを受け入れ、アマネともコミュニケーションを取り始めているのは、"植物人間"である事実を知らないからだ。

 腕にお花畑を生やしている人間など、誰がどう見ても異常で、異端で、排除すべき存在だ。なにかの拍子に"植物人間"であることがばれたら、きっと、また元どおりだろう。

 一度得たものを失うことほどつらいことはない。

 だからこそ、絶対に見つかってはいけないし、なんとしてでもあと一週間前後の時間制限のうちに人間に戻り切らなければならない。

 決意をあらたにキッチンへ向かう。たまにはスズの好物を作ってやろう。そんなことを思ったが、そもそも彼女の好物など知らなかった。それはまた今度にするとして、今日はカレーでいいかと冷蔵庫から材料を取りだし、食材を刻む。

 玄関のほうから、カチリと鍵の開く音がした。

 スズか? 最初に浮かんだ候補をすぐに否定する。彼女には鍵を渡していない。

 ならばハナが出かけようとしているのだろうか。こんな台風が近づいている中危なすぎる。さすがに止めるべきだろう。一旦火を止めて玄関へ顔をのぞかせ、

「ハナ――」

 心臓が止まったかと思った。

 玄関に立っていたのは、暗幕を抱えた、びしょ濡れの、うさんくさい男。寛だった。

 全身が総毛立つ。

 血液が逆流したような感覚。

 脳がなにかを思考する前に、足が動いた。

 キッチンへ戻る。裏口から逃げるしかない。

 が、そこへ至って足が止まった。

 このまま裏口から出れば逃げられるだろう。が、二階にはハナがいる。

 最悪、彼女を人質に取られるかもしれない。

「~~~~~~!!」

 コンマ数秒の葛藤。そのわずかな時間さえ惜しい。再び廊下へ足を踏み出し、玄関からこちらへ駆ける寛から逃げるように階段へ足を踏み出した。

 二段飛ばしで駆けあがり、「ハナ! 逃げるぞ!」叫びながら一直線にハナの部屋を開けた。

 なにか電話をしているが、そんな状況ではない。

「え、ちょ、なに兄貴ノックもしないで」

「いいから! 電話なんてしてる場合じゃない!」

 目を丸くして抗議するハナ。

 アマネは彼女の部屋の窓を開けた。

 雨風が強く吹きこみ、思わず両腕を眼前にかざす。

 昼間とはいえこの悪天候だ。"植物人間"的には最悪と言えた。

「強盗だ! 逃げなきゃ殺されガッ!」

 抵抗する彼女を引っ張っていると、かちりという音とともに部屋が暗くなり、脇腹に衝撃が走った。

 この痛みには記憶がある。そう思いながら重たい動きで視線を下へ向けると、血染めのナイフが転がっていた。

「……結局ソレなのかよ」

 顔を上げると、扉の向こう、どこに捨ててきたのか暗幕を手放した寛が、鋭い光を瞳に宿らせて、部屋に足を踏み入れてきていた。

「おっさん、海外出身か?」

 土足のままずかずかと踏みこんでくる寛へ、窓枠へ足をかけたまま軽口をたたいてみせた。

 が、当の本人はまったく答えず、じりじりと距離を詰めてくる。周囲への警戒を怠らず慎重に歩を進めるのは、アウェイでの戦い方を熟知しているからだろうか。

「アニキ! 大丈夫!?」

「いいから! お前は逃げろ!」

 押し合いへし合うふたり。無表情に見つめてくる寛は、再びポーチからナイフを取り出し投擲した。

 重い腕を反射的に眼前にかざす。人間の本能だろう。

 だが、来ると思われた痛みは、アマネの身体には来なかった。

 かわりに、

「ぐ、ぎゃああああああああ!!」

 ハナの叫び声。

 ハナの目の下、左頬のあたりに刺さっていた。

「い、いっだああああああああああああ!!!」

 悲鳴とも唸り声ともつかない声。

「おいお前! 狙いは俺だろ! ハナは関係ねえだろ!?」

「そいつを逃がしたら、オマエも逃げるだろ」

 アマネの問いかけに、寛が語気強く、しかし静かに答えた。

「オレは甘かった。他人を巻きこまないよう、気遣って、手段を選んで、最低限の規模で終わらせようとしていた。だから駄目だったんだ」

 ぽつぽつと、己に言い聞かせるように寛が呟く。薄暗いフローリングに沈みこみそうな、重たい声。

「もう手段は選ばない。最終局面だ」

 他人を巻きこみ、殺し、罪を背負う覚悟。

 睨みつけるように、寛の瞳はふたりをロックオンした。

 これは、もうだめかもしれない。アマネの内側のナニカがそう覚悟を決めたとき、

「アニキ」

 どん、と身体を押され、足が支えを失った。

 スローモーションの数瞬を要して、ようやくなにが起こったのか理解した。

 ハナが自分を窓から外へ突き落としていた。

 逃がすために。

 雨粒と強風に煽られ、重力に従って高度を下げる身体。

「わたしもあとで行く」

 台風の音に遮られて聞こえないはずのハナの声が、たしかに聞こえた気がして、次の瞬間、「ぐはっ」アスファルトに背中から着地した。

 背中と脇腹に激痛が走るが、それどころではない。

 反射的に身体を起こして窓を見上げると、ハナと男が取っ組み合っていた。

 まずい。まずいまずいまずい。

 血の気が引く。

 寛は手段を選ばないと言っていた。まず間違いなく、ハナを人質にするだろう。

 それに、ハナ自身、頬に傷を負っている。よしんば逃げられたとして、傷の大きさによっては命が危ない。

 どうする。

 どうする。

 どうしたらいい。

 焦燥で目がぐるぐるする。

「……落ち着け、俺」

 ばちんと両の頬を叩く。

 おそらく、ハナを今すぐ殺すようなことはしないはずだ。寛の目的からして、標的はアマネだ。人質を殺すのは手札を失うのと同義だ。そんな無駄なことはしない。

 ならば、長谷の家へ向かい、完全に人間に戻るのはどうだろうか。

 うず、と動きかけた足を殴りつける。

 違う。違う。そうじゃない。

 人間に戻れるかどうかもわからないのにそんなことをしたって意味がない。

 手段を選ばないと言っていた。殺しはしないだろうが、アマネを呼びだすためにハナを拷問するくらいならありうる。

 都合のいいシナリオを描くな。最悪の事態を想定しろ。

 心に刻む。

 スズを電話で呼び出すか。スマホをポケットから取り出し、不在着信の存在に気づいた。スズからのソレだ。

 リダイヤルしようとして、指を止めた。

 目を閉じ、首を振る。

 違う。これも違う。

 スズは関係ない。

 これは自分の問題なのだ。

 もう解決策はわかっている。

 だからあとは、自分の、覚悟の問題。

 二兎追うものは一兎も得ず。

 最高の結果を求めたとき、笑顔ですり寄ってくるのは、最悪のほうなのだ。

 自分の代わりにスズが傷つくのは、もうごめんだ。

「ふぅーーーーーーーーーーーーーーーーーー…………」

 深く、深く息を吐く。

 身体中の二酸化炭素を排出し、そして、大きく酸素を取りこむ。

 ギン、と上を向く。

 明鏡止水とまでは言わないが、波立っていた身体の内側に静寂を取り戻した。

 強い熱をともなって。

「ぎゃぁっ!!」

 ハナの悲鳴が聞こえてくる。同時にアマネは駆けた。家をぐるっと回り玄関へ。スイッチをつけると明かりが灯った。ブレーカーが落ちていないことにほっと息をつく。

 音を立てないよう、しかし迅速に、ぐしょぐしょの靴下のまま廊下を駆け、階段へ踏み出し……そこで足が止まった。

「チッ」

 小さく舌打ちをする。

 上でやり取りをしていたときは気づかなかったが、階段の電気が消されている。

 こういう事態を予期していたのだろうか。寛がわざと消したとみえる。

 電気をつけなければこの暗がりのとおり抜けは難しいが、つければ今ここにいることがバレてしまう。二律背反を突き付けてきたというわけだ。

 さあ、どうするか。数瞬の思案。おもむろにポケットからスマホを取り出した。

 科学館でスズが言っていた。服の中をライトで照らせば、夜空を見る程度の視力は確保できると。

 ならばと、スマホのライトを最大にして、右腕、袖の中に隠した。

 スズの言っていたライトと比べたらさすがに照度は物足りないだろう。おそらく、視界はかなり制限される。呼吸もほぼできない。身体の動きも鈍くなる。

 それでも、芽の部分にピンポイントに最大限の明かりを当てれば、身動きくらいはできるだろう。なら、手すりを掴めば上れないこともない。

 アマネは階段から一度足を外し、廊下で深呼吸を挟んだ。

 大丈夫。きっと大丈夫。震える膝を押さえて己に言い聞かせる。

 散々、長谷宅で拷問を受けてきたのだ。

 二分、三分の窒息程度何度でも繰り返してきた。

 だから、このくらいなら乗り切れる。

 覚悟を決め、再び階段へ足を踏みこんだ。

 腕の芽に当てたスマホのライトを頼りに一歩一歩緩慢ながら力強く歩く。

 苦しい。身体が重たい。少しでも気を抜くと身体がバランスを失い、後頭部から重力に引っ張られそうになる。

「……っ」

 想定以上に苦しくなるのが早い。

 当然だ。普段の窒息は椅子に座ってじっと耐えているだけだ。無酸素運動となればまた話は違う。

 苦しい。

 怖い。

 リアルな死の恐怖が、つま先から頭へ走り抜ける。

 それがなんだ。

 アマネは弱音を吐く本能を押しつぶした。

 スズは、葉を切り裂かれ、ショック死するほどの痛みを無表情に耐えた。

 ハナだって、頬をナイフで突かれ、恐怖と痛みで気がおかしくなりそうな中、彼女自身よりもアマネの安全を優先した。

 ならば、自分こそ。自分こそが、彼女らを守らなければならない。

 そう心の内で強く宣言し、大きく踏み出し――足元に違和感を覚えた。

 同時に、ずる、と足が滑った。寛の持ってきていた暗幕が仕掛けられていたのだと、身体が傾いてから気づいた。

「ぐぅっ!?」

 反射的に手すりを掴む手に力をこめる。階段を中ほどまできたところだ。今落ちたら無事では済まない。

「かかったな!」

 漏れた声を感知されたのだろう。寛のドタドタと駆けてくる音が遠い聴覚に届いた。

 まずい。背中をイヤな汗がつたう。

 階段から落ちそうなところを、かろうじてこらえている状況だ。寛の攻撃に対応する余裕などない。

 どうする。どうすればいい。思考を回す暇もなく寛の足音が急速に近づいてくる。

「くっ!」

 その判断は、ほとんど直感だった。

 階段を蹴った。ふわっと身体が宙を舞い、背面へ跳ぶ。

 光がないならば、光のあるところまで戻れば良い。

 その単純な発想のもと、階段のふもとまで落ち、そして「がはっ!」受け身も取れずに背中から廊下に叩きつけられた。

 まともに打ち付けた後頭部を両手で抱え、それでも歯を食いしばって首を持ち上げ、涙目で階段を見上げる。

 ドスドスと暗闇の奥から寛が駆け下りてきていた。

 のたうち回っている時間などない。鈍痛を訴えてくる頭を押さえ、次の手を考える。

 どうにかして部屋に戻らなければならない。

 それはすなわち、寛の追撃をかわし、階段を駆け上がるということだ。

 なんとかすりぬけて、階段の電気をつけて、ひとっ跳びに階段を駆け上がれば、あるいは切り抜けられるだろうか。だが道中で電気を消されれば身動きが取れなくなり死ぬ。あまりにリスキーだ。

 どうする。どうする。

 焦燥に駆られる脳みそで必死に考える。なにか。なにかアイディアはないか。

「でぇっ!?」

 瞬間、鈍器を打ち付けたような鈍い音とともに、寛がつんのめった。

「なっ!?」

 のしかかるように落ちてくる寛。すんでのところで避ける。同時に、

「アニキ!」

 ハナの声が階段の上から響いた。

 とっさに、叫んだ。

「俺の部屋の瓶! 頼む!」

 ゆっくり説明している時間はない。最低限の単語と助詞だけで伝える。

 意味合いが伝わったかはわからないが、「わ、わかった!」ハナはドタドタと廊下を駆けだした。

 同時に、寛の身体がゆらりと起き上がった。

「ってえな、くそ」

 ナイフを持った右手で頭をおさえて、しかしアマネをまっすぐにらみつけてくる。

 はええな、と小さく舌打ち。

 できればハナが戻ってくるまでのたうっていてほしかった。

「おっさん、アンタ、妹さんがいるんじゃないか?」

「……時間稼ぎには乗らねえぞ」

「そうじゃねえよ。ただ、人の妹をキズモノにしといぐぁっっ!」

「乗らねえっつってんだろ」

 感情の薄い声。

 反対側の脇腹を裂く鋭い痛み。

「オマエが芽を差し出すなら、あのガキには手出ししねえ」

 寛が冷たい声で言う。

 だが、アマネの耳にはもう、彼の声は届いていなかった。

「全力で投げろ! 目つむれ!」

 寛の奥、階段の上へ叫ぶ。

 直後。

 瓶の割れる音。

 爆音と、世界から色を奪う、まばゆい輝き。

 ハナの手によって放たれた閃光弾が、空間のすべてを白に塗りつぶした。

 長谷お手製の爆弾による支配。

 それは、コンマ数秒のうちに解かれ、再び部屋に元の暗さが戻る。

 だが、どうやら、それでじゅうぶんだったらしい。

 アマネの芽は、強烈な光を存分に喰らい、己の栄養とし、みずみずしく立派な葉へと進化していた。

 "植物人間"としての、完全成長。

 一方の寛は、いまだ身体をくの字に折って、目と耳を必死にふさいでいる。

 今のうちに逃げれば。そう思考した次の瞬間、

「うっ……なん、これ……」

 アマネは、身体を動かすことができなかった。

 吐き気。激痛。息苦しさ。身体の内側がむず痒く、言葉では表現しえない違和感が身体中を駆け巡る。

「うっ……ぐっ……やば…………」

 頭を抱え、膝を折ってその場に沈みこむ。

 今が好機であると、ハナの手を取ってすぐにこの場から逃げなければと理性の部分では理解しているのに、脳のもう半分と全身の筋肉がそれを拒絶する。

 そういえばこの閃光弾をもらうとき、長谷が言っていた。

 諸刃の剣だから、必ず助かるとは限らない、と。

 副作用のようなものだろうか。わからない。どうでもいい。今はそんなことよりとにかく逃げなければ。混濁する思考が脳内を駆けまわるが、滑車を回すようにひたすら同じ地点でぐるぐるするだけで、状況が進展しない。

「クッソ……ガキが…………"植物人間"に、なりやがって」

 フラフラと力を失いながら、しかし確実に怒りをはらんだ寛の声が耳に届いた。

 そこで、ようやく思い出した。

 この作戦の真の狙いを。

 寛の襲撃からハナを守るために取りうる手段はふたつあった。

 ひとつは、自身の芽を差し出すこと。

 最初は、これでいいかと思った。死ぬのは怖い。痛いのもイヤ。だが、それでも、"植物人間"になるよりはマシだ。

 窓から突き落とされた先でそう考えた。

 だが、その瞬間、アマネを突き落としたときのハナの顔が脳裏をよぎった。

 悲しむかどうかはわからない。ただ少なくとも、今ここで命を差し出せば、彼女が一生引きずるだろうことは容易に想像がついた。

 自分の死で他人の心に一生消えない傷をつける。

 それはアマネにとって本懐だった。

 だったはずなのだが。

 スズから悪い影響を受けてしまっただろうか。どうにも、ハナの人生に傷痕を残すことが、受け入れがたかった。

 だから、アマネはもうひとつの手段を選んだ。

 "半・植物人間"から"植物人間"への完全成長。

 それを最も阻止したかったのは、その実アマネではない。目の前の、満身創痍ながら鋭く睨みつけてくる男だ。

 "半・植物人間"の芽。それが、寛の目的だからだ。

 ならば、アマネが"半・植物人間"でなくなり、芽が葉へと成長した以上、もうハナを人質に取る理由も、アマネにナイフを突きつける理由もない。

 肉を切らせて骨を断つ。

 その作戦は、成功した。

 その事実に、ほっと安堵の息をついた。

 終わったのだ。

 普通の生活こそ未来永劫奪われることとなったが、それでも、ハナの命を、これからの人生を救うことができた。

 だから、これで良かった。

 良かったのだ。

「仕方ねえ。プランBだ」

 良かっ…………プランB?

 寛の声に、いまだスッキリしない頭の中に疑問符が浮かぶ。

 次の瞬間、

「がぁっ!?!?」

 押し倒されると同時、乱雑に引き抜かれたナイフが、左の二の腕、芽に突き刺さった。

 目を白黒させ顔を上げる。

 恐ろしいほどに表情をなくした男が、じっとアマネを見つめていた。

「死にたくなければ――」

 男は言葉のさなか、刺さったナイフをねじった。

 裂かれた肉がぐちゃりと広がる。

「ぐぁああああああっっっ!!!

 気を失うほどの激痛。いや、一瞬本当に意識が飛んだが、ナイフを引っこ抜かれる衝撃で再び戻ってきた。

「死にたくなければ、開花しろ」

 ザクッ。

「開花しろ」

 ザクッ。

「開花」

 ザクッ。

「開花開花開花」

 ザクザクザク。

 まな板の肉に包丁を突き立てるように。寛は何度も何度もアマネの腕を掘った。

「がああああああああああああああああああああっっっ!!!!」

 アマネは声が枯れるほど叫び、もがき、噴き出す血と脂汗を飛ばした。

 あまりの激痛にチカチカと星がちらつく。

 死ぬ。殺される。

 リアルな未来として脳裏をよぎる。

 この男は本気だ。本気で殺しにかかっている。

 なんと言った。この男は。

 激痛に悲鳴を上げ続ける脳細胞を使って必死に思い出す。

 開花しろ。そう言ったか。

 開花。一番最初、彼におそわれていたスズが空に腕をかざし、花を咲かせたあの行動のことだろう。

 思い出し、そして合点がいった。

 つまりこの男は、あのときと同様アマネが開花して、ハナに受粉させ、ハナの根を引っこ抜こうという算段なのだろう。

 なるほど、最悪だ。

 ため息をつく余裕もないが、絶望するにはじゅうぶんすぎる情報だった。

 まかり間違ってもハナに受粉などさせるわけにはいかない。

 だが、開花による身体能力の向上、傷の修復を抜きにこの男の支配から逃れることは不可能だろう。

 つまるところ、アマネは現時点で詰んでいるのだった。

「ぐぁぁあああ…………ハナ……………………逃、げろ」

 階段の上、顔を真っ青にし、焦点の合わない瞳で虚ろに見下ろすハナへ言う。

 心の安全を守るべく、おそらく脳が機能停止しているのだろう。

 そんな状態の彼女に、アマネのささやくような声量が届くわけもなく、ただ肉を穿つ音が上書きする。

 あぁ、これはもう終わったか。視界が薄く、暗く消えてゆく。意識が遠く、だんだんと男の声も小さく……――

 ドゴォッ!! と、爆発を思わせる激しい音がアマネの意識を引っ張り上げた。

 アマネの頭上を覆うように馬乗りになっていた男が、吹っ飛んだ。

 なにが起こったのか理解できないまま瞼をパチパチとしていると、スズがこちらを見下ろしていた。

「よおバケモノ。助けにきたぜ」

「……悪いな。ハナを連れて逃げっでえ!!」

 無造作に腰を掴み持ち上げられ、ずたずたにされた左腕が悲鳴を上げた。

「どっちも連れてくに決まってんだろ」

 それだけ言うと、スズはアマネを肩に担ぎ、階段を駆け上がり、ハナの手を取った。

「行くよ!」

「え、は、はい!」

 いまだ状況を理解できていなさそうなハナの手を引き、階下から睨みつけてくる寛を放置して、ハナの部屋から外へ飛び降りた。

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